若宮八幡神社

若宮八幡神社
鎮座地  高山市石浦町字向町3204番地
銀幣社 (旧社格 村社)
1.祭神
      おうじん    にんとく
    主神 応神天皇 仁徳天皇
    合祀 諏訪神社・天満神社2.由緒
創建の年代は詳らかでないが、相伝に「仁徳天皇六十五年(西暦377)勅命を奉じて難波根子武振熊命が、両面宿儺討伐の時この地石浦(延喜式兵部省云、飛騨国駅馬云々、石浦五匹と見ゆ、上古よりの駅舎也)に屯軍して、先帝と今上の尊霊を奉祀して戦捷を祈念ありし斎場の遺跡ならん。」(『斐太後風土記』)とあり、また、『飛州志』には「一宮の棟札云長木は石浦若宮之杉本也々。享禄二年若宮上葺」とある。
若宮は「新宮」・「別宮」とも言う例があり、一の宮水無神社の若宮であるといわれる。
神社は深い緑に包まれ、古来より石浦地区の産土として崇められてきた。
戸田釆女正による元禄検地で、境内除地一町歩を賜わった。
明治四年九月村社に列し、同四十一年三月、神饌幣帛料供進の指定を受けた。
昭和二十一年官制廃止後は神社本庁に所属し、岐阜県神社庁より銀幣社の指定を受けた。
3.祭祀
 例祭 9月22~23日
 祈年祭 3月中
 新嘗祭 11月下旬
 なお二十二日の試乗祭には、本宮より神璽を奉遷し、例祭当日は、氏子内を神輿渡御がおこなわれ、神賑として獅子舞・鶏闘楽・槍踊りがある。祭典終了後は直ちに本宮に遷記する古例となっている。
4.建造物
 前宮本殿 (流造 4坪)
 渡殿   (平棟造 6坪)
 拝殿   (神明造 16坪)
 絵馬殿 (平棟造 12坪)
 社務所 (平棟造 30坪)
 神與庫 (土蔵造4坪)
 奥宮本殿 (神明造 1坪)
 鳥居 (石造) 
若(わか)宮(みや)八(はち)幡(まん)神(じん)社(じゃ)は仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の御(み)代(よ)、両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)征(せい)討(とう)の命(めい)を奉(ほう)じた武(たけ)振(ふり)熊(くまの)命(みこと)がこの地に今上の尊(そん)霊(れい)を奉(ほう)祠(し)して戦(せん)捷(しょう)を祈(き)願(がん)した斎(さい)場(じょう)であったと言われている。その時(とき)、命(みこと)は石(いし)を蹴(け)って捷を占(うら)なったので「石(いし)占(うら)」と呼(よ)ぶようになったと郷(きょう)土(ど)誌に記(しる)してある。また斎場に美(み)事(ごと)な岩(いわ)があって、いつも清(し)水(みず)を湛(たた)え、この水で口(くち)を潤(うるお)し、身(み)を清(きよ)めることによって士(し)気(き)が漲(みなぎ)ったとも言われている。 
*説明版より
お手水鉢の由来
 昭和9年の頃、国鉄高山線敷設の時、二之瀬(本社の南方)の河原の岩は殆(ほとん)ど石(いし)工(く)によって打(う)ち割(わ)られたが、なかば砂(すな)に埋(うず)もれた一(ひと)つの岩だけは石工たちも気(き)が進(すす)まないと言って鑿(のみ)を打たなかった。たまたま、ただ一つ残された巨(きょ)岩(がん)を不(ふ)思(し)議(ぎ)に思(おも)い、里(さと)人(びと)たちの言い伝(つた)えもあって、これがその昔(むかし)、清水を湛えていたという岩ではないかと好(こう)奇(き)心(しん)のあまり掘(ほ)り起(おこ)すと、美(うつく)しい凹(くぼ)みのある岩であった。この水鉢、昭和12年(1937)2月石浦町地内・若宮(奥宮の森)の200m上流二之瀬谷入口の宮川本流の中央川底より当境内神前に運ばれた。
 二之瀬谷出口の宮川の真ん中の平な大岩には、大昔より下に手の届かぬ深い「魚の寝床」が在ると言い伝えて居た。鉄道建設当時附近の岩石は悉く利用されたが、此の岩は残っていた。昭和11年秋過ぎ、此の大岩が“神社の水鉢”にと掘起しが決まった。当時重機は無く滑車と梃子と鶴嘴で苦労の末掘起した。
 歳明けて2月、「大持引」で石浦の住人が総出で境内へはこぶことを決めた。川越えのため、長靴は駄目で草鞋履にとした。
街道へ引上げて北進、歩危、踏切、川越えも無事に通過し参道坂へ。坂を上り、全員力を合せたが、大持ちの重量が勝り後退する。日没になったので本日はこれまでとし、各人石浦に有縁の人々に沙汰し、明日の応援を願う事、役の人はシヤチ等を整備し明日正午当所に集合のこととした。各人は近郷有縁の人々へ連絡に走る。翌2日午前7時、寄せ鐘と共に有縁の人々が大集合し、正午、無事到着して喜びと共に神前に供覧をした。
  *説明版より