国指定 重要文化財 荒川家住宅(母屋・土蔵)

国指定 重要文化財 荒川家住宅(母屋・土蔵)
所在地 岐阜県高山市丹生川町大谷141
指定日 昭和46年12月28日
荒川家は、天正年間に当町の肝煎をつとめたと伝える旧家で、元禄以来代々周辺6ヶ村の業帯名主をつとめていた。
この住宅は、母屋棟札により寛政8年(1796年)土蔵は普請文書及び2階床板墨書などから延享4年(1747年)に建築されたことを知ることができる。
母屋は、桁行11間、梁間8間、2階建切妻造りの大型住居で、正面外観は出桁を腕木でうける小庇をつけ、また差物や軒桁にかなりの巨木を用いて横の線をつよめるとともに、2階正面の格子窓と2段に通る貫の細い直線的交叉をみせるなど、かなり洗練された立面意匠をあらわしている。土蔵は、桁行3間、梁間2間、2階建切妻造、妻入りで東側は片流れの蔵前が付く、蔵前は、主屋の建設前に奥行1間半、2階切妻造りに改造したものと考えられる。
江戸時代における飛騨国の国境は、標高が三千メートルもある山脈の尾根上にある。厳しい山脈に四方を囲われている飛騨だが、東の江戸へ、南の尾張へ、西の越前へ、北の越中へと、物資運搬や人の移動には街道が必要であった。
丹生川地域にも信州へと通じる街道があり、「平湯街道」また、ある時期には「信州への道」として大きな役割を果たして来た。その道筋は町方、坊方、大谷、小野、平湯、安房峠へと進むが、坊方から小八賀川を渡って日当たりのよい北方、法力、瓜田を通る道もあった。
この平湯街道沿いの大谷集落に、国指定重要文化財の名建築旧荒川家住宅がある。大谷という所は戦国時代から戦略上の重要な場所で、「森ケ城」という戦国時代の山城が大谷にある。また、朝日、岩井町方面から信州方面への道筋上にあって、重要拠点に荒川氏が配置されたのであろう。
荒川家は四百年前に金森氏が国主になった頃から肝煎りを務め、元禄時代(幕府直轄地時代)には大谷、小野、根方、白井、芦谷、板殿の六カ村兼帯名主を務めていた。
間口十一間、梁間八間半の大型農家で、寛政八年(一七九六)建の棟札が残る。
裏手にある土蔵も古く、延亨四年(一七四七)の普請帳が伝わっている。内部の間取りは四ツ出居が一段高く造られ、慶弔行事、村方寄り合いに都合がよい大広間として利用された。農家なので向かって左手に馬屋がある。二階はイロリの煙が上がりやすいスノコ天井で、広大な養蚕作業場が確保されている。
建物の外観は板葺きで質素に見えるが、内部は良材を駆使して飛騨の匠の高度な技術で造作をしている。玄関を入って右手にオエというアガリタテがあるが、上をみると巨大な「ウシバリ」という構造材が架かっている。この梁が荒川家の見所である。長さが四間で、この寸法の間に柱が無いために建具が四間幅で取り外すことが出来る。
オエの奥に、気持のよい巨大空間の四ツ出居が見渡せ、贅沢な大広間が用意できる。平成二十四年に林格男先生を講師に、この荒川家で大原騒動講演会を開催したときには、百二十人ほどが入室できている。百人収容の空間は日本の集落、地域、同好のグループなどのコミュニティ創造に役立って来たのである。
ところで、荒川家の土蔵普請帳には、当時の建前から完成するまでに、親戚や近隣の人たちが人足手伝い、見舞いの品々を持参した書付が残されている。品々には、酒二升、赤飯、うどん粉一鉢、そば粉五升、くるみ菓子、牛蒡一わ、にんじん一わ、すし一鉢、餅一鉢、茶一袋、たばこ一斤、白米四升などと記録され、これらはお返しをしていかなければならなかった。
開館時間・料金
1、開館時間 午前9時00分~午後4時00分
1、入館料 入館無料
1、休館日 毎週水曜日(祝日の場合は翌日)
12月1日~3月31日
高山市教育委員会
説明板より

 

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