金森長近の美濃市城下町

金森長近の美濃市城下町
最初の美濃国の姿
 美濃市の町並みは国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。東西方向の2筋の街路と南北方向の4筋の横丁からなる町並み。「目の字通り」といわれる。
金森長近は関ヶ原の戦いの功績で、美濃上有知2万5千石と河内国金田(かなた)3千石の領地を拝領した。
<牟義都国(むげつのくに)>
 最初の美濃国は、牟義都国一国であり、牟義都国すなわち美濃国であった。この都は津と同じく「の」の意であるから、牟義都国は牟義の国のことであり、ここは近畿の前衛基地として非常に重んじられ、上古より最も早く開けたところである。
 上有知はその中心首都であり、国造(くにのみやつこ)の所在地として「内(うち)の郷(さと)」という。この内の郷は、のちに冨本の庄とも、内の庄とも呼び、今より千年余り前の菅原道実の延喜年代の頃までは有知郷と称し、その後に上下の両有知に分離した。その時代は不明。
 要するに上有知とは、有知郷の上方(かみかた)の意であり、鎌倉時代には上有知、又は神地と書いてこれをカミウチ、又はコウズチと呼んだ。神地とは御厨(みくり)、すなわち伊勢神宮の御料地をいう。
<上有知の領主>
  源経基(美濃源氏の祖となる)が美濃国守となった。源頼光は経基の孫で丹波の大江山の鬼退治で有名である。その頼光の子孫源頼資(よりすけ)及びその長子の頼綱、次子の頼保(やす)は相次いで上有知の蔵人(くらんど)となる。
 応仁以前の領主及びその年代ははっきりしないが、清和源氏の流れである美濃源氏が、上有知を領して代々相伝え、すべて地頭領主となってこの地に来住した者は、ことごとく上有知氏を継承したようである。
<鉈尾山城主佐藤清信>
 佐藤将監六左衛門尉清信は斯波義統に属し、天文九年(一五四〇)八月「藤城」を改築拡張して鉈尾山城を築いた。― 中略 ―
<第二代城主佐藤秀方(まさ)>(秀方の妻は長近の姉)
 佐藤隠岐守六左衛門尉秀方(まさ)ははじめ斯波氏に属し、のちに織田信長に仕う。有名な信長の母衣武者二十人衆の内に列していた。秀方の妻は、のちの小倉山城主金森長近の姉である。従って佐藤家と金森家とは、最も近い姻戚関係にあった。
 元亀元年(一五七〇)五月九日秀方は、義弟の金森長近とともに千種城を攻めた。天正二年(一五七四)二月秀方は、長近とともに信長の長島攻撃に出陣し、東一江より発進す。
 天正三年(一五七五)四月甲州の武田勝頼は、徳川家康の家臣奥平信昌の守備する三州長篠城を包囲す。信長は、秀方及び長近に命じ家康の援軍として信昌救援に向かった。秀方長近の両名は、家康の臣酒井忠勝とともに武田勢を鳶巣山に襲って勝ち、功績を上げた。
 天正十年(一五八二)六月二日の本能寺の変を聞いた秀方は、ともに明智を討つ旨を早馬に託して大野城主長近に告げ、直ちに徳川家康に書状を送ってともに明智を討つ同意を得た。そして大野より出陣せる長近の軍を迎えて岐阜に出て、家康の軍と合流して上洛し、秀吉の軍と協力して光秀を山崎に討滅した。山崎の合戦の後、秀方は秀吉に属した。所領は二万五千石。
 天正十一年(一五八三)正月岐阜城主織田信孝は、越前北之庄(福井)の柴田勝家と謀り、岐阜城に拠って秀吉に反抗す。郡上八幡城主遠藤慶隆は信孝救援の為、兵二千を率いて武儀郡橘(たちばな)山に陣した。秀方は、秀吉の命により正月八日これと橘山に戦い、木尾(こんの)の母野(はばの)に降した。翌十二年小牧山の役に秀方は兵四百を率いて出陣、長近とともに内窪(うちくぼ)山の砦(とりで)を守っている。
〈秀方は萩原の諏訪城主に〉
 天正十三年(一五八五)秀方は、秀吉の命により長近の飛騨攻略の援軍として金山より進発し、萩原を攻めてこれを降し飛騨路を平定した。翌十四年金森長近が飛騨の領主となると、高山城及び古川の増島城とともに飛騨三城の一つに数えられる萩原の諏訪城の城代となった。
文禄元年(一五九二)征韓の後に秀方は、兵百五十を率いて肥前名護屋に出陣し、長近とともに十四番隊に属している。
 文禄二年(一五九三)秀方は、水難を避けて保寧寺を古町の東方の高地、尾沢山の西麓にある、美濃源氏の流れである上有知蔵人以来の上有知の総氏神として住民の崇敬を集めて居た産土(うぶすな)神、熊野神社の前方南寄りの地に移して改築し、これを泰岑(たいこん)山以安寺
と号し、寺領三十石の外に尾沢山を寄進した。それより「尾沢山」を「以安寺山」と呼ぶ。
 秀方は文禄三年(一五九四)七月二十日卒、法名は以安寺殿泰岑以安大居士。墓は清泰寺中にあり。
<第三代城主佐藤方政(かたまさ)>
 佐藤才治郎方政は、秀吉に仕えて所領二万五千石。飛騨より領内に侵攻せる飛騨国司三木大和守の残党を桐洞に破る。
 佐藤方政は、当時、岐阜城主織田秀信に属し侍大将となる。はじめ秀信は家康に味方し、七月一日関東に向かって進発すべく着々と準備していたところ、三成ひそかに秀信に密使を送り、五奉行の連判をもって「戦勝の暁は、秀信をもって濃尾両国の主とする」という約束をもって誘った。秀信の意、大いに動き三成に味方した。
 岐阜城中の軍議において方政等は、城兵わずか六千五百の寡兵で、金華山の天嶮によって東軍を防ぎ、西軍の来援を待ってこれを挾撃せんと極力建議せしも、秀信は男らしからずとして斥(しりぞ)け、華々しく木曽川の要害に出撃を決す。
〈方政は織田秀信の臣として東軍と岐阜城で戦う〉
 方政は、胸中すでに討死を覚悟し、慶長五年(一六〇〇)八月二十二日木造、百々とともに手兵三千二百を率い、先手として新加納と米野の間に出陣して奮戦したが、衆寡敵せずついに破れて岐阜城に退く。岐阜城の軍議に際しても方政は、残兵をまとめて岐阜城の要害に立て籠(こも)ってこれを死守し、西軍の来援を待って挟撃すべしと再び力説したが入れられず、秀信の命によりやむなく兵を分散して、外郭山麓の所々の砦(とりで)を守った。時に残存せる援軍は侍大将方政ただ一人、他はことごとく秀信の家臣のみ。
 潮(うしお)の如く押し寄せる大軍に瑞竜寺山の砦まず破れ、その他の砦も次々に陥ち、敵兵大挙して岐阜城に迫る。方政は搦手(からめて)裏山の百曲(まが)り口を死守して大いに防戦に努めたが大手(おおて)七曲り口すでに破れ、方政は百曲り口において壮烈なる戦死を遂ぐ。しばらくして岐阜城陥落し織田氏滅び、上有知の鉈尾山城も哀れ廃城となる。
 一説には、方政は岐阜城を落ち延び、母の閑居する西美濃石津乙坂村に潜居し、大坂冬の陣起こるや直ちに大坂城に馳せ参じ、慶長二十年(一六一五)五月七日大坂夏の陣に大坂落城の節、浪花城中において壮烈なる戦死を遂ぐという。
〈方政は岐阜城を落ち延び萩原にいたという説〉
 また、飛州史等には、方政は岐阜城を落ち延び、叔父の金森長近の陣へ来降す。よって長近の養子の金森可重(ありしげ)は方政を萩原の諏訪城に送り家臣として居らしむ。しかるに大坂の役起るや、方政はひそかに諏訪城を脱出して大坂城に入り、秀頼の馬前に華々し
く討死して臣節を全(まっと)うすという。
 法名は佐岩院殿以徳道隣大居士。慶長二十年(一六一五)五月七日卒となっている。
 今日、八幡神社の前の宝物庫の裏手、参道の西側に、八幡神社創建の鉈尾山城主佐藤家を祀るささやかな社殿がある。
 <鉈尾山>
 戦国時代佐藤氏三代の城。四方釣り壁の要害で、鉈1丁で壁を切り落とす備えがあったと伝えられ、鉈尾山の名はこれに由来するともいう。
鉈尾山は現在古城山という。最初は七尾山と呼び、この山には白藤が多いところから、花盛りの美しい山の姿を見て後にこれを藤白(ふじしろ)山と呼びその藤白山に城を築いた宗信が、その城を藤城と名付けたのでこの山を藤城山と呼ぶに至った。村瀬藤城の号もこの山名による。
 宗信が藤城を築いてから、清信が鉈尾山城を築くまでには七十余年の歳月を経ているから、かなり腐朽していたことが推察される。この山は、裏は岩山で道なく前の谷は深くして嶮岨である。
 清信がこの山頂に築いた城は、東西二十一間、南北十八間四方とともに「釣り壁」の要害で、鉈(なた)一丁にて何千騎にても防ぐ故に、七尾山にちなんでこれを鉈尾山と名付けたという。また刀尾山とも呼ぶ。ここに城があったから城山とも言い、後世これを古城山と呼ぶに至った。標高437m、比高317mの高所にある。
 この鉈尾山城は、東京帝国大学の辻善之助教授が実地について詳しく調査して賞讃された如く、群雄割拠の戦国時代、佐藤家の全盛時代につくられ、城構えとしては楠正成の千早城に比すべき日本有数の築城の妙を備えた、最も優れた山城であったという。
金森長近は当初この城に入り、小倉山城を築くとこの城は廃城となった。
      『高山市史・金森時代編』より

 

金森長近は上有知領主に
<長近は姻戚佐藤家の上有知を懇望>
 関ケ原合戦の功により大垣藩十万石に転封を仰せ出された時、開発半ばの飛騨に愛着を持つ長近はこれを辞退し、姻戚佐藤家の旧領を特に懇望す。家康はその請いを入れ、十月五日佐藤家の旧領上有知の二万五千石に、別領として河内国茨田郡金田(かなた)に三千石、計二万八千石を新たに加封せらる。
 長近は家康の許しを得て、飛騨三万八千石を養子の可重に譲って第二代の高山城主とし、加封地二万八千石を自己の隠居分として上有地に来住し、鉈尾山城の城主となる。しかし長近は鉈尾山城に住まず、邸宅を尾崎丸山に構えて居住す。
 翌六年より尾崎丸山の築城に着手し、大野の亀山城・高山の兜城の経験を生かし、その雛形とも言うべき壮麗なる三層楼の天守閣を持つ堅城を完成し、尾崎丸山を小倉山と改称し、城を小倉山城と名付け、金に飽かして邸宅小倉庄館を本丸に建てて移り住む。また谷戸と志津野に支城を築く。
<小倉山城跡>
 百戦錬磨の武将長近は、越前大野の亀山城や高山城、古川の増島城や萩原の諏訪城建設の豊富なる体験を生かして、小倉山の中腹に三層楼の天守閣を持つ、実に堂々たる平山城を築いて、不時の攻撃に備えたのである。
 城跡は、藍水の水が北方の山裾を巡って流れる風光明媚な小倉山の南麓の台地、現在の小倉公園の中心部である。今はただ高さ二間余、延長約五十余間の千畳敷といわれる石垣と、西南隅の大手門の石段に、わずかに往古の城郭の偉容を偲び得るのみである。
 「天上影は替らねど、栄枯は移る世の姿、垣に残るはただ葛(かづら)、
松に歌うはただ嵐」、げに荒城の月の歌さながらの大手門の石段を感慨深く登れば、上段の平地に出る。ここが在りし日の本丸跡であり、嘗つてはめぐる盃に影さして春高楼に花の宴を催した、三層楼の天守閣や壮麗な館があった。しかし上有知の金森家断絶の後に幕府の命により、当時の濃州郡代岡田将監の手によって跡方もなく取り壊されてしまった。
 徳川家康は天下統一の実権を握るや、諸大名に命じて領主の居城以外の一切の城郭を全部破却せしめた。古川の増島城も萩原の諏訪城もその時に破却された。家康はさらに武家諸法度を発令し一切の築城を禁止し、居城の修理といえどもことごとく許可制とした。
その後、上有知領には領主を置かず幕府の直轄地すなわち天領となし、大久保石見守の同心、石原清左衞門正房が本領代官として派遣された。代官の陣屋は、今の村瀬藤城の碑の前面のところにあった。五年後の元和元年(一六一五)より尾州領となり、国奉行藤田民部の同心瀬戸兵衞が代官となって来住。十二年目の寛永三年(一六二六)より天明四年(一七八四)まで百五十八年間、再び本藩直轄となる。天明四年(一七八四)より再び尾州領となり、明治の廃藩に至るまで八十五年間代官を置いて支配した。現在、山頂には3階建ての展望台が建てられている。

<城下町上有知の建設>
 越前大野市の発展並びに飛騨の高山市発展の基礎が、ことごとく長近公によって築かれた如く、我が郷土美濃市の発展の基礎も、実に長近公によって築かれたのである。― 中略 ―
 長近公は上有知に移った後、慶長七年(一六〇二)旧四月十六日この怒りの川の大氾濫のために、城下町の下渡六反小者町古町古城跡堂塚の地が押し流されてことごとく荒廃に帰した時、この
惨害を目(ま)の当りに見た。
 是非ともこの城下町を永遠に水禍より救わんと志し、直ちに難民救済と同時に城下町の移転再建を計画し、清泰寺の鉄松和尚に謀る。鉈尾山の西南麓小倉山城の眼下南面の長の瀬の低湿地の向こうに、あたかも亀の甲形に展開する城郭内の無人の原野を開拓してこれを亀ヶ丘と名付け、越前の大野、飛騨の高山の如くに小
倉山城を扇の要(かなめ)として、城から一目に見渡せるように一ノ町、二ノ町の上町(うえまち)六町を整備した。
 城下町を低地の下渡六反地方から高地のこの亀ヶ丘に移し、向こう三か年間は一切の租役を免除し、以後は清泰寺の寺領三十石を納むれば一切の運上を免除して、極力城下町を保護育成した。
 そのために移転は速かに完了し、慶長十二年(一六〇七)八月十五日及び翌十三年四月二十一日の大洪水の災害から救われたばかりでなく、岐阜県治水誌に残る慶長十六年(一六一一)八月十二日以後今日まで実に百回以上にのぼる長良川の大洪水の水禍及びその恐怖より完全に救われたのである。
 上有知は、かくして金森長近公の大英断によって救われたのである。明治の中頃までは、六反沖には至るところにまだ深い泥田があったという。しかも亀ヶ丘は地形上風害も少なく、また、濃尾震災において現実に証明された如く、地下は一枚岩の大磐石であるために地震による被害も少ないという。― 中略 ―
 上有知の町筋が、行き当たりの鍵形に折れ曲がっているのは、防備を主とする城下町の特色である。― 中略 ―
 城下町を亀ヶ丘に建設して以来、この城下町の上町六町を根幹として、長近公の積極的な殖産興業政策によって、小高山と呼ばれるこの山麗しく水清き、静かに落ちついた上有知は目覚ましい発展を遂げて行った。
<港町の事>
 長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移ると同時に、当時の唯一の交通運搬の機関たる長良川の水運の要衝は、下渡より港町に移り、爾来この港町は舟及び筏(いかだ)の寄港発着地として、上有知の表玄関となり、港は益々盛大となって、上有知発展の基礎をなすに至った。
 そこには水の神様である住吉神社が勧請(かんじょう)されており、今に残る港の灯台は、摂津の住吉神社の灯台を移したものであって、わずかに繁華なりし当時の港町の面影(おもかげ)を留めている。
長近は美濃和紙、生糸などの産物や上流の金山方面から運ばれる木材運搬の中継基地として整備した。
<金森長近公と産業>
 長近は上有知の領主となるや、高山におけると同様に領内の産業の振興と、領民の生活の安定と向上に力を用い、紙茶雨傘養蚕生糸織物等を極力奨励した。すなわち長近公は山間部に茶の生産を奨励し、宇治の茶や徳川家康の奨励した静岡の茶とともに津保の茶を生み出した。最近まで宇治の茶はその大半が潮風の当たらない津保の茶であったという。
 紙の生産には最も力を尽し、綿も上綿を産出し、傘の製造も立花方面で奨励し、傘紙茶袋の生産を盛んにした。また、養蚕を奨励指導し、曽代糸曽代絹は京都において特に珍重された。養蚕が盛んであったことは浅井図南の日記の中に「明け行けば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
 長近は、城下町を亀ヶ丘に建設するや、上町六町の南方丘下に、先に鉈尾山城主佐藤秀方公が開いた市場を拡張して、枝村商人をしてここにおいても紙座を設けさせ、六斎市を上有知でも開かせた。かくして紙の市場は、大矢田より自然に地の利を得た上有知に移るに至った。
 六斎市とは一と六の日、あるいは二七、三八、四五の日と市日を定めて月六回、定期に開く市のことであり、月三回開くのを三斎市という。長近公は三八の日を市日と定め三日八日十三日十八日二十三日二十八日と月六回ずつ紙市を開かしめた。もちろん、紙市には原料の市も同時に開いた。当時他国の市はほとんど三斎市であったのに、大矢田上有知は六斎市であった。従ってこの市がいかに盛んであったかがわかる。― 中略 ―
 こうした積極的な保護奨励政策によって、牧谷をはじめ美濃国領内の紙業は非常に盛大となり、それに伴なって上有知の紙商、原料商も増加して城下町は大いに繁栄して行った。古書に楮問屋十三戸、年間四千四百五十両、反古紙出(ほごしで)は年間二千四百二十両に
及ぶという。
 金森家断絶の後も、代官所は長近公の諸政策をそのまま引き継ぎ、一層これを保護奨励したので、長近公亡き後も引き続き市場は発展し、紙業は益々発達し、城下町上有知はいよいよ盛んになって行った。
<美濃市上有知領(道中記)>
〈金森家古文書〉
 七月二~十日にかけての江戸から上有知までの道中記である。
旦那発足七月二日に相定め候(ニ) 付き左の通り宿割相究め候。御承知の上滞り無く御順達下さるべく候。
若(も)し指し合ひ等これ有り候ハゞ江戸旦那屋敷へ早速御知らせ下さるべく候。此の宿割の書簡濃州郡上渡辺外記・瀬川仁兵衛方へ遅滞無く相達し候様成され下さるべく候。以上
  金森兵部小輔内 申熊崎幸左衛門 □印  六月朔日  鷲見孫助 ㊞
 七月二日   蕨     休      わらび
 同  日   桶  川  泊      おけがわ
 同 三日   熊  谷  休      くまがや
 同  日   新  宿  泊      しんじゅく
 同 四日   松 井 田  休      まついだ
 同  日   軽 井 沢  泊      かるいざわ
 同 五日   望  月  休      もちづき
 同  日   和  田  泊      わだ
 同 六日   塩  尻  休      しおじり
 同  日   煮  川  泊  (贄川)にえかわ
 同 七日   福  嶋  休      ふくしま
 同  日   須  原  泊      すはら
 同 八日   妻  籠  休      つまご
 同  日   中 津 川  泊      なかつがわ
 同 九日   大  湫  休 (大久手)おおくて
 同  日   御  嶽  泊      みたけ
 同 十日   太  田  休      おおた
 同  日   上 有 知  泊      こうずち
  右宿   御本陣中  尚々、御承知の上、印形成され下されべく候。以上
◎ 旦那=主人=金森長近
◎ 申=慶長十三年(長近は同年八月伏見において他界)
◎ 兵部小輔=長近のこと。官名。
小輔=尚書(中国での用語。江戸時代に使われていたかは不明。)
※蕨から太田までは中山道である。
 七月三日の「新宿」は群馬県高崎市の「新町宿」と思われる。
『高山市史・金森時代編』より
上有知の金森家の断絶
第二代小倉山城主金森長光は長近の二男、極めて晩年の子にして幼名を千代丸という。慶長十三年(一六〇八)八月十二日父逝去につき、家督を継承して名を五郎八長光と称した。時に年わずかに三歳。
〈長光の死〉
 徳川家康は、長光を駿府城に招いて佩刀(はいとう)を賜わった。しかるに長光は、慶長十六年(一六一一)八月二十三日寿(よわい)わずか六歳にして病死してしまう。家督を継ぐ者なし、よって上有知の金森家はついに断絶す。
 家康は深くこれを憐れみ、飛騨高山二代目の城主金森可重を駿府に召して慰め、旧領の河内国金田三千石を長光の生母久昌院禅尼に賜い、さらに旧領の内の下有知生櫛横越笠神極楽寺の四千石を久昌院禅尼及び家老の肥田主水(もんど)、池田図書、鳩四郎左衞門に各千石宛を賜い、三家老を旗本に取り立つ。而して残余は江戸御蔵入りとなる。久昌院禅尼は京都の金龍院に移り住む。
 京都金龍院に金森家歴代の墓があったが、明治初年に金龍院は廃寺となったため、墓は今、京都大徳寺の塔頭龍源院にある。
美濃市清泰寺には金森長近の二男・金森長光の墓がある。
『高山市史・金森時代編』より

史跡 鉈尾山城跡
鉈尾山城は、戦国未期の佐藤氏3代の城であり、美濃市内の代表的な山城跡の一つである。この城は永禄6年(1563)に佐藤六左衛門清信によって築かれたと言われている。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈1丁で壁を切り落とせば何千騎も妨ぐことができたことに由来すると言われる。
第2代城主の秀方は、織田信長の家臣として戦功を挙げ、続いて豊臣秀吉にも仕えて一時は飛騨の一部も領有した。
第3代城主の才次郎方政も、豊臣氏の家臣として各地を転戦したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、西軍に属したため、戦後改易となった。
関ヶ原の戦いで東軍に属した飛騨高山城主金森長近は、戦後武儀郡を加封され、新たに上有知(こうずち)に小倉山城を築いて居所とした。これにより、鉈尾山城は廃城となった。
鉈尾山城は、山麓からの高さが約350ⅿを超え、あちこちに岩肌があらわれる険しい山上に築かれている。このような天然の地形を最大限活かした上で、多くの曲輪(防御の要となる平坦なところ)を設けている。また、注意深く観察すると、所々に石垣の跡も残されているのが確認できる。
佐藤氏も通常の居所は山麓の長良川沿いに設けており、鉈尾山城は有事の際の備えとしての性格が強かったものと考えられる。
美濃市教育委員会
説明板より

関ヶ原合戦後の金森長近―上(こう)有(ず)知(ち)時代から晚年への動き―
金森長近は、「上有知旧事記」によれば関ヶ原戦後、家康と一緒に稲葉山城に登った時に、「信長公在世中、この山へ来た者、今は法印と2人だけになった。相変わらずの味方に満足、何なりと望みを。」と言われて佐藤領と上有知築城を願い、やがてその望みは達せられた。
史料「上有知旧事記」の一部
<翻刻文>
権現公様、岐阜山へ御登山被為遊候節の事、法印様へ、信長在世ニ、此山へ来ル者も、今ハ法印と我等計ニ成候、不相替味方被致、満足ニ、何成共好ミ可被申と、被仰候節、上有知ニ御隠居御願被成、飛騨之国之同郡ヲ、領知 被成候、市町御免許、御上聞被為達候御事と、申伝候
 関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
 このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。
1 金森長近への恩賞
 関ヶ原戦後の賞罰で家康は、敵対した諸大名の領地の没収・削減を厳しく行なう一方、味方した外様大名に加増し、その領国を移すという政策を行なった。西軍の上有知城(鉈尾山城)佐藤氏は滅亡、東軍の長近は功によって本領飛騨国の安堵と、滅亡した佐藤方政の所領だった美濃国上(こう)有(ず)知(ち)に関を加えた20,000石と河内国金田の3,000石の都合23,000石を加増された。「岐阜県史」「美濃市史」他
<加増額の不一致>
 上の金森長近の石高は、岐阜県史、美濃市史による。河内国金田の分は、長近が伏見居住の便を考えて家康に所望したと考えられ、飛騨一国と合わせ61,000石の大名となった。
 ただし、これらの石数は諸書によって差があり、正確な石数の確定はむつかしい。(分知・蔵(くら)入地、合戦前の金森領など問題あり)
 23,000石説をとる文献は「金森先祖書」「寬政重修諸家譜」「靱負由緒書」「飛騨略記」などがある。
 20,000石説の文献には「寛永諸家系図伝」「諸牒餘録」「飛騨太平記」「金森家譜」「上有知元地目録」などがある。
2 徳川家康と采配紙
 徳川家康が関ヶ原合戦で東軍の総師として西軍と戦った時、家康が軍勢を指揮する采配の紙を、武儀郡御手洗村(現美濃市)の彦左衛門等に申し付けた。一同畏まって漉き立て家康公に差し上げた。
 この紙で作った采配で指揮したところ、東軍は大勝した。やがて天下を掌握し幕府を開いた後も、この吉例を以て、采配紙をはじめ、障子紙の御用をも仰せ付けられることになった。
 「佐藤鶴吉文書」に、次のようにある。
 是は神君関ヶ原御出陣の時、今庄屋を相勤め候、定七先祖の者等、御采配の御紙仰付けられ御漉上げ申し候処、悦喜にて、其節御利運に相成り申し候に付、吉例を以て追々御用を仰付けられ、御治世の上、駿府より以来、御紙漉屋と仰付けられ、代々御用を相勤め申し候。御采配紙の儀別して御大切の御用には、御忌言葉の儀仰渡され、漉立て候節は格別精密に仕り候儀、今尚心得罷り在り候。(略)
  采配紙は良質の厚紙に大根の汁や、みょうばんを塗って乾かしてから朱・金・銀仕上げとする。朱漆塗・金箔押・銀箔押がこれで、紙は7・8・11・13・21枚などを重ねて細く裁ち、その一端を立鼓という輪に順に重ねる。(「武具考」)
3 関ヶ原合戦に戦った家臣団
 関ヶ原合戦後、飛騨は可重へ、上有知は長近へと主君は二分され、当然ながらその家臣も分割を余儀なくされた。
 金森長近の領地が20,000石余増大した慶長5年(1600)以後、上有知に移った家臣について、「飛騨太平記」は、次のように記している。
  「法印公より御奉公仕り来る者は、大半上有知にて、長近公御逝去の後、御暇取者有。其内、肥日主水・島田四郎兵衛・池田図書、権現様へ召出さる。」
 文中記述の「法印公より御奉公来る者は、大半上有知にて……」とある大半が何を意味しているか問題であるが、長近直属の家臣団たる「高山法印衆」の上級家臣の大半ともとれる文である。
 可重に残されたいわゆる「古川出雲衆」は、長近が与えた家臣団であることを考えれば、法印衆と出雲衆をはっきり分離していたと言えなくもない。
 記述にある3名は、長近の遺臣で、肥田主水忠親(母は長近の娘)、島田四郎兵衛、池田図書政長(上有知金森断絶後家康仕官)は家康から各1,000石宛を与えられて旗本に列した。
 なお、肥田、池田のほかに島三郎左衛門にも1,000石与えられているので島田四郎兵衛と島とは同一家臣とも考えられる。
 長近が飛騨に発した会津上杉征伐時出陣命令に、田島道閑、大塚権右衛門、今井少右衛門宛の名が散見されるが、法印衆であろう。
 「田能村記」「願生記」「飛州軍乱記」「豊国武鑑」「遠藤家旧記」などの文献上から法印衆・出雲衆の一部を見ると、
高山法印衆……遠藤宗兵衛(家老)、吉田孫十郎(500石)、石徹白老右衛門、田島道閑、牛丸又右衛門、山田小十郎など
古川出雲衆……西脇右近(家老)、西脇吉介(300石)、西脇兵左衛門など西脇一族、田能村善次郎、佐藤彦太夫など
があるが、同姓でも違(い)字があったりで確定に難がある。
 いざ合戦となると、多くの雑兵(家臣団の戦闘要員の多く)の動員が必要であったし、主力の遠征では自領内に残留する家臣、出陣期間、家族などを考慮する必要があった。
 前述の会津出陣準備命令では、「3年間免税することを条件に百姓を動員したこと」「長柄の者50人を動員したこと」などをあげている。小荷駄(主に兵糧・弾薬運び)、砦造りに従事したのである。
 実戦では、主人と共に戦う侍(悴(かせ)者・若党・足軽と呼ぶ)、主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下(げ)人(にん)(中間(げん)・小(こ)者(もの)と呼ぶ)、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓たち(夫(ふ)・夫(ふ)丸(まる)と呼ぶ)の雑兵たちによって支えられていたことを忘れてはならない。
 ほかに「陣僧」と呼ばれる非戦闘員が武士と共に戦場へ行き、戦死者の菩提を弔ったり、和議を取り持ったりしたことはよく知られている。合戦後戦場を訪れた僧もあったと伝えている。
 武儀郡洞戸村の禅僧「不立」は、関ヶ原合戦の時、家康に属して戦うため村民を連れて出発したが、途中水に溺れ死んだという。
4 小倉山城築城と上有知繁栄
 合戦後鉈尾山城(上有知城)に居館した長近は、ここには住まず慶長6年(1601)より背後に絶壁と長良川を持った尾崎丸山を選び築城に着手し、慶長10年(1605)に完成した。尾崎丸山を風流人長近らしく京都嵯峨の名勝にちなんで小倉山と改め、小倉山城と称した。
 築城と同時に、西軍に属した佐藤氏の菩提寺だった以安寺住職鉄松和尚を開祖として清泰寺を建立、金森家の菩提寺となし、寺領100石を寄進した。
 長近は、これと並行して、慶長7年(1602)の長良川の大水害後、城下町南方の台地を開拓して亀ヶ丘と名付け、ここに長良川沿岸にあった古町の人々を移転させ、永遠に水害より救った。
 古町は佐藤氏時代の城下町で、今も古町、古城跡保寧寺跡、金屋街道などの小字名が残っている。
 こうして新城下町上有知(旧美濃町)ができ、以後この地方の政治、産業、交通の中心地として繁栄した。長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移るや、長良川の水運の要衝は港町に移り、舟及び筏の寄港発着地として、上有知の表玄関となった。人も荷も悉く上有知港に集まり、上有知港から散っていった。上有知からは紙荷、曽代絹が主で、その積荷には水陸安全、桑名から海を行く荷には海陸安全と記入されていた。
 産業に意を注いだ長近は、紙の生産はもちろん、養蚕も奨励指導した。養蚕が盛んだったことは、浅井図南(註1)の「釜戸治湯日記」中に「明けゆけば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
 註1 図南は、尾張藩主徳川家勝に招聘され藩医となった。美濃各地巡遊紀行「釜戸治湯日記」を著した。
<引用文献>
森政治『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』65~67頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年