大坂の陣・金森氏の配置場所
大坂の陣・金森氏の配置場所
① 冬の陣
大坂冬の陣は、慶長19年(1614)10月、豊臣側では戦争準備に着手し、全国から浪人を集めて召し抱え、その兵力は10万人に及んだ。
家康は10月11日駿府を出発、23日には京都二条城に入っている。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かい、18日先着していた秀忠と「茶臼山陣城」で軍議を行なった。徳川方は約20万の軍。
11月19日、戦闘が開始され、12月3、4日の真田丸の戦いでは、豊臣軍が徳川軍を撃退している。12月20日には和平が成立、三之丸、さらには二之丸の堀が埋め立てられ、12月23日に完了、諸大名は帰国の途についている。家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻った。
② 夏の陣
和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で戦争準備を行なっている。慶長20年(1615)3月、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。4月10日、秀忠は江戸を出発、4月21日、二条城に到着、22日、家康と秀忠は諸将と軍議を行なった。徳川方の戦力は約155,000人、軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かう。
大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した。5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した(天王寺・岡山合戦)。
5月7日、兵力に勝る幕府軍は次第に態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。真田信繁(幸村)は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち死にした。享年49。
下の図は「夏の陣・首帖(くびちょう)」で、下欄に諸将が獲得した首数が記される。慶長20年(1615)5月6日、道明寺・誉田合戦図。金森の首数は153とある。
「元和偃武(げんなえんぶ)」
応仁の乱以来、150年余にわたって続いた戦乱の世が、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で終わったことを指す。江戸幕府は、この年、元和と元号を改めて、天下の平定が完了したことを知らしめた。
『高山市史・金森時代編』より