勢理客十五夜祭
獅子舞を中心として、多くの踊り(ウドゥイ)、狂言(チョウギン)も演じられた勢理客の十五夜祭は、戦前から広く知られていて、祭りの夜は近隣から沢山の見物客も詰めかけてにぎやかでした。獅子舞は、約四百年の昔から伝承され、人物像ははっきりしませんが、「コーレー具志堅」という方が始めたと伝えられています。去る沖縄戦で、勢理客地域は壊滅的な被害を受け、村屋は焼失し獅子や舞台衣装、三線、ドラ、太鼓等の小道具にいたるまで全てを失いました。しかし、昭和22年に収容所から地元帰住を許されると、直ちに村屋を造り、獅子や舞台衣装、小道具などを作りあげ、「十五夜祭」を復活したのです。
村屋(現在は公民館)は、場所を移転してきましたが、旧暦8月15日の「十五夜祭」は、一度も欠かすことなく、毎年実施して今日に至っています。戦後の20年間は、戦前の十五夜祭と同じように、夕方から明け方まで中断なく演技が行なわれました。獅子舞11番全てが登場したほか、子供の舞い、二才踊り、女踊り、そして実に多彩な狂言(チョウギン)の演目が次々と演じられました。
その後、都市化が進み、住民の働く形態も変わり、祭りの時間の制約などもあり、十五夜祭は縮小され多くの演目が失われて今日に至っています。しかし、獅子舞を中心に十五夜祭は、勢理客区民の心の拠り所として毎年開催されてきました。獅子舞は昭和48年に「国選択の無形文化財」になり、昭和56年には「浦添市指定民俗文化財」にもなっています。(「勢理客獅子舞保存会の活動史」から抜粋)
中村家住宅
国指定重要文化財 – 中村家住宅
中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物です。沖縄本島内では、第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1972年(昭和47年)復帰と同時に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。
中村家の歴史
今から約五〇〇年前中村家の先祖賀氏がうじは、忠信かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸ごさまる(中城なかぐすく城主)が読谷よみたん(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利あまわりに滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。一七二〇年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。
中村家沿革
今から約500年前中村家の先祖賀氏(がうじ)は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)より城中城に移した時、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利に滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。1720年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職) に任ぜられました。
構造について
現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられています。建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられて、独特な住居建築になっています。この遺構は、士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備え持っています。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切りひらいて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えています。
那覇市内の風景
わたしたちの街「那覇市」は、沖縄県の県都として、人口32万人余を有する政治・経済・文化の中心地です。また首里台地(標高165m)から東シナ海に面して、ゆるやかに傾斜した平野部を背景に、古くから港が整備されるなど、海外との交流拠点として、「琉球王国」文化が華ひらいた街です。気候的には、暖かい黒潮の影響もあって、冬でも暖かく、夏は、四方の海から吹く風が吹き抜ける、年間の平均気温差が少ない、すごしやすい土地です。先のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦では、街は焦土と化しましたが、1972年の日本復帰を経て、多くの県民市民の努力と協力によって、現在の那覇市へと発展してきました。21世紀をむかえ、那覇市は、沖縄都市モノレール・中心市街地及び新都心地区を核としたまちづくりを展開しています。また市民との協働のまちづくりや次代を担う子どもたちの育成を中心とした諸施策を展開し、風格ある県都としての新たな那覇市の実現をめざします。(市のプロフィールより)
久高島
北東から南西方向にかけて細長く、最高地点でも標高17m[3]と平坦な島である。将来懸念される津波襲来に備えて、300人を収容できる避難施設(上部は海抜21.35m)が設けられている。土質は島尻マージと呼ばれる赤土で保水力には乏しい。河沼はなく、水源は雨水と湧き水を貯める井泉(カー)に依存している。海岸沿いには珊瑚礁で出来た礁湖(イノー)が広がっている。
北東約2.1km沖にウガン岩がある。
琉球王国時代には国王が聞得大君を伴って久高島に渡り、礼拝を行っていた。後に本島の斎場御嶽(せいふぁうたき)から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。
近世・近代には鰹節の産地として知られ、徐葆光の『中山伝信録』でも「鰹節は久高島産のものが良質」と述べられている。
1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、金武町屋嘉の集落に身を寄せた[6] (久高島住民強制疎開の碑)。そのためやんばるでの避難生活や収容所での栄養失調やマラリアで亡くなった住民が多いといわれ[7]、沖縄戦での犠牲者は男性が13名、女性が24名、子どもが27名の計64名である。1946年5月に帰島が許された。
行政区域上は1908年(明治41年)の島嶼町村制施行時に島尻郡知念村久高となり、2006年(平成18年)に知念村が佐敷町、玉城村、大里村と合併したため、南城市知念字久高となった。
2021年(令和3年)11月、福徳岡の場の噴火から生じた大量の軽石が沖縄の海域に移動。安座真港と久高島をつなぐフェリーが欠航するなどの影響が出た。
琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。
島北端のカベール岬は祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨したとも伝わる聖地である。
現在の久高島
久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年、2014年は行われていない。
イシキ浜
久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子一人につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。
かつて琉球時代に執り行われた「麦の穂祭り」など多くの五穀発祥にまつわる祭祀が年中行事として現在も残る。
中世から近世にかけて、久高海人は奄美群島まで出かけて、現地妻を作るなどしたため、奄美との交流の歴史は古い。奄美の一地方では、久高海人を意味する「くだかんちゅ」という言葉が、久高島周辺の沖縄諸島住民全体を指して用いられることがあった。
かつて風葬が行われていた地であり、地元の方言による葬送歌なども存在する。
1966年のイザイホーの際に取材に来た芸術家の岡本太郎は祭りの最中に男子禁制のクボー御嶽に入り、風葬の地に入って墓を写真に撮り、写真を『週刊朝日』に掲載した。これが直接の原因ではないが、現在では久高島では風葬は行われていない。
岡本太郎の著書『沖縄文化論 – 忘れられた日本』(中央公論社刊 1972/10)によると、岡本は久高ノロの子息に案内されて1959年に大御嶽を訪れており「ここもかつては男子禁制だった。」と書いている。1966年の再訪の際にもクボ―御嶽に行って写真を撮影している。「那覇から来ている新聞記者」らと共に有志の案内で後生(ぐそう)を訪れ、ここで風葬を撮影した。
平和への願い ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期、米軍のガス弾攻撃によって亡くなった多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者を弔うため、1946年4月5日、真和志村民らによって伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑である。
「ひめゆり」の名前の由来は、当時沖縄県立第一高等女学校が「乙姫」、沖縄模範学校女子部が「白百合」と名付けられていたことから、その両方の名前を合わせて「姫百合」となった。その後、戦後になってひらがなで「しらゆり」となったと伝えられている。
1983年1月、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示し、戦争の悲惨さを後生に伝えるため、元ひめゆり学徒隊(団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会)は、資料館建設期成会を設置した。その後1989年6月23日、ひめゆりの塔の隣地に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。
館内には6つの展示室と多目的ホールがあり、平和で希望に満ちた学生生活の様子や、そこから一変して戦争に巻き込まれたひめゆりの学生たちの様子や証言を写真や映像とともに見学することが出来る。
また、資料館には戦争によって焼け焦げてしまった当時の生徒の持ち物や医療器具なども展示されており、どれほど恐ろしく、そしていかに一般市民を巻き込んだ戦争であったのかを知ることが出来る。
資料(メタデータ)
平和への願い_ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
沖縄の歴史 首里金城町石畳道
首里金城町石畳道は、1964年(昭和39年)5月1日に文化財(県指定史跡・名勝)に指定された。
尚真王時代(1477~1526年)、首里の街の中、首里と各地方を結ぶための道が整備され、1522年ごろ、首里金城町石畳道は首里と島尻地方を結ぶ道筋として整えられた。
首里金城町石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4㎞総延長10㎞の官道であり、真珠道の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造がはじまった。
第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊されたが、金城町に現存する238mの区間は、琉球石灰岩が敷かれた当時の石畳道の姿を現在に伝えている。
日本の道100選にも選ばれた景勝地でもあり、沖縄県指定文化財である。首里城公園の南側斜面に位置し、14~19世紀にかけて栄えた琉球王朝時代の石畳古道である。
参考:那覇市観光資源データベース,https://www.naha-contentsdb.jp/spot/662(2022/12/3アクセス).
資料(メタデータ)
沖縄の歴史_首里金城町石畳道
平和への願い 戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー(仲本 實 氏)
「戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー 仲本實氏」は、沖縄戦の戦中・戦後に小学生であった仲本實先生に、米軍の上陸前後あら収容所までの戦争体験を子どもの視点でオーラルヒストリーとして聞き取りしたデータをもとに、本学が制作・公開しているWebサイトである。
聞き取りをしたデータから教材として適する話しを抽出して作成している。
沖縄戦では多くの人々が犠牲となり、現在も沖縄の人々の心に深い悲しみとして残っている。沖縄本土復帰50年が経ち、戦争体験者の高齢化が進み、戦争体験者の話を直接機会が少なくなりつつある現在、次世代への継承の重要性が課題とされている。
URL:http://www.gijodai-okinawa.jp/ohrai/nakamoto_oral_201309up/index.html
資料(メタデータ)
平和への願い_仲本實氏オーラルヒストリート
久米策聖会孔子廟
孔子廟というと、あまりご存知の方は多くは無いかと思いますが、中国春秋時代の思想家で論語で有名な儒教の創始者、孔子を祀っている霊廟のことです。
中国などの外国から琉球に帰化した人たちの多くは、那覇の久米村に住んで久米三十六姓と呼ばれていました。 そして1676年にこの孔子廟を完成させお参りをしていましたが、第二次大戦で消失。 孔子様の像有った場所も国道が通り同じ場所での再建もかなわず、改めて波之上に1975年再建されました。 そして2013年、那覇市久米の松山公園の隣に新しく建設されたのがこの孔子廟です。
日本では最南端の孔子廟でもあり、当事の琉球が中国と密な交流関係が有ったことを忍ばせてくれる場所でも有ります。 普段は正門が閉まっていますが、両側の入口は開いているので自由に入って参観することができます。
宜野湾市青年エイサー祭り(2004)(十九区青年会・我如古区青年会)
毎年旧暦7月の旧盆の翌々週に、本島中部の宜野湾市で行われる祖先供養のための伝統芸能「エイサー」の祭り。「エイサー」は一種の盆踊りで、その名称はお囃子の文句「エイサーエイサースリサーサー」から来ているとも言われます。現在では夏の沖縄を代表する伝統芸能として、夏の間、県内各地でエイサー大会が開催されます。
「わったー宜野湾エイサー魂」を見せるべく、宜野湾市青年連合会加盟の14団体が企画・運営を行っています。祭りの日には青年会が一同に集い、それぞれの地域の特色ある衣装や独特の踊りを披露するので、見比べてみると楽しいですよ。
1968年に「宜野湾市エイサー大会」として始まり、当時は順位を付けていたそう。その後、名称を何度か変え、2019年で第23回をむかえます。今では観客動員2万人を超える大きなイベントです。2日間ともに観客と出演者全員での「カチャーシー(沖縄の手踊り)」で締めくくられ、2日目の最後には花火大会もあります。
沖縄空手(多視点映像)
1.空手の紹介
2020年東京オリンピックの追加種目に正式採用されて以来、空手はこれまで以上に注目を浴びています。沖縄古来の武術が中国の武術と融合して誕生した空手は、突き、蹴り、受け、転身、投げ、固め、極め等の技を活用した武道であり、沖縄の地で研鑽され、日本本土や世界に広がりました。現在では、護身術、スポーツ、精神修養の手段として広く世界中で受け入れられています。
空手発祥の地で脈々と受け継がれてきた沖縄空手は、先人たちが伝え継承してきた「型」の習得を重要視しています。沖縄空手の「型」は、攻防一体となった無駄のない技が完璧なまでに構築されており、同じ「型」を日々繰り返し鍛錬することによって、体力、忍耐力、精神力を鍛え上げるものです。空手の鍛錬は型の反復練習に加え、器具等を使った部位鍛錬が伝統的なメニューです。近代になって組手(自由・約束)による修練が出てきました。また、沖縄空手は沖縄古武道とも一体の面があり、武器術や取手術、関節術なども合わせた総合的な武術という側面もあります。
沖縄空手では「チンクチをかける」「ガマクを入れる」「ムチミを使う」というような言葉がよく使われます。これらの言葉は沖縄空手独特の身体操作を表現したものであり、基本動作であるとともに極意にもつながる大切な動きです。
空手は、自分の身体能力を自覚し、開発することにつながります。
2.歴史の紹介
空手発祥の起源についてはさまざまな説がありますが、琉球王国の士族が教養として学んだ護身術がそのルーツであるといわれています。この護身術は「手(てぃ~)」と呼ばれる沖縄古来の武術となり、その後中国武術と融合し、現在の空手の基本が生まれました。空手は、首里、那覇、泊の3つの地域を中心に発達し、その後多くの流派を生み出していきます。学校教育に取り入れられたことも沖縄における空手の普及に大きな力となりました。本土に紹介された後の空手は、各大学や陸軍戸山学校・警視庁の空手研究会を中心に発展を遂げていきます。
沖縄は、日本本土だけでなく台湾や東南アジアにも近いという地理的な優位性を生かして、様々な文化を柔軟に取り入れてきました。空手もまたそうした沖縄の知恵や風土の産物の一つなのです。
3.世界への広がり
沖縄で生まれた空手は世界中に広まり、現在では約150カ国以上、数千万人の愛好者がいるといわれています。空手が海外に広がった背景には、積極的に海外での普及活動に従事してきた多くの空手家の努力がありました。そして、こうした人たちの努力のおかげで、空手は世界にひろがって、世界のKARATEとなりました。
そして2020年東京オリンピックの追加種目への採用は、空手をさらに世界に飛躍させるきっかけとなるでしょう。
4.沖縄空手の思想の紹介
本来、沖縄の空手に試合という発想はありませんでした。空手は護身術であるとともに、自己鍛錬の手段だからです。向き合うのは自分自身であり、空手の稽古を通じて自分を磨くことこそが沖縄空手の稽古なのです。
「空手に先手なし」
「人に打たれず、人打たず、事なきをもととするなり」
沖縄空手の先人が残した金言には、礼節を尊ぶ平和の武としての精神性が表されています。道場ではじめに教わることは礼です。空手の稽古は礼によってはじまり、礼によって終わります。技法や技術だけではなく、守礼の心を学ぶことが大切なのです。















































































































































































































