宮田宿本陣 旧荒井家住宅
宮田宿本陣 旧荒井家住宅
宮田村町区の宿場町にあった伊那街道に唯一残る江戸時代の本陣を、ふれあい広場の隣接地に復元しました。
宮田宿は飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたことや、伊那谷一の荒れ川太田切川を南に控えていたことから、伊那街道の要衝として賑わいました。
大名の宿泊施設として置かれた本陣は藩の臨時の役所や役人の休憩所としても使われました。
長野県宝 旧新井家住宅(宮田宿本陣)
指定年月日 1987年8月17日
所在地 宮田村ふれあい広場東
指定物件 母屋、座敷棟、土蔵、門
江戸時代の宿場町のほぼ中央にあった建物を、創建当時の姿に移築復元したもので、向かって右に大きな母屋、その左に門、門の奥、母屋の南に座敷棟、母屋の裏に土蔵があります。母屋が18世紀後半、座敷棟が19世紀初めに建てられたものと推定され、伊那街道では唯一、江戸時代の姿のままに残された本陣建物です。
伊那街道の始まりは、関ケ原の戦いの7年前の1593年(文禄2年)、豊臣秀吉によって飯田の地を治めるよう命ぜられた京極高知(たかとも)が道路整備へ着手してからと言われています。高知はそれまで天竜川の近くを通っていた道を西の一段高い所へ引き上げ、ほぼ一定の間隔に宿場を置きました。飯田から6番目になる宮田宿は、南に太田切川の荒れ川が控えていて、伊那街道の中でも重要な宿場の一つでした。
交通通信の基点として作られた宿場町は、両側にびっしりと家が並び、幅が狭くて奥が長い、いわゆる鰻の寝床の屋敷割で、宮田宿の場合、間口4間(約7m)位の屋敷が多かったのですが、本陣の間口は13間半(約24.5m)あります。
江戸時代の宮田村は宮田町割、宮田南割、宮田北割の3ケ村に分かれていました。各村には名主や組頭を長とする行政機構がありましたが、宿場は、問屋を長とする年寄衆によって運営され、さらにそれから独立した公営宿舎の本陣や、藩役人の日帰り出張の休憩や会合の場所であるお茶屋が設けられていたのです。新井家は本陣と、母屋の部分がお茶屋を兼ね、さらに、一時期問屋も兼ねていたそうです。
母屋と座敷棟の屋根は当時の定めに従って板葺きとなっています。伊那谷の板葺き屋根は1960年代を境に急速に姿を消し、今はもう一般の家庭では見ることができません。
この建物が移築されたあと、総合公園ふれあい広場や、宮田球場などが建設され、周辺は村民をはじめ多くの皆さんの憩いの場となりました。