秋祭り屋台

秋祭り屋台(10月9、10日) 
 高山祭屋台
 〈国指定〉昭和35年6月9日
 〈所有者〉各屋台組 管理団体高山市
 〈所在地〉各屋台蔵
 〈時代〉江戸時代(18世紀)
 〈員数〉23基
 日枝神社例祭(4月14・15日、春の高山祭)に12基、桜山八幡宮例祭(10月9・10日、秋の高山祭)に11基の屋台が曳き出される。祭礼行事は、国の無形民俗文化財に指定されている。
秋祭の屋台(桜山八幡宮)
神楽台(八幡・桜町)屋台行列の先頭で囃子を奏す
布袋台(下一之町)布袋と唐(から)子(こ)のからくり
金鳳台(下一之町)神功皇后と武内宿禰の人形
大八台(下一之町)3輪の構造、御殿風の屋台
鳩峯車(下二之町)3輪の屋台、綴錦織幕が優れる
神馬台(下二之町)神馬と馬丁の人形
仙人台(下三之町)唐(から)破(は)風(ふ)の屋根など、古風である
行神台(下三之町)役行者を祭神とする
宝珠台(下三之町)屋根上の大亀が特徴的
豊明台(大新町1)御所車、彫刻など多様な装飾
鳳凰台(大新町1・2・3)谷越獅子の彫刻など気品ある屋台
神楽台 八幡町・桜町
沿革 宝永5年(1708)、以前に金森重勝(左京)から寄進されていた大太鼓を、荷車風のものにのせ、獅子を舞わせて祭礼に巡行した。享保3年(1718)には氏子の有力者風井屋長右衛門が神楽台を新調寄付した。文化12年(1815)に大改造。嘉永年間(1848~1854)に修理。明治37年(1904)に現在の台形に改造された。昭和9年、昭和41年修理。
 文化改修 設計 田中大秀
      工匠 風井屋長右衛門
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 屋根無 太鼓昇降 3輪外御所車
特色 金森重勝寄進の太鼓は音響遠近にとどろき、文久年間(1861~1864)には他組の嫉(ねた)みを受けて鎌で切りつけられたと伝えられる。祭礼に際しては、侍烏帽子、素(す)襖(おう)姿の5人の楽人をのせ、獅子舞を付随させる。棟飾りの鳳凰と、天照、八幡、春日の3神を表わした金幣束が独特である。

布袋台( 下一之町上組
沿革 創建年代未詳。天明年間(1781~1789)には布袋のからくりが行なわれたと伝えられる。文化8年(1811)、現在の台形に大改修された。大正初年、昭和35年、昭和42年修理。
 文化改修 工匠 古田与兵衛
      彫刻 中川吉兵衛
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は、36条の手綱で操り、綾渡(あやわた)りと呼ばれる極めて精(せい)緻(ち)巧(こう)妙(みょう)なものである。6段崩しの曲につれ、男女2人の唐子が5本の綾(あや)(ブランコ)を回転しながら飛び伝い、機関(からくり)樋の先端で所作をしている布袋和尚の肩に乗って喜遊すると、布袋の左手の軍配の中から「和(わ)光(こう)同(どう)塵(じん)」と書いた幟(のぼり)が出てくるという構成である。鳥居形の出入口や、下段の上部が中段の役目をするなど、文化年間以来小修理しか行なわれていないため、台形に古趣を豊かに残した屋台である。

金鳳台 下一之町中組
沿革 享保3年(1718)に曳行に加わったという伝承があり、天明年間(1781~1789)に曳行の記録もあり、創建年代は古い。文化年間(1804~1818)に一時休台。文政元年(1818)に再興して、神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちのすくね)の飾り人形の修理も行なわれた。嘉永5年(1852)に改修。その後数度の修理をする。
 文政再興 工匠 古田与兵衛
 嘉永改修 工匠 角竹茂助
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 棟飾りとして、台名を象徴する金地の鳳凰が翼を張っている。中段欄間には、四条派風に四季の草花が描かれている。人形の竹内宿禰が抱いているのは応神天皇である。一見地味にも見えるこの屋台は、それだけに文政再興当時の面影をよく残しており、構築上、最も整備された形態を持つ屋台として聞こえ、初期の屋台の風格を偲ぶ優美な屋台である。

大八台 下一之町下組
沿革 文化年間(1804~1818)、文政台組と分かれ、文政元年(1818)に高山で最初の3輪の屋台として創建された。明治41年、昭和30年、昭和46年修理。
 文政創建 工匠 光賀屋清七
      塗師 輪島屋儀兵衛
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 台名の由来ともなっている3輪の御所車(大八車)のうち、外2輪は高山屋台中最大で、直径は1.56mある。屋根飾りには両端に八幡、春日大神を表わす大金幣束を立てる。屋台囃子(ばやし)の名曲「大八」はこの組の作曲で、他の多くの屋台組でこれを崩して使っている。中段は幕を張らず、御殿風の吹き抜けで楽人が見えるようにし、以前はここで雪洞(ぼんぼり)を灯し、青、緑、桃色の直衣(のうし)烏帽子(えぼし)をまとった6人の童子が大八の曲を優雅に奏した。

鳩峯車 下二之町上組
沿革 延享4年(1747)以前の創建で、大変古い屋台である。当時は「大(おお)津(つ)絵(え)」という台名で「外(げ)法(ほう)の梯(はし)子(ご)剃(そ)り」と呼ばれる福禄寿と唐子のからくり人形があった。文政9年(1826)、大破のため休台し、天保8年(1837)に再建された。この時4輪より3輪御所車となり、八幡宮にちなみ台名も「鳩峯車」と改めた。安政年間(1854~1860)にも大破のため休台し、慶応3年(1867)修理、明治27年(1894)大修理、その後も数度の修理を重ね現在に至る。
 天保再建 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎
 慶応改修 工匠 谷口与三郎宗之
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 見送り幕、胴掛け幕は綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)の高価なもので、天保再建の際、購入したものである。これだけ贅沢な幕をしかも4方に掛けている屋台は他にない。

神馬台 下二之町中組
沿革 享保3年(1718)から「高砂(たかさご)」の名で曳行したという。明和6年(1769)改造。文化13年(1816)に神馬の人形を新調し、この頃から「神馬台」と呼ばれた。文政13年(1830)再改造。安政年間(1854~1860)、明治35年(1902)修理。その後も数度の修理をして現在に至る。
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段4隅の丸柱は中段に突き抜けて、先端に青龍刀をつけ、4神旗をかけている。飾り人形は以前は高砂の翁(おきな)と媼(おうな)の2体であったが、文化9年(1812)に他組に譲り、現在は跳躍する白馬と2人の馬丁の人形を飾る。昔は、別名を暴れ馬といい、祭の時に隣りにあった組などとよくけんかをしたという。紫鱗(うろこ)紋織り出しの大幕に刺繍された大般若(はんにゃ)面が印象的である。屋台囃子には雅楽の越(え)天(てん)楽(らく)を用いる。

仙人台 下三之町上組
沿革 八幡祭の屋台行列は享保3年(1718)の開始と伝えられるが、その頃の屋台「湯(ゆ)の花(はな)」の組が分かれて仙人台の組ができたという。明和~安永の初め頃に仙人台の屋台が造られたのであろう。その後再建し、寛政5年(1793)の記録には「仙人台」の名が見え、当時は久米(くめ)の仙人と美女のからくり人形があった。文政年間(1818~1830)改修。その後数度の修理を重ねて現在に至る。
 文化改修 工匠 古田与兵衛・浅井一之(かずゆき)
 構造 唐破風屋根 4輪内板車
特色 最も古い形を残した屋台といわれる。以前は他の多くの屋台が唐破風の屋根であったというが、切破風に変わり、この屋台だけが唐破風の古態を残している。屋根飾りには極彩色の剣巻龍を前後に立てている。往時は久米の仙人が、洗濯する美女の美しさに見とれて雲上から墜落するというからくりがあったが、明治初期に廃止され、現在は仙人の像のみが飾られている。

行神台 下三之町中組
沿革 八幡祭の屋台行列の始まりといわれる享保3年(1718)には、屋台4台が曳かれたが、その1台「湯の花」から分かれて創建されたという。天保2年(1831)改修。明治8年(1875)の大火で一部を焼失し、
同16年(1883)に恵比須台より部品を譲り受け再興した。その後明治36年(1903)より破損のため休台したが、昭和26年、大修理をして50年ぶりに復活し、屋台蔵も建造した。昭和43年、昭和59年修理。
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 祭神として、役小角(えんのおずの)(役の行者)の飾り人形を祀り、中段高欄は玉垣、上段高欄の4隅には密教の法具五鈷(ごこ)をさすという形態になっている。これは、当地域が、役小角を崇敬する1人の行者によって開拓されたため、その遺徳を追慕したことに由来する。またこのような由緒から、以前は道開きの屋台として常に神楽台に次ぎ全屋台の先頭を曳いていた。

 

宝珠台 下三之町下組
沿革 創建年代未詳。安永の頃(1772~1781)の創建説もある。文政11~12年(1828~1829)大改造。その後明治41年(1908)にも改修され現在の台形に改められた。以後数度の改修をして現在に至る。
 文政改造 工匠 中洞村喜三郎
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根飾りとして、雌雄の大亀1対と台名に由来する大宝珠3個を飾っている。以前は7色に染め分けられた宝珠を下段高欄に飾っていたが、それは廃され、中段と屋根飾りに金銀の宝珠が飾られている。ケヤキ1枚板の台(だい)輪(わ)は高山の屋台中で最も美しいものといわれる。屋根の亀はこの屋台の名物で、ある朝、この亀がいなくなったので探していると、宮川の水の中にいた。そこに「名工の作った亀は水を求めて川に入る」と書かれた立札が立ててあり、他組のいたずらだったという。

豊明台 大新町1丁目
沿革 創建年代未詳。初めは「芦刈(あしかり)」という台名でからくり人形があったという。天保6年(1835)改造。この頃の台名も八幡宮の祭神応神天皇の豊明宮(とよあけのみや)にちなみ、「豊明台」と改められた。明治33~35年(1900~1902)大改修。その後も数度の修理をして現在に至る。
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 もとは天皇の即位する八角形の高(たか)御(み)座(くら)を模した台形であり、明治改修以前まで、下段中段ともに、縁(ふち)の4隅を切って8角形にしていた。現在はその名残りを大幕の部分に残している。屋根飾りの大鳳凰と宝珠、上段の菊花彫刻、中段の牡丹彫刻、中段の白彫りの十二支の彫刻、下段の唐獅子、御所車など、華麗に装飾された屋台である。

 

鳳凰台 大新町1・2・3丁目
沿革 創建年代未詳。文政元年(1818)に再興され、嘉永4~7年(1851~1854)改修が行なわれた。明治40~43年大修理。その後数度の補修をして現在に至る。
 嘉永改修 工匠 谷口延恭(のぶやす)
      彫刻 谷口与鹿・浅井一之
 明治改修 工匠 村山民次郎
 構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段にあるケヤキ白彫りの谷越獅子の彫刻は高山の屋台彫刻中最大のもので、名工谷口与鹿の下絵をもとに、与鹿とその弟子浅井一之によって彫られたという。明治の改修までに3万坪(1坪は3.3㎠)もの大量の金具が打たれている。本見送りは柚原双松筆の鳳凰の綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)、替見送りは西村五雲筆の龍の墨絵で、華麗で均整のとれた屋台である。

 

高山祭り   春12基、秋11基
高山祭りは、春の山王祭りと秋の八幡祭りを言う。春祭りは、高山市城山に鎮座する日枝神社の例祭で、安川通りを境にして南側が祭礼の区域、現在屋台は12基ある。また、秋祭りは、高山市桜町に鎮座する桜山八幡宮の例祭で、安川通りを境にして北側が祭礼の区域、屋台は11基ある。 
屋台の古記録をみると、「享保元年(1716)、山王祭り(春)と八幡祭り(秋)に、代官所の前で行列を披露し」とあり、また、享保3年の記録には「高山八幡祭礼行列」というのがある。その後、江戸では享保6年に屋台が厳しい倹約令によって禁止され、なくなってしまったが、高山では残り続けた。
 屋台を飾る織物は、江戸時代、京都から購入しているため、屋台の祖形は京都方面から伝わったと考えられていた。しかし、屋台の屋根高さが伸び縮みする構造、江戸文化を直接移入している状況、屋台を曳き出すときに「ヤタイ、ヤタイ」と言わずに、江戸ことばで「ヤティ、ヤティ」と言う状況などから、江戸形を祖形としていると考えられている。この、屋根が伸縮する機構は、江戸城の城門をくぐるときに使われた江戸形の屋台古形式を受け入れているもので、名古屋形や他地区のダシには類例が見られない。
 江戸時代の屋台は華麗になり、その重量も増えていった。乱暴には扱えなくなり、戻し車という第5番目の車輪が考案されている。通常、一つの屋台には四つの車があるが、曲り角にさしかかると、90度向きの違うこの戻し車を下へ降ろして重い屋台を浮かせ、3輪になって回転する。これは全国に類例がない回転構造であろう。
全体構造は、上、中、下段の3段からなり、上段は中段の下底まで4本柱が下がり、シャチ巻という巻き上げ装置で、屋根と4本柱からなる上段を引っ張り上げる。構造体は全体的にしなやかで、曳行のときにユラユラとしなやかに小さく揺れて振動を吸収する。
 各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うところになる。
 熱心な人
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台が第一の人たちで、祭りの時に、ほかの組の屋台に少しでもケチをつけたり、差し出がましいことを言ったりすると、こうした屋台好き同士でけんかとなってしまう。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うころになる。屋台組では、自分の組の屋台が一番いいと自慢しあい、「オゾクタイ(立派でない、だめな意)屋台」と笑われることが何よりも腹立たしいことである。
 高山祭の文献上の初見は元禄5年(1692)、40年前の山王祭について記している。
屋台絵巻
屋台は、享保3年(1718)に曳かれた記録があり、300年以上前から屋台が既にあったことが知られる。当初の形は赤坂山王、神田明神祭を模したもので文献に姿の記載がないため形態はわからない(第Ⅰ期)。
その後、文化年間の形態がわかる古い絵巻が存在する。それは春祭の絵巻で、文化八・九年頃の年代が与えられ、彫刻が取り付けられる前の高山祭屋台形態(第Ⅱ期)がよくわかる。
第Ⅱ期の後、屋台は第Ⅲ期形態への大改造期に入り、諏訪の立川和四郎による五台山の彫刻に刺激され、谷口一門の彫刻作品が取り付けられることになる。この時期、各戸に分解し、格納されていた屋台は、屋台藏が建造されて、重厚な懸装品を損傷することなく納められるようになった。第Ⅲ期の改造は、彫刻の取り付けが中心になって、屋台修理・改造の隆盛期となっている。工種をみると、工匠・彫刻・塗師・箔師・金具・御所車・人形・大幕・天幕・図画など、だいたい現在の屋台修理職人の職種分類と比べてだいたい同じである。
 文化・文政・天保・弘化にかけての大改造期を終えた後は、第Ⅳ期、明治・大正期の大修理時期を迎える。多少の改造を加えて漆塗・箔・金具を中心とした修理を進めた。
 修理面での分類は、第Ⅰ期・初期、第Ⅱ期・能の人形を中心とした時期、第Ⅲ期・彫刻採用、大改造期、第Ⅳ期・明治の修理、改造期に分けられる。このような修理の経緯を見ると、それぞれの工種分業、各職種の頂点技術を駆使し、またそれが絶妙にバランスよく総合されて、優れた工芸品として完成された。
「御巡幸」
近年、高山祭を見る人たちは豪華な屋台の方に目を向け、祭りの本来の目的や神事の式次第にはあまり注目していないようである。「御巡幸」は神様が一泊二日の旅に出る神事で、行列中程の神様が乗られる「神輿」が行列の中心であるにもかかわらず、神輿を拝する姿を見かけなくなった。伝統的な町家に御簾を掛け、貴い神様を直接見ないという風習も、その意味が外部の人たちには理解されていない。豪華な屋台各部や、荘厳な行列など、見所が極めて多く、しかも神事は複雑なので、あまり深く考えずに祭りを楽しもうという雰囲気が地元にも、観光客にもある。高山祭には長きにわたって積み重ねられた構成要素がたくさん含まれていて、全容を理解するのは並大抵のことではない。
 高山祭の御巡幸はいつから始まったのであろうか。神輿を高山城内に担ぎ込んだのは四百年前の金森氏三代の時代、神輿と神楽が中心であった。その百年程後には屋台が出来て、神輿の行列に参加するようになった。この神輿行列と屋台という二つの要素は、発生した母体が違い、そこのところを良く知らないと高山祭が理解できない。神輿組十一組と屋台組十六組という二つのまとまりが御巡幸の中にあった。
高山には「家押し(やおし)」という制度がある。これは家の並び順に役を廻してゆくもので、役が廻ってきた時は嫌々担当をするが、一年もすると伝統の重みと責任を強く感ずるようになり、うるさ型の地域リーダーに育ってゆく。協力的に変化し、地域コミュニテイをしっかりと支える人が毎年増えてゆくことになる。春の高山祭には「宮本」制度があって、明治二十三年までは青竜台と神楽台が宮本を務めていたが、翌年から順送りになっている。御巡幸と屋台の曳行、祭礼関連必要設備の準備など、順送りに役を担当してゆき、全員が難しい高山祭の祭事取り仕切りを理解してゆくのである。これも、担い手育成、良き協力者の輩出のために先人が熟慮した結果てある。
江戸時代、代官、郡代所には「祭り奉行」が置かれ、宮本はいちいち奉行に伺い、祭事を執行してきた。今も、宮本は一年も前から市役所、警察署、電力会社、道路管理者などに協議を開始し、それは江戸時代とほとんど同じだといえよう。宮本を担当している年の組は、商売もそっちのけで祭礼の対応をしなければならない。
このように複雑で手間暇のかかる高山祭りの仕組みを、継承する住民は、大変なことと思いながらも地域の義務として受け入れている。今後も、高山祭りは伝統と自主的規定を守る住民の心に支えられ、商人町の町並み保存や城下町高山の活性化などに好影響をもたらしながら発達して行くことであろう。祭礼に関わる人々は、祖先の祭礼に対する想いと足跡を、心地よい束縛と感じている。温かい目で見守ってほしい。
 ちなみに、秋祭りは総指揮をするのが「年行事」の制度になる。
『高山の文化財』、田中彰講演資料