高山の土蔵の創始・江戸屋萬蔵

高山の土蔵の創始・江戸屋萬蔵
江戸屋萬蔵
生年不詳~弘化3(1846)8・17
左官の名工。山城屋万蔵と称する。江戸神田銀金町から高山に移り住んで、江戸式の土蔵の塗り方と型を高山へ伝える。半浮彫りの絵を塗り出した小森家の土蔵の扉が高山市に寄贈された。荏名文庫(江名子町)の土蔵、川上別邸の土蔵も万蔵の作。弘化3年8月、密通をして逃げた男女の追手に加わったものの、中尾峠で殺される。(飛騨春秋)
飛騨人物事典編集室編集『飛騨人物事典』 株式会社高山市民時報社発行 2000年
中尾口留番所こぼれ話
 この中尾口留番所における犯罪者逮捕事件が加藤歩蕭の『蘭亭遺稿』にある。
 番所詰の役人が、治安維持の役割を充分果たさなかったということで、交代させられたことが記してある。
弘化三酉午(一八四六)年八月
高山善応寺内大念儀(二八)石屋兵吉妻とき(三九)と密通いたし信州へ出(しゅっ)奔(ぽん)の処、江戸屋万蔵外三人跡より追いかけ中尾村新道にて論中、古川町方村清次郎是又女を連れ出奔いたしかけ候に付、古川清次郎江戸万を打ち殺し、十七日深更に信州蝶ヶ岳山中へ逃げ延び候処、翌十八日朝、信州山廻りの者に見咎(とが)められ、中尾口御番所へ注進いたし、右かかり合いの者共残らず中尾口差出し候処、右風聞二十日朝御役所へ相聞こえ、文通にては不行届に付、中尾口詰石黒一作交代仰せ付けられ、二十日昼吉住礼助出役、二十二日暁一作儀右かかり合いの者共腰縄付に致し帰郷、御役所へ差出し候事。
○弘化四丁未十二月の条中に
去午年八月十七日夜中尾村新道にて空町万蔵を殺害に及ぶ一件引合の者七日御法置
中追放    古川町方清次郎
密通に付獄門 善応寺内大念二九歳
密通に付死罪 天照寺町兵吉妻とき四〇歳
上宝村史刊行委員会編集『上宝村史 上巻』 上宝村発行 平成17年
荏(え)野(な)文(ぶん)庫(こ)土(ど)蔵(ぞう)
 〈県指定〉昭和31年2月24日   〈所有者〉荏名神社  〈所在地〉江名子町1290番地
 〈時代〉弘化2年(1845)  〈員数〉1棟
  土蔵(1棟)桁行3.47m、梁間3.47m、カラー鉄板葺、2階建
 国学者田中大秀の文庫蔵で、江戸屋萬蔵が造ったと伝わる。荏名(えな)神社の境内にあり、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。
天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽(かぐら)が岡(おか)の土を運び、飛騨国内各社の注(し)連(め)縄(なわ)を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
 階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
   天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
 文庫内の蔵書は、大秀没後高弟山崎弘泰の花里文庫に移され、大正元年(1912)売りに出たのを吉島休兵衛ほか5氏の援助で高山町教育会が購入した。現在、519部1,516冊が県の文化財(典籍)に指定され、飛騨高山まちの博物館で収蔵している。
 昭和51年、42万円をかけて瓦葺をカラー鉄板葺に改め、外壁の一部を修理した。
*『高山の文化財』より
町年寄川上家別邸跡  江戸屋萬蔵の造った土蔵
市指定年月日平成12年5月22日
所有者 高山市  所在地高山市島川原町47・48・49番地
時代江戸時代  員数1箇所 2棟法量など  敷地:1,098.38平方メートル
庭園:1箇所 池泉回遊式
稲荷社:1棟 幅1.17メートル、奥行1.476メートル、高さ3.53メートル、覆屋2.89メートル
土蔵:1棟 桁行5.4メートル、梁間3.6メートル
この地は江戸時代前半は2代目城主可重の5男重勝にはじまる金森左京家の屋敷跡で、庭園は金森宗和好みの雰囲気を残しており、当時の一部が残っている可能性もある。
現存する庭は京都に多く残る宗和好みの庭との共通した景観を持ち合わせ、岩組がしっかりしており、石の選び方にも共通性がある。平地に造られた庭で、小規模ながら中島と築山を配した池泉回遊式の庭としている。
幕府直轄地になって以後は高山の町年寄川上家の別邸となり、斉右衛門(文質)はこの地に隠居した。赤田臥牛がこの地を訪ねたおりには、漢文で庭の様子を「洋く園記」に詳しく書き記している。その後土地の所有は小森氏ほかの所有となり、貸家・駐車場などに利用されてきたが、文化財の保存・活用のために平成11年1月に高山市へ寄附された。
庭内の稲荷社は谷口与鹿の兄与三郎延恭の作で、天保13年(1842年)の建築。一間社切妻造で、御拝軒唐破風がついた、総けやき造り。願主は高山町町年寄川上斉右衛門棋堂とあり、川上家の発願によることが確実であるが、屋敷神としては立派なものである。覆い屋があるため保存状態は極めて良い。覆い屋には千鳥格子が見られる。
土蔵は江戸後期の建築で、左官の名手江戸屋万蔵の作と伝わる。扉内側には色鮮やかな松に日の出と双鶴の漆喰細工が残っている。万蔵は文政8年(1825年)頃高山へ来て、法華寺下の桔梗橋近くの長屋に住んでいたという。川上家本宅の土蔵は万蔵の作で、やはりこて絵の内扉があり、郷土館にこて絵の内扉1対が残っている。こて絵は荒波に朝日松、鶴の模様が浮き出されている。
*『高山の文化財』より
旧小森家土蔵の扉
以前より高山市郷土館(現・飛騨高山まちの博物館)で展示をしていた。上二之町の小森家土蔵に取り付けられていた扉で、土蔵取り壊しの際に、寄贈されて保管をしたもの。