上呂

上呂
飛騨支路・上呂
上呂 じょうろ  下呂市萩原町
 益田(ました)川左岸の段丘上に位置する。東は急峻な山を背にし、西は益田川の広い川原をはさんで羽根と相対する。旧来の益田街道は現在の国道と左右に離合しながら南の萩原方面より北進し、宮田を経て小坂(おさか)に達していた。古代は上呂より尾崎に渡り、山之口川に沿って上る位山(くらいやま)峠を越すのが官道で、地名の由来は古代の駅伝制の上留(かみのとまり)駅が音読され、用字が変化したのであろうという(後風土記)。益田川下流には中呂・下呂(げろ)がある。
〔中世〕上呂郷 室町期から見える郷名。飛騨国益田郡のうち。初見は応永19年8月15日付の久津八幡宮本殿再建の棟札で「益田郡上呂郷 久津八幡宮」と見える。
〔近世〕上呂村 江戸期~明治8年の村名。飛騨国益田郡上呂郷のうち。
〔近代〕上呂 明治8年~現在の大字名。はじめ三郷村上呂組と称し、明治22年からは三郷村、同30年からは萩原町の大字となる。
<引用文献>
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
禅昌寺遺跡の遺構
 この付近一帯からは、縄文後期(1,000年前)の土器片や石器類が数多く出土しており、 1971年4月5日、山門前にある自動車教習所の敷地造成中に、大きな石を小さな石で囲む環状列石(ストーンサークル)が発見された。
*説明版より
袈裟襷紋銅鐸 けさだすきもんどうたく 筒井平(つついだいら)遺跡出土
 昭和7年、国鉄高山線の工事中、萩原町上呂龍(りゅう)泉(せん)寺(じ)観音堂西側の地下3.6mの地点より、高さ約30cmの小さな2個の銅鐸が発見された。
 銅鐸は何に使われたのかはっきりしないが、集落を見おろす小高い場所で発見されているところから、まじないか、祭りに使ったなどの説がある。
 現在岐阜県には、5個の銅鐸が発見されている。なかでも上呂の発見地は、全国の銅鐸出土地の東北限となっている。
 この発見で、弥生時代(約2,000年前)の青銅器を使う新しい文化が、この地までおよんでいたことがわかる。
*萩原町誌ほか
諏訪神社誌
 花園天皇の御代文保2年(1318)御前山々中にあった真乗寺(真言宗)で金山町祖師野八幡神社の要請により大般若経並十六善神書写発願、この大般若経の裏書によって後醍醐天皇の御代嘉歴2年(1327)に至る10年間にわたって萩原に七堂伽藍を備えた大寺真勝寺が造営され、この時真勝寺の守護神として諏訪上社(祭神建御名方神)が勧請されたことが記録されている。
 応永19年(1412)桜洞城主白井太郎俊国が能面を諏訪神社に奉納。(この年久津八幡宮本殿再建さる)
 永正11年(1514)信州諏訪の産で、当時益田郡を制した三木氏に仕えた上村住人内記新七郎頼定が諏訪下社(八坂刀売命)を勧請する。
 天正14年(1586)三木氏が滅び、金森氏の飛騨領有に当り美濃鉈尾山城主佐藤六左衛門秀方に命じて諏訪神社を上村の大覚寺南東山麓に遷し、諏訪城を築いた。
 移転前には神社近くに真言宗の小庵があり別当寺となっていた。
 ちなみに大寺真勝寺は飛騨萩原駅から益田高校にかけての萩原上段の大部を境内としていたがいつ消失したのか記録がなく、寺田、石橋、塚田、縁の花、柳坪、みさ田などの字名を遺しているに過ぎない。
 元和2年(1616)能州の住人岡部長左衛門元成、諏訪大明神は府中の総社である、として天照皇大神を勧請した。(起請文は大覚寺所蔵)
 延宝4年(1676)領主金森頼旹が上社及び下社の社殿を新造、元禄5年(1692)金森氏が奥州へ移封となり諏訪城廃止後金森氏が旅館としていたのも破却されたので、宝永6年(1709)120余年ぶりで上村から社殿を旧地に復し同時に拝殿を改築、以来修復を重ねて現在に至る。なお境内にある摂社は略す。
*萩原町誌より
桜(さくら)洞(ぼら)城(じょう)祉(し)(冬城・古城)
 応仁(おうにん)の乱(らん)(1467~1477)の後、およそ100年間は戦国時代と言われ、各地の武将が領地を広げようと争っていた。
 このころ、飛騨国の守護であった京極家の家臣として南部で勢力を持つようになった三木氏は、永正のころ(1504~)萩原に桜洞城を築き、これを拠点に飛騨の統一をはかろうとしたのである。
 城の築城は、3代の重頼(しげより)のとき始められ、4代・直頼(なおより)のときに完成したと言われ、いまでは、わずかに土塁や空堀が残るのみであるが西北の端より南へ180mにわたって築かれていた。
 桜洞城には、直頼・良頼(よしより)・自綱(よりつな)の3代にわたり居城したが、天正7年(1579)、高山の松倉(まつくら)に新城を築いて進出。城主は冬期のみここに留まったので「冬城(ふゆじろ)」と呼ぶようになった。
 また、天正13年(1585)三木氏を滅ぼした金森氏が諏訪城を築き、その新城に対し「古城(ふるじろ)」とも呼ばれることとなったのである。今でも、桜洞城祉一帯の字名は、古城と言う。
 萩原町文化財指定史跡
*説明版より