近江大津宮跡
近江大津宮跡
史(し)跡(せき) 近江(おうみ)大(おお)津(つの)宮(みや)錦織(にしこうり)遺(い)跡(せき)
西暦667年、天智天皇は新羅(しらぎ)・唐(とう)の連合軍と対戦した白村江(はくすきのえ)の戦いが敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移した。この近江に営まれた宮が大津宮である。天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたが、遷(せん)都(と)後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申(じんしん)の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまった。わずか5年5カ月の短命の都であった。
大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に明確にすることができなかったが、昭和49年にここ錦織2丁目で行なわれた発掘調査により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が13基発見された。この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになった。その後、昭和53年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、内(だい)裏(り)南門(なんもん)と宮の中心を囲う回廊(かいろう)とこれにつながる柵(さく)の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになった。
ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和54年に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定された。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も順次史跡に追加指定されている。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和54年7月2日指定
大津宮は『日本書紀』に、「浜台」「大蔵」「宮門」「朝廷」「殿」「漏刻台」「内裏西殿」「大蔵省第三倉」「新宮」「大炊」「大殿」などの建築物に関する記載がある程度で、その正確な位置や実態は長い間明らかではなかった。
ここ第1地点では、1辺140~170センチメートルの方形の掘方を持つ東西棟の建物(SB001)とそれに取り付く回廊(SC001)、さらに、回廊に直角に取り付いて北に延びる塀(SA001)などが見つかった。東西棟の建物(SB001)は内裏の南門、回廊(SC001)は複廊と考えられている。複廊は古代の宮殿において、その中心となる施設を囲む回廊に用いられる廊の型式で、格式の高いものと考えられている。
※説明板より
史跡近江大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたる。
この場所の2列に並ぶ柱は、内裏の入り口の門から東に延びる回廊の一部と考えられている。また、左手に見える1列に並ぶ柱は、回廊から北に延びる塀の一部と考えられている。
ここから北に約80メートルの地点では、内裏正殿の跡が見つかっている(第2地点)。
おそらく、正殿の南側は広場になっていて、第1地点と第2地点の間は、儀式などに使われる重要な場所だったと考えられる。※説明板より
錦織(にしこおり)の地名
古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部(にしこり)郷と呼ばれていた。錦部郷の地名は、機織(はたおり)関係の職務に携っていた朝鮮半島からの渡来人である錦部(にしこり)氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたことに由来する。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第2地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、内裏南門推定地(第1地点)の真北約80メートルの場所にあり、天智天皇が政(まつりごと)を執り行なった内裏正殿のあった場所、つまり大津宮の中心的位置だったと推定されている。
昭和57年(1982)の発掘調査では、建物の東南部分と考えられる10基の柱跡が見つかっている。建物の規模は、桁行5間・梁行2間の身舎(もや)の4面に廂が付く格式の高い大型建物で、東西7間・南北4間、東西が21.3メートル、南北が10.4メートルを測る。
この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第7地点と第9地点まで広がっていたと考えられる。※説明板より
大津宮錦織遺跡(第7地点)昭和59年7月3日追加指定
この場所は、まだ発掘調査が行なわれていないが、県道を挟んだ東側からは東西7間・南北4間(21.3メートル×10.4メートル)の四方に廂を持つ、建物と推定される遺構の一部が見つかっている。この遺構は、その位置・規模から、天智天皇が直接政治を行なった内裏正殿の跡と考えられており、建物西南部分はこの場所まで延びていると考えられる。※説明板より
大津(おおつの)宮(みや)錦織(にしこおり)遺(い)跡(せき) 第8地点
昭和9年の発掘調査により、この第8地点の北に隣接する第1地点で内(だい)裏(り)南門跡(なんもんあと)が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認された。第8地点は、まだ発掘調査は実施されていないが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するものと考えられる。まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点である。
この第8地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当し、後世には西(にし)近江(おうみ)路(じ)と呼ばれた重要な交通路であった。この道を北へ辿ると、大津宮と同時代の遺跡である南(みなみ)滋賀(しが)町(ちょう)廃(はい)寺(じ)跡(あと)や崇福(すうふく)寺(じ)跡(あと)といった史跡がある。
※説明板より
白村江の敗北
朝鮮の白村江(はくすきのえ)において百済(くだら)・日本連合軍が、唐と新羅連合軍に大敗したのは天(てん)智(じ)2年(663)のことである。その惨状は、ベトナム戦争で敗れた南ベトナムとアメリカ軍が、洋上へ撤退した場面を思い出せば、理解しやすい。九州から大和まで瀬戸内海に沿って点々と築かれた山(さん)城(じょう)、飛鳥から近江の大津京への遷都。それら一連の事業は、大唐帝国と新羅に対する恐怖の産物であった。
しかし、唐と新羅が再編成した東アジア世界で、日本という国家が生き残るためには、行政改革を行ない、強力な政府を建設する以外に道はなかった。政府は法律によって国を統治する律令制度を導入し、仏教の国教化を促進する。改革の手本は先進国の唐帝国と定め、百済の遺民がブレーンとして加わった。
律令制度を演出する中央の舞台が都(と)城(じょう)であり、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮・難波(なにわ)京・藤原京と都市建設の実験を繰り返しながら、平城京にいたって初めて完備する。それは、国土の中心に天皇の政府が所在する都城を営み、地方には政府の意志を代行する国府を置き、その傘下に郡(ぐん)・郷(ごう)・里(り)を配置するという、壮大な構想の一環であった。それらの行政機関を幹線道路で連結することによって支配網が整う。さらに、大陸に門戸を開く北部九州に大宰府を設置し、東国のまつろわぬ人々を屈服させ、領土を北に拡大するために、多賀城とその出先の城(じょう)柵(さく)を設けた。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見されました。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるようになりました。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展しています。昭和54年7月に国史跡に指定されました。
昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門と想定され、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属しています。この門の北側が内裏、南側が朝堂院と考えられています。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿があります。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されています。
(引用:http://oumijingu.org/publics/index/112/)