美術村跡
美術村跡
沖縄戦の後、画家達が多く居住した地区跡。首里儀保町(しゅりぎぼちょう)のニシムイに造られたため、「ニシムイ美術村」、単に「美術村」ともいう。
「ニシムイ」は、首里城の北(方音で「ニシ」という)に位置することから、「ニシムイ」と呼ばれ、「西森」の字が当てられた。かつては松が生い茂る景勝地で、「西森小松(にしむいしょうしょう)」と謳われた首里八景の一つであった。
1945年(昭和20)の沖縄戦で、西森の松林は、日本軍陣地壕構築のため伐り倒され、米軍の首里攻撃で焼失した。沖縄戦終結後、ウィラード・ハンナ海軍少佐等の指導の下、芸能家や画家が集められ、収容所への慰問公演や米軍人の注文で肖像画やクリスマス・カードの製作等が行われた。これらの芸術家が集められた石川市東恩納(いしかわしひがおんな)(現うるま市石川東恩納)には、沖縄陳列館や東恩納美術村が造られた。
1947年(昭和22)7月、東恩納に集められた画家達は、沖縄美術家協会を結成し、さらに、古都首里での活動を希望し、米軍の許可・援助により、西森での美術村建設が実現した。
1948年(昭和23)4月から12月にかけ、アトリエ兼住宅と研究所・陳列場を兼ねた大型コンセット3棟が完成し、名渡山愛順(などやまあいじゅん)・屋部憲(やぶけん)などの8人とその家族が移住した。その他の画家も、美術村に出入りし、美術議論を戦わせたという。美術村の画家は、米軍人の肖像画や注文に応じた絵を描き、グループ展を開催するなど創作活動も盛んで、戦後の美術活動復興の原点ともなった。
現在、西森一帯は住宅地となり、美術村という画家達の理想郷は、その面影を残していない。