金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
慈恩寺
当寺は、八幡城主遠藤慶隆が開基で、大本山妙心寺から半山禅師を迎えた。境内には遠藤慶勝らの霊廟や、金森左京(可英(ありひで)・第4代)の墓、金森頼錦(よりかね)(台近(よりちか))の碑(墓は、宝暦騒動後改易断絶、御預け先の盛岡にある)がある。奥庭の荎草園(てつそうえん)は創建半山禅師の作庭で、池泉廻遊式かつ座観式の室町様式を持つ庭園である。明治26年(1893)、水害で埋没、3年後に復興。園内には、宗和形灯籠と、高山→上山(かみのやま)→郡上へと金森氏と共に運ばれた春日灯籠がある。八幡城主頼錦は、深くこの庭を愛し、詩集「錘山十境記」をまとめている。
リーフレットより
臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤但馬守慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南化玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。寺内に但馬守嫡男長門守慶勝公及び生母智勝院殿の塔所を建立し、当寺を長州公の菩提所と定め但馬守の学問所とされる。元和8年(1622)正月20日、山火事類焼の厄に遭い堂宇全焼するも、但馬守江府より工匠を呼び庫裡(12間・18間)再建後寛永8年(1631)8月、前長州公二の丸御殿を移して本堂(9間・12間)を建立される。当山第2世天外和尚、第3世梅山和尚と3代を経て、堂々たる堂塔伽藍並びに境内の整備を成したと伝えられ、元禄13年(1700)高山城主、金森頼旹公、郡上に移封となり以来当山は、金森公の香花所となる。第6世絹因和尚代勅使を以て寺号に「護国」の2字を賜り、文化14年(1817)勅諡大徹正源禅師(棠林和尚)禅堂建立、雲水80有余員参集して、禅風大いに揚がったのであった。因みに当山は隠山系棠林門下一流の発祥地である。嘉永5年(1852)第12世月局和尚経蔵新築され、禅寺の偉容全く堂々たるものとなる。第13世淅炊和尚代、維新の政変、排仏毀釈の法難に遭い、寺内困窮、第15世綱山和尚代、明治26年(1893)8月22日、県下未曽有の豪雨あり、裡山崩壊し本堂始め諸堂宇埋没、僅かに総門及び勅使門を残すのみの惨禍に遭うも、同29年(1896)本堂裡再建、第17世英山和尚、昭和50年(1975)宝蔵庫建立される。名勝天然記念物「荎草園」は、創建半山禅師の作庭にして、明治被災以前は、広々と本堂の周辺一帯をめぐり、古城跡東殿山を望む庭中のたたずまいなど、往時の雄大さは偲ぶべくもない。併し、現存の借景に依る池泉回遊式の禅宗庭園としては当地方随一を誇るものである。
説明板より
関連資料
2-25-1 慈恩寺(郡上郡八幡町島谷)
2-25-2 臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
資料集