高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻

高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
<立川和四郎の「五台山」の獅子彫刻>
 春の高山祭の屋台「五台山」の獅子彫刻は、長野県諏訪(下諏訪町、諏訪市)の立川和四郎(たてかわわしろう)が彫った。天保8(1837)年、与鹿16歳の時である。組内では祭礼の日まで制作を秘密にしていて、高山の人は新しい彫り物を見て仰天したという。谷口与鹿は和四郎の躍動する獅子彫刻を見て、強く影響を受け、その後、高山祭屋台の名彫刻を数々生み出すことになる。
 諏訪の和四郎は長野、愛知、静岡で寺社建築彫刻に活躍した大工で立川冨昌(とみまさ)と言った。初代立川和四郎(冨棟)は江戸の立川流に学び、諏訪に帰って諏訪大社などの建築彫刻に腕を振っている。冨昌はその後を継いだ二代目で、初代は獅子、龍などをテーマにしていたが、冨昌は鳥や植物にテーマを広げた。
 天保時代の高山は、屋台が大体今日のような様式に改造された時代でもあり、各屋台組では次々に競うように改修が行なわれている。従って高山の工匠たちは、腕を振るって存分の仕事をすることができ、屋台建造の名工が求められた時代であった。
<谷口与鹿の屋台彫刻>
 飛騨の名工、谷口与鹿(よろく)が25歳の時に手がけた秀作に、麒麟台(春の高山祭屋台)の彫刻「唐子群遊」がよく知られている。である。与鹿はこれを彫るとき、組内の有力者の家にこもって構想を練り、毎日、城山へ子どもと一緒に遊びに出かけ、その姿と動作を観察した。その間、少しも仕事に取りかかる気配がなかったので、組内(くみうち)の人は気をもんだという。
 この柱間(はしらま)の彫刻は1枚のケヤキ板から、水を飲む鶴、動く鎖を付けた犬、籠の中の鶏、遊ぶ唐子などを彫り出した。近寄ってよく見ると、ケヤキの木目が非常にきれいである。木目の年輪の円形になるところを、ひざの頭辺りに持ってきたり、顔の頬にも木目の円が来るように工夫している。選りすぐった木目をこよなく愛した飛騨匠(ひだのたくみ)ならではの所業である。
 また、籠の中の鶏はくりぬき彫りという手法で、耳かきのような特殊な刃物によって、多くの時間を費やして彫ったものである。彫った籠をかぶせたのではなく、どうやればこんな彫りができるものかと感心する。細かく均一に籠の網目を細く彫り抜き、中で鶏が餌をついばもうとしている。ケヤキの良材の木目を生かした名彫刻である。
 与鹿は代々大工の家筋であった谷口家の中で、五兵衛延儔(のぶとし)の次男(郷土史研究者池之端甚衛の説では、孫という)として、文政5(1822)年に生まれ、幼名を与三次郎といった。延儔と共に、高山市西之一色町の飛騨東照宮の造営に従事し、その彫刻を担当した中川吉兵衛の教えを受けた。そして谷口一門が請け負った屋台の改修に、吉兵衛とともに腕を振るってゆくのである。
 また、与鹿は、19歳の時には琴高台の波間の鯉を彫り、その後、恵比須台の手長・足長彫刻、麒麟台の彫刻などを完成したが、嘉永3(1850)年、文人画家の貫名海屋(ぬきなかいおく)を頼って京都に出てしまう。やがて伊丹の酒造家岡田家の食客となり、ここで家庭を持った。
神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
徳川3代家光将軍時代、日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失した。
現社殿は、11代家斉将軍時代・文化年間、幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されている。殊にこの神部神社・浅間神社両社の大拝殿は、他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間(せんげん)造(づくり)」と称され、当神社の象徴的建造物である。
高さ81尺(約25メートル)もあり、外観は彩色絢爛。殿内は132畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)・寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が描かれている。
  平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より

少彦名神社(重要文化財)
例祭日 1月8日
本社は、少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と称し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され、現在は少彦名命をご祭神とする。社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で、細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来境内社として、病気平癒の信仰がすこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
  平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より

東雲神社「丸山東照宮」
東雲神社は、古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宫」である。創建は元(げん)和(な)8年(1622)と伝えられ、「駿国(すんこく)雑誌」や「安東村村誌」によれば、駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現・浅間神社)の別当、惣(そう)持(じ)院(いん)境内に移したものと伝えられている。
惣持院は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となったが、「東照宫」は明治8年(1875)2月18日、村杜に列せられ、同33年(1900)、村内にあった八(や)雲(くも)神社を合祀し、「東雲神社」と改称した。
御祭神は「東照公 德川家康公」「速(はや)須佐(すさ)之男(のうの)命(みこと)」のほか、「天神社」「稲荷社」が祀られている。
宝物として、寛永20年(1643)に3代将軍家光公の武運長久と子孫繁栄を祈願して造られた「東照公御尊像」のほか、「慈(じ)性(しょう)親王(しんのう)筆東照宮額」「三十六歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯籠」「備前長光作脇差」などがある。
「丸山」の地名は、家康公が大御所として験府城在城中の慶長年間、鷹狩のためにこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものである。
「駿府まちおこし」推進協議会
静岡市
説明板より

八千戈神社(重要文化財)
例祭日 10月15日
本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支(まりし)天(てん)を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され、以後八千戈命をご祭神とする。
昭和5年(1930)5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部・浅間両社御修理中で、当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行なわれた。
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が、中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
  平成5年9月
静岡浅間神社
説明板より

 

関連資料

5-3-1 高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻

5-3-2 神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)

5-3-3 少彦名神社(重要文化財)

5-3-4 東雲神社「丸山東照宮」

5-3-5 八千戈神社(重要文化財)