藤原京

藤原京
藤原京成る
大宝元年(701)正月、文武天皇は藤原宮の大(だい)極(ごく)殿(でん)に出御し、群民の賀正の礼を受けた。『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』はその様を「その儀、正門に烏形の憧(しょう)を樹(た)つ。左に日像・青竜・朱(す)雀(ざく)の幡(ばん)、右に月像・玄(げん)武(ぶ)・白虎の幡。蕃(ばん)異(い)の使者左右に陳列す。文物の儀ここにおいて備(そなわ)れり」と特筆している。
天武天皇によって計画され、その死後夫の遺志を継いだ持(じ)統(とう)天皇によって完成した藤原京は、持統8年(694)12月の遷都以来、和銅3年(710)3月の平城京遷都まで、持統・文武・元(げん)明(めい)3代の宮都となった。
それまで歴代遷宮を繰り返していた宮都が、わずか15年ほどの短い期間とはいえ、3代にわたって藤原京に定着したことは、その条坊制による京の施行と、瓦葺き宮殿の採用とともに画期的なことであった。
そして、それはそれまでの「倭京」を「新に益す(拡張する)」形で営まれたものとして、「新(あら)益(ましの)京(みやこ)」と呼ばれたのである。
藤原京は岸(きし)俊(とし)男(お)によると、大和平野を南北に走る2つの古道、中ツ道と下(しも)ツ道をそれぞれ東・西京極とし、横大路を北京極、阿部・山田道を南京極とする東西4里(約2,120メートル)、南北6里(約3,186メートル)の地域を、東西方向の条大路と南北方向の坊大路によって12条8坊に区画された条坊制都城であった。
参考文献  町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
藤原宮の構造
藤原宮は、北を二条大路、南を六条大路、東西を東西2坊大路で囲まれた東西4坊、南北4条、合わせて16坊の広さを占める。宮域は掘立柱塀からなる大垣で画され、東西南北の各面に3か所ずつ、合計12の宮城門を開く。また、大垣の両側には内堀、外堀が設けられ、外堀と宮の周囲の条坊道路との間には、幅の広い外周帯が設けられている。宮城の規模は、東西大垣間が925.4メートル、南北大垣間が906.8メートルで、東西にやや長い。宮域内には中心線上に12堂を擁(よう)する朝(ちょう)堂(どう)院(いん)と、大極殿を囲む大極殿院とが南北に接して並び、大極殿院の外側には、おそらく内裏を区画すると考えられる外郭大垣が、めぐっている。この中(ちゅう)枢(すう)部分の東西には、諸官衙が配置されていた。
これら宮城内の区画地割りや京内条坊道路などは例外なく大尺=高(こ)麗(ま)尺(じゃく)(35.4センチメートル)を基準尺として設定されている。
京内条坊道路では、朱(す)雀(ざく)大路が路面幅50大尺(17.7メートル)・側溝幅20大尺(7.1メートル)に設定されており、以下六条大路が50.10(大尺、以下同じ)、東二坊大路が50.5、四条大路が40.5、三条大路が20.5となっていて、大路の規模は少なくとも5段階に区別されており、小路は15.5の設定寸法であったと考えられている。
藤原京の朱雀大路は空前の大路であったが、平城京・平安京になると、路面幅はさらに拡大して約70メートルになり、単なる道路機能を越えている。朱雀大路や六条大路など宮城周辺道路は、律令制国家の威信を内外に誇示する儀式場であり、人々の集まる広場であった。それぞれの等級に応じて、京を碁盤目状に整然と区画する道路の存在こそ、まさに条坊制都城の特色であり象徴であった。
こうして、藤原京は4つの古道に規制されながら、予想外に整然と計画されていることが明らかにされたのである。
参考文献  町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』           (株)講談社発行1989年
隋・唐都市建設の輸入
すでに大化前代において隋・唐と通交を持った日本は、推古天皇31年7月条の帰朝した大唐学問僧・学(がく)生(しょう)らの発言が示すように、「法式備定の珍国」である隋・唐の律令制度の移入に力を注いでいる。隋文帝が582年に建設した大興城は、唐の建国とともに長(ちょう)安(あん)城と改称され、唐都となったが、宮城・皇城と京城が一体となったその壮大な都城制は、留学生・留学僧らに強い感銘を与えたと思われる。彼らが大化改新のブレーンとして難波遷都や長柄豊碕宮の造営に参画した時、唐長安城の都城制を想起したことは想像に難くない。
この時、長柄豊碕宮と一体となった「京師」の建設が企図されたと思われ、長柄豊碕に遷都してから長柄豊碕宮の建築に着手するまでの5年余の期間は、「京師」建設のための基盤整備に充てられたのではなかろうか。
前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮が条坊制に基づくか否かはともかく、難波「京」と呼べるものが存在していたのか否かは、いわゆる大化改新の評価に多大な影響を与えるだけでなく、我が国都城制の形成過程、ひいては我が国の古代国家の形成過程を考える上で、避けられない論点になっていると言えよう。
参考文献  町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
特別史跡 藤原宮跡  
史跡指定 昭和21年11月21日  特別史跡指定 昭和27年 3月29日
 藤原(ふじわら)京(きょう)は、持(じ)統(とう)天皇8年(694)から和銅3年(710)まで、持統・文(もん)武(む)・元明(げんめい)天皇3代にわたる都であった。藤原(ふじわら)宮(きゅう)はその中心部にあり、現在の皇居と国会議事堂、および霞(かすみ)ヶ(が)関(せき)の官庁街とを1か所に集めたようなところである。大きさはおよそ900m四方、まわりを大垣(おおがき)(高い塀)と濠(ほり)で囲み、各面に3か所ずつ門が開く。中には、天皇が住む内裏、政治や儀式を行なう大極殿(だいごくでん)と朝(ちょう)堂院(どういん)、そして役所の建物などが建ち並んでいた。
 大極殿は、重要な政治や儀式の際に天皇の出(しゅつ)御(ぎょ)する建物である。赤く塗った柱を礎石の上に建て、屋根を瓦で葺くという、日本では最初の中国風の宮殿建築であった。建物の柱間は正面9間(45m)、側面4間(20m)、基(き)壇(だん)を含めた高さは25mを超え、藤原宮では最大である。現在は基壇の跡だけが残り、「大宮(おおみや)土(ど)壇(だん)」と呼ばれている。昭和10年(1935)に、日本古文化研究所がこの土壇を発掘調査し、藤原宮解明の端緒となった。    説明版より
大極殿院閤門
 大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)は、大極殿院と朝(ちょう)堂院(どういん)を区切る門である。日本古文化研究所の調査により基(き)壇(だん)最下段の石材が部分的に確認されている。規模は不確定ながら、正面約30m、側面役15mと朝堂院南門と同規模と想定されている。平成19年(2007)には、奈良文化財研究所により再調査が実施されている。
 なお、列柱は閤門(こうもん)より南30mの場所に設置し、再現表示している。
               説明版より
藤原京のその後
 藤原京は、和銅3年(710)の平城京遷都の後、しだいに農村となり、中心にあった藤原宮(ふじわらのみや)の場所さえわからなくなってしまった。
 昭和9年(1934)から始まった日本古文化研究所の発掘調査により、藤原京は長い眠りから覚め、1,200年ぶりにその所在が確認された。戦争で調査はしばらく中断したが、昭和41年(1966)に宮殿を囲む大垣(おおがき)跡が発見されたこと契機(けい(き)に、昭和44年(1969)からは奈良国立文化財研究所によって継続的な調査が開始され、現在では橿原市教育委員会などが加わって、発掘が続けられている。
           藤原宮資料館・説明版より

 

資料集
085_092_藤原京