法隆寺

法隆寺
607年(推古15年)、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)が父・用明天皇のために創建した。聖徳太子は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、「斑鳩宮」の建造に着手、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。法隆寺の東院の場所が斑鳩宮の跡地である。
法隆寺の境内は全体が築地塀に囲まれ、西院と東院に大きく分かれる。寺の中心である西院伽藍には国宝の建物群、五重塔と金堂が並び、中門と大講堂をつないで回廊が囲む。東に向かって東大門を抜けると夢殿のある東院伽藍が広がる。国宝・重要文化財の建築物は55棟に及ぶ。また、仏教美術品の数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点にもなる。
法隆寺西院伽藍は現存する世界最古の木造建築群であるが、聖徳太子(622年没)在世時の建物ではなく、創建時の伽藍が天智天皇9年(670年)に焼失した後に再建されたものであるということが発掘調査、年輪測定によって明らかになった。
国宝釈迦三尊は金堂の本尊で、光背の裏面に銘文が刻されている。この光背銘によれば、釈迦三尊像の作者は、司馬鞍首止利仏師(鞍作止利)である。止利は鞍作多須奈の子で、司馬達等孫。達等は『日本書紀』によれば継体天皇の時代に渡日した漢人で、止利は渡来人の子孫ということになる。一族は「鞍部」(鞍作)を称し、鞍などの馬具製作の技術者集団だったようで、その金工技術を仏像製作に応用したものと考えられている。
釈迦三尊⇒釈迦如来像を中尊とし、その左右に両脇侍(きょうじ)像を配した造像・安置形式を釈迦三尊と称する。脇侍は寺伝では薬王菩薩・薬上菩薩と称している。
鞍作止利(鳥)⇒光背銘 文字面33.9cm四方に、196字を14行、各行14字で鏨彫りしている。1行の字数と行数を揃える形式は日本で唯一のもの。
        大意は「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
        しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた」である。
鞍作鳥は飛鳥大仏も作った ⇒飛鳥大仏像の完成は、『元興寺縁起』による609年完成説が定説。当初、像には脇侍像があったと記され、坐像の下方にある石造台座に両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったらしい。
                                出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.3.5