城郭-16 小島城(飛騨市)岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ城郭-16 小島城(飛騨市) 古川町杉崎 小島城は、『飛州志』に「国司姉小路家代々居住ノ本城也」とあるように姉小路家の嫡流小島家の代々の居城である。姉小路家は、戦国時代に同じく地方へ土着し戦国大名化した伊勢国北畠氏、土佐国一条氏と共に三国司と並び称される家柄である。 岡村利平の記した『飛州志備考』によると、永仁2年(1294)には、姉小路家の使者が飛騨に下向したとの記録があることから、鎌倉時代には飛騨を領有していたようである。その後南北朝時代、家綱以後は飛騨国司としての飛騨における足跡が明らかとなる。 また、応永18年(1411)には、家綱の弟とも甥とも言われる第4代飛騨国司・尹綱が、広瀬常登入道とともに室町幕府に対して挙兵する(応永飛騨の乱)。 尹綱は小島城に拠って幕府の大軍を迎え撃ったという。幕府は京極高員、小笠原持長、朝倉左右衛門、甲斐小太郎らに尹綱追討を命じ、それぞれの領国である隠岐、出雲、近江、信濃、甲斐、越前などの兵3,500で攻め寄せ、尹綱は討死にしたという。南北朝合一(1392)後、両統迭立反故の動きに不満を抱き、乱の前年(1410)に後亀山法皇が吉野に出奔していることから、尹綱の挙兵はこの出奔に呼応したものといわれている。 応永飛騨の乱の後、姉小路家は小島家、古川家、小鷹利家の三家に分裂する。この三家はそれぞれ北朝より飛騨国司に任じられ、飛騨北部を支配する。古川家の基綱とその子済継は、和歌の名手として都でも知られ、宮中の歌会にも度々参加したという。江戸時代後期の高山の国学者・田中大秀は、姉小路基綱、済継を飛騨文学の祖と位置づけ、その功績を永久に顕彰しようとした。大秀の発願で建立された歌碑が細江歌塚で、姉小路家ゆかりの小島城山麓に建てられている。 戦国時代の飛騨は、飛騨北部を姉小路氏、高原郷を江馬氏、飛騨南部を三木氏が支配する。三木氏は、飛騨守護京極氏の家臣で竹原郷(下呂市)に土着したものである。姉小路氏は飛騨北部に進出する三木氏の圧力を受けることとなる。 天正10年(1582)三木氏は江馬氏を破り飛騨の覇権を手にした(八日町合戦)。この際小島家当主小島時光は、三木氏側として戦い、江馬氏の高原諏訪城から大般若経を奪い、これを小島城下の寿楽寺に納めている。なお、この大般若経は、岐阜県指定文化財となっている。天正13年(1585)、金森氏の飛騨進攻により小島城は落城し、小島氏も滅亡する。 小島城は、高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が古川盆地に開ける交通の要衝に位置し、高原郷からの侵入を防ぐには絶好の立地といえる。 資料 ⑦城郭-16 小島城(飛騨市) 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSC01128_R-1.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 16:53:182023-01-27 16:53:18城郭-16 小島城(飛騨市)