京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)

京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)
龍源院
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、大徳寺南派の本庵である。
文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠(はたけ)山(やま)義元(よしもと)が豊(ぶん)後(ご)(現在の大分県)の大友義長(おおともよしなが)らとともに創建した。
方丈、玄関、表(おもて)門(もん)(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物と言われ、禅宗の典型的な形式を示している。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍(りょう)吟(ぎん)庭(てい)は、苔の上に三尊石が建つ須(しゅ)弥(み)山(せん)式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱(ほうらい)式の庭園、また、東の東(とう)滴(てき)壺(こ)は日本最小の石庭と言われ、1滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏(くり)の南側には聚楽第(じゅらくだい)の礎石を配した阿(あ)吽(うん)の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔(まき)絵(え)の碁盤、天正11年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。
昭和前半頃、金龍院の墓地が龍源院に移されている。金龍院は明治時代に入ってから、廃寺となった。
京都市
説明板より

金龍院
(①は『越前大野城と金森長近』一八四~一八六頁より)
① 大徳寺塔頭金龍院墓所
金龍院は京都紫野大徳寺境内にあり、金森長近が菩提寺として建立したものである。寺内の西北はやや高き丘形となっている。この丘上に金森家本家代々の墓並びに奥方あるいは殉死者の墓もある。さらに金森家代々の将士にして戦士した者、及び敵軍戦死者の霊を祀った祭祀碑もある。
しかるに明治時代に至り、金龍院は廃寺となり、その寺地は京都市の切なる要望により入れられて今は京都市のものとなっている(今はテニスコート)。従って金森家代々の墓は、同じく大徳寺塔頭龍源院に移された。金龍院にあった時の墓の配列は右 図のようである。
○型は五輪塔、□型は棹石で大小は身分を示したものである。祭祀碑は金森家累代の将士にして戦死せるもの及び敵軍であった将士で戦没した霊を祀ったものである。
金森累世将校及敵軍抂霊祭祀碑
絶待英霊後二天地一而不レ凋、刹那三際、萬劫且暮、縄縄今不レ可レ名、蓋存樹風□、没著徽烈、古之道歟、百骸潰散之人、真性尚存、君臣義如之何其廃レ之、金森出雲源頼門知二其然一也、乃寄二銀百両一、以給二祭祀一、庶幾感レ霊慰レ神、而不レ辱二忠臣義子之分一乎、臣無二二心一天之制也、秉二国之均、四方
維断断無二他抜一、蹇蹇匪躬之故、抜レ奇夷レ難挙レ賢援レ能、不二以レ私汚レ義、不二以レ利傷行、絶耳分少惟和惟一、至二於白虹貫レ日大白□レ昻、其不レ可レ測之最也、失レ性心失レ真、認レ物為レ己、輪廻是中、自取二流転一、是以誑誘移レ俗、姦訛若レ風、重諾千金、銜レ感一劔、割レ慈忍レ愛、離レ邦去レ家、偶決二兵機一、骨肉棄二於塵埃之域一、落二奸計一、身首散二於刀斧之前一、不レ憑レ棺、葬不レ送レ野、滞魂難レ解、幽魄何依、非二仏如来一不レ足二以度レ之、□如ト大雲以二一味雨一潤中於人華上、各得レ成レ実、茲勒二堅珉一、有二辞於永世一、窮沢再流、顚
木重栄、可二坐而致一、是源頼門之志也、自二大永一至二宝暦一凡二百四十年、功二勲其家一者、奮二死其義一者、敵国之士授二首其手一者、及郡国戦跡三十六所、名状別具、
宝暦十一年秋九月   紫野金龍院第七世石峰宗柱記
 祭祀碑
右祭祀碑は、金森本家第八世頼門が本家改易、のち第七世頼錦が、南部盛岡に配流中元祖長近以来代々愛敵の美徳を追悼し金百両をもって金龍院に建てたものである。
敵の亡霊を自家累世戦没将士と同一に祀る衷心は、我が国武門の精萃である。この建設は宝暦十一年(一七六一)で頼錦が南部に流された四年後である。もちろん頼門も流適の身であった。金森氏代々の領主が敵戦死者を味方戦没者と同様に悼み菩提を弔い、祭祀碑を建立せる心情は武門の亀鑑とすべきである。

龍源院
①沿革
 京都紫野の臨済宗大徳寺の塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に、厳然と位置している大徳寺中で最も古い寺である。
 その名称も大徳寺の山号「龍寶山」の「龍」と、今日の臨済禅でただ一つのみ存続している松源一脈の「源」の両字よりなっている。
 文亀二年(一五〇二)大徳寺の開祖、大灯国師より第八代の法孫である東溪宗牧禅師(時の後柏原天皇より特に仏恵大円禅師の号を賜わる。)を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公(大友宗麟の祖父)らが創建した。
 明治の初め頃、神仏分離によって現在大阪の住吉神社の内にあった往時の慈恩寺と、岐阜県高山城主金森長近公が大徳寺に創建した金龍院とを合併して、今日に至っている。
②建造物
方丈(重要文化財)
  室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全に留めているただ一つのもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在である。方丈の棟瓦は、附玄関、表門の棟瓦とともに、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものである。一重入母屋造、檜皮ぶき。
附玄関(重要文化財、別に唐門ともいう)
  方丈と同時代の建立で、我が国最古のもの、一重切妻造、檜皮ぶき。
表門(重要文化財)
  方丈・附玄関とともに同時代の建立である。四脚門切妻造、檜皮ぶき。
庭園
  方丈を中心として南庭、北庭、東の壺石庭、開祖堂前庭及び庫裡南軒先の各種庭園よりなっていて、見る者の自ら味わい、体得する真の「禅宗庭園」である。
竜吟庭
  方丈の北庭、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしない大海原を表わし、石組が陸地を表わしている。
  中央に高く突出する奇岩が須弥山で(註=仏説に、この世界は九つの山、八つの海からなっていて、その中心が須弥山)魏々として聳えたち、人間はもちろん、鳥も飛び交うことのできない、ただ一人として窺い知ることのできない、真実の自己本来の姿、誰もが本来そなえ持っている超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現している。中央の須弥山石の前にある円い板石を遙拝石といい、この理想、目的に一歩でも前進し、近づこうという信心の表われである。
東滴壺
  方丈の東にある有名な壺庭で、我が国では最も小さく、底知れぬ深渕に吸い込まれそうな感じのする、格調高い石庭である。
一双
「龍源院リーフレット」より引用
※龍源院 京都市北区紫野大徳寺町八十二

 

関連資料

2-32-1 龍源院

2-32-2 京都の墓地・金龍院

2-32-3 京都の墓地・龍源院