Ⅰ はじめに
デジタルアーカイブは,さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスである.このデジタルアーカイブは,わが国の知識基盤社会を支えるものであり,デジタルアーカイブ学会でも,デジタルアーカイブ立国に向けて「デジタルアーカイブ基盤基本法(仮称)」などの法整備への政策提言を積極的に行っている.
今後,知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタルアーキビストが必要とされている.ここでは,デジタルアーキビストの学術的な基礎として,地域資源デジタルアーカイブに関する手法やデジタルアーカイブの課題を実践的に学ぶ.
Ⅱ 授業の目的・ねらい
・この授業は講座とスクーリングに分かれて学修する。スクーリングは、実践的にデジタルアーカイブし記録管理を体験することになる。
・事前課題と事後課題が設定されており,個別で学修する場合にも,集団で学修する場合においても学修を深めるために主体的に研究課題を考えることが重要である.
Ⅲ 授業の教育目標
本科目は講座とスクーリングにより構成されている。講座では、各地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画することである。スクーリングでは研究計画を立て、調査をし、デジタルアーカイブすることであり、記録したデータを管理し、公開するまでを学ぶ。
【事前課題】 地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画する
1.何を学ぶか
地域の関心領域における問題意識、課題などを取り上げ、明確化し、デジタルアーカイブの計画を立てる。明確化する過程で、参考文献を読み、地域に関する一定程度の知識を獲得しておく。
2.学習到達目標
① 地域における問題意識や課題を明確化する。
② 地域における問題意識や課題をもとに「デジタルアーカイブ」を計画する。
3.研究課題
下記の①と②のいずれかを選んで提出する。
① 飛騨高山匠の技文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する
(例) 吉島家・日下部家デジタルアーカイブ
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する。
(例) 首里城のデジタルアーカイブ
また、現地実践演習については、上記課題の内容のいずれかを選んで受講すること。
①【現地実践演習】 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブの実施
1.何を学ぶか
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
2.学習到達目標
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
3.プログラム
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和5年 8月12日(土)~13日(日)
会 場:高山地区並びに飛騨・世界生活文化センター
課 題: 12日(土) 飛騨高山匠の技アーカイブ実践実習(各自)
※各自で飛騨高山匠の技デジタルアーカイブを作成する。
13日(日)10:00~12:00
講 演:飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ
見 学:飛騨ミュージアム
会場:飛騨・世界生活文化センター
4.資 料
1.映像資料
※飛騨高山匠の技とこころについて、歴史から説明しています。
2.【報告書】デジタルアーカイブin ⾼⼭
②【現地実践演習】 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの実施
1.何を学ぶか
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
2.学習到達目標
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
3.プログラム
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和6年 1月13日(土)~14日(日)
会 場:沖縄地区並びに岐阜女子大学沖縄サテライト校
課 題: 13日(土) 沖縄文化遺産デジタルアーカイブ実践実習(各自)
※各自で沖縄文化遺産デジタルアーカイブを作成する。
14日(日)10:00~12:00 講 演【沖縄の文化】(仮題)
会場:岐阜女子大学沖縄サテライト校
4.資料
1.映像資料
※ 首里城の復元についての講演並びに首里城の説明があります。
2.【報告書】沖縄デジタルアーカイブセミナー報告書
Ⅴ レポート課題
事前課題
① 飛騨高山匠の技文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する
(例) 吉島家・日下部家デジタルアーカイブ
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する。
(例) 首里城のデジタルアーカイブ
事後課題
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブのレポートを提出
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブのレポートを提出
Ⅵ アドバイス
事前課題解説
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)内の、
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブを参考にする。
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブを参考にする。
事後課題解説
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)の、
①【報告書】デジタルアーカイブIN ⾼⼭
②【報告書】沖縄デジタルアーカイブセミナー
を参考にする
Ⅷ テキスト
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)内の、
大規模公開オンライン講座(MOOC)/【講義】デジタルアーカイブ特講
のテキスト
資 料
実践研究Ⅱ(高山編)申込書
実践研究Ⅱ(沖縄編)申込書
平和への願い ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期、米軍のガス弾攻撃によって亡くなった多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者を弔うため、1946年4月5日、真和志村民らによって伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑である。
「ひめゆり」の名前の由来は、当時沖縄県立第一高等女学校が「乙姫」、沖縄模範学校女子部が「白百合」と名付けられていたことから、その両方の名前を合わせて「姫百合」となった。その後、戦後になってひらがなで「しらゆり」となったと伝えられている。
1983年1月、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示し、戦争の悲惨さを後生に伝えるため、元ひめゆり学徒隊(団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会)は、資料館建設期成会を設置した。その後1989年6月23日、ひめゆりの塔の隣地に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。
館内には6つの展示室と多目的ホールがあり、平和で希望に満ちた学生生活の様子や、そこから一変して戦争に巻き込まれたひめゆりの学生たちの様子や証言を写真や映像とともに見学することが出来る。
また、資料館には戦争によって焼け焦げてしまった当時の生徒の持ち物や医療器具なども展示されており、どれほど恐ろしく、そしていかに一般市民を巻き込んだ戦争であったのかを知ることが出来る。
資料(メタデータ)
平和への願い_ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
沖縄の歴史 首里金城町石畳道
首里金城町石畳道は、1964年(昭和39年)5月1日に文化財(県指定史跡・名勝)に指定された。
尚真王時代(1477~1526年)、首里の街の中、首里と各地方を結ぶための道が整備され、1522年ごろ、首里金城町石畳道は首里と島尻地方を結ぶ道筋として整えられた。
首里金城町石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4㎞総延長10㎞の官道であり、真珠道の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造がはじまった。
第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊されたが、金城町に現存する238mの区間は、琉球石灰岩が敷かれた当時の石畳道の姿を現在に伝えている。
日本の道100選にも選ばれた景勝地でもあり、沖縄県指定文化財である。首里城公園の南側斜面に位置し、14~19世紀にかけて栄えた琉球王朝時代の石畳古道である。
参考:那覇市観光資源データベース,https://www.naha-contentsdb.jp/spot/662(2022/12/3アクセス).
資料(メタデータ)
沖縄の歴史_首里金城町石畳道
平和への願い 戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー(仲本 實 氏)
「戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー 仲本實氏」は、沖縄戦の戦中・戦後に小学生であった仲本實先生に、米軍の上陸前後あら収容所までの戦争体験を子どもの視点でオーラルヒストリーとして聞き取りしたデータをもとに、本学が制作・公開しているWebサイトである。
聞き取りをしたデータから教材として適する話しを抽出して作成している。
沖縄戦では多くの人々が犠牲となり、現在も沖縄の人々の心に深い悲しみとして残っている。沖縄本土復帰50年が経ち、戦争体験者の高齢化が進み、戦争体験者の話を直接機会が少なくなりつつある現在、次世代への継承の重要性が課題とされている。
URL:http://www.gijodai-okinawa.jp/ohrai/nakamoto_oral_201309up/index.html
資料(メタデータ)
平和への願い_仲本實氏オーラルヒストリート
沖縄のアメリカ世の名残 プラザハウス
プラザハウス(PLAZA HOUSE SHOPPING CENTER)は、終戦後に設置された琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)や、その他米軍基地や施設等に駐留していた将校や司令官、その家族の需要を満たすために、1954年にライカム(Rycom)エリアに隣接した場所に創業した「日本初のショッピングモール」といわれている。
琉球政府(=司法・立法・行政の三権を備えた自治機構として、戦後、米軍が沖縄に設けた統治機構“米国民政府”の意向で創立された政府)より特別免許を取得し、7月4日のアメリカ独立記念日に営業を開始した。当時のアメリカ本国で主流だったショッピング文化が反映されていた。
現在もヨーロッパ、アメリカなどからの直輸入によるセレクトショップ「Roger’s」をはじめ、衣・食・住・娯楽などの幅広い、個性豊かな専門店が40あまり立ち並んでおり、週末には多くの人が訪れ、駐車場も込み合う。
資料(メタデータ)
沖縄のアメリカ世_プラザハウス
参考
・プラザハウス公式ホームページ,https://www.plazahouse.co.jp,[アクセス2022/11/15]
沖縄のアメリカ世の名残 730記念碑
沖縄本土復帰の6年後である1978年(昭和53年)の7月30日、沖縄の交通方法の変更により、米国施政権下から33年続いた米国式の「車両右側走行」が「左側走行」に切り替えられた。この変更は、実施日にちなんで「730(ななさんまる)」とよばれ、記念碑の設置されている交差点は730交差点と標記されている。
沖縄県は住民生活の負担と混乱を防ぐため、変更前日29日午後10時から翌日6時までのわずか8時間、全県において車両通行止めや駐車禁止等の規制を行い、道路標識や道路標示、信号機等の切り替え作業を一斉に行った。
石垣市では、同年9月歴史的な事業を記念し、730記念碑を建立した。その後、2008年7月30日交通安全を祈念して一対の獅子(シーサー)を置いて碑の周辺を公園として整備し、「730シィーシィーパーク」とした。(「シィーシィー」とは琉球語の八重山方言でシーサーをさす。)
資料(メタデータ)
沖縄のアメリカ世の名残_730記念碑
古四王神社
古四王神社は祭神として大彦命を祀り、由緒によると、崇神天皇が四道将軍を日本全域に派遣し、高志国(北陸)へ赴いた大彦命がこの地の大石に休憩し、村人がそれを畏敬して祠を奉ったと言われています。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、多くの社殿が北を向いています(社殿は一般には南向き)。
国重要文化財 古四王神社本殿について
国重要文化財の古四王神社本殿は、室町時代末期の元亀元年(1570)に、孔雀城主である冨樫左衛門太郎勝家が、飛騨の名工「甚兵衛」に造らせたと言われています。
本殿の構造形式は一間社入母屋造で、和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)を自由に融合した折衷様式で、所々に珍奇な意匠を施す豪放な建築手法が特徴です。向拝正面の水引虹梁の菊唐草や、側面手挟の藤唐草の絵様繰形は稀に見る傑作です。また、桟唐戸を含め四方に施した“結界”を意味する襷桟、大型の蟇股や擬宝珠などの意匠は他に類例がありません。
建物には、細部まで優美な彫刻が施される反面、荒削りな太い材木の堅牢な土台など、繊細さと豪快さをあわせ持つ建築手法が最大の特徴といわれています。
当時、美術建築の権威であった東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家で京都帝国大学教授の天沼俊一(1876~1947)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛しました。
古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した。古四王神社本殿は、1905年(明治38年)文部省古社寺保存会嘱託で工学博士の伊東忠太(東京帝国大学教授)の調査を経て、1908年((明治41年)、当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。
沖縄の海洋保全 軽石
【軽石の被害】
気象庁は2021年8月13日に小笠原諸島の付近の海底にある火山「福徳岡ノ場」噴火したと発表(気象庁)。この噴火で生まれた大量の軽石が「黒潮反流」という西向きの海流に乗って1,400キロ離れた沖縄・奄美地方に漂着して深刻な被害が出た。「福徳岡ノ場」は小笠原諸島・硫黄島の南約50キロの海底火山で、噴火は2010年2月以来11年ぶりだった。
海面を埋めた軽石が黒潮反流に乗って西に流れ、10月4日に沖縄県の北大東島と南大東島に漂着。11日に鹿児島県の奄美大島、13~14日には沖縄本島でも確認された。鹿児島県喜界町では10日に東海岸で軽石の漂着を確認。23、24日にはボランティアが一部の海岸で軽石の撤去を始めた。
軽石による被害は、養殖用のいけすで魚がエサと間違えて軽石を摂取したことで大量死する被害や、船舶のエンジンの故障の恐れから漁業者やフェリーの運航ができない日が何日も続く被害、リゾートホテルのビーチが一面軽石に覆われるなどの被害が連日報じられた。
【沖縄県読谷村長浜の養殖場付近の被害】
撮影場所は沖縄県読谷村長浜の養殖場付近で、海水面は軽石で茶色く濁り、砂浜にも軽石が堆積し、軽石が養殖の現場まで広がっている様子が見られた。
資料(メタデータ)
沖縄の海洋保全_軽石
沖縄の生活文化 備瀬のフクギ並木
沖縄では年中海からの風が吹いている。特に、古くからの住まい(古民家)に台風等の強風が直接あたることを防ぐための工夫として、「建物をサンゴ石灰岩の石垣で囲む」と「防風林を植える」が挙げられる。
防風林には沖縄独特のフクギという木がよく使われてきた。フクギは根を深く張り、幹も丈夫で、台風などの大風が吹いても倒れにくい。また、分厚い葉が密に付くことから風害や塩害にも強い。
沖縄県北部地区の国頭郡本部町備瀬には、数百年のフクギの木々が立ち並ぶ「備瀬のフクギ並木」がある。この集落には樹齢300年以上の樹木もあり、家々を囲むように植えられ、入り組んだ白砂の道の左右から高く伸びた枝葉は頭上で合わさり、トンネルになっているところもある。フクギ並木は海に隣接しているこの集落を暴風雨や台風から守り続けてきた。
フクギの鮮やかな緑や、この木がつくる木陰は古き良き沖縄らしい町並みの風景ともいえ、観光スポットしても有名である。並木の間をゆっくり徒歩で散策したり、レンタサイクルでサイクリングしたり、牛車乗りも体験できる。
フクギの並木は、シュノーケリングも楽しめる備瀬崎の海までの約1kmにわたって続いていて、ゆったりとした島時間が流れている。
資料(メタデータ)
沖縄の生活文化_備瀬のフクギ
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③御茶屋御殿
吉屋チルーは17世紀頃に存在したといわれている琉歌人で、幼いときに遊廓へ売られ、ある男性と恋仲になるが裂かれ18歳で自死したと伝えられている。
御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)はかつて琉球王府の別邸で、国王が遊覧し冊封使などを歓待した場所であった。御茶屋御殿を主題とした吉屋チルーのものとされる琉歌がある。
(琉歌)拝(う)で拝(うが)んぶしゃ首里天加那志(しゅゆゐてぃんじゃなし)遊(あそん)で浮(う)ちゃがゆる御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)
(意味)拝顔すると去り難いのは首里の国王様であり、宴席で去り難いのでは御茶屋御殿である。
「御茶屋御殿」は1677年に作られ、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われ、敷地内には望仙閣・能仁堂・茶亭が並び、周辺には築山や池、石造物が配されるなど、独特の意匠を凝らした庭園造りがなされていた。敷地の北側(現在は城南小学校が所在する場所)には菜園が広がり、そこでは様々な薬種の栽殖が行われていた。
御茶屋御殿の建造物は第二次世界大戦で全て破壊され、現在はカトリック首里教会および付属幼稚園、一部城南小学校が建ち、当時の面影を感じることはできない。私有地のため、教会入り口には「御茶屋御殿見学の際は教会事務所へ一声かけるように」との注意書きがある。
2000~2005年度に御茶屋御殿周辺の発掘調査を沖縄県立埋蔵文化財センターが実施し、報告書(沖縄県埋蔵文化センター 2003『御茶屋御殿跡遺構確認調査報告書』)を公開している。
第二次世界大戦によって破壊された「御茶屋御殿」の玄関前約40mの岩陰にあった石獅子は、1979年に戦前の写真をもとに修復され、1986年に那覇市指定文化財(有形民俗文化財)「御茶屋御殿石獅子」として登録されている。その後、石獅子のあった岩陰ががけ崩れの恐れが生じたため、現在は、御茶屋御殿より450m先、徒歩6分程度の「雨乞御嶽」付近に移さえている。石獅子と「雨乞御嶽」周辺は首里が一望できる展望台を備えた「首里崎山公園」として整備されている。
資料(メタデータ)
沖縄の歴史上人物_吉屋チルー③御茶屋御殿跡
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー②仲島の大石
吉屋チルーは琉球王国の遊女で、琉歌の歌人でもある。「吉屋チル」「よしや」「吉屋」とも表記する。
吉屋チルーは読谷山(ゆんたんざ;今の読谷村)の貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳で那覇の仲島遊郭へ遊女として売られてきた。よしやは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿とよばれる金持ちに身請けされたため、添い遂げられず悲嘆にくれ、食を絶って18歳で亡くなったといわれている。
吉屋チルーの代表作のひとつに以下の歌がある。故郷を後に遊郭へ向かう中、大きく深い川(比謝川)にかかる橋を渡る不安と恨みを込めて詠んだ歌といわれている。
(琉歌)恨む比謝橋や情きねん人ぬ 我ん渡さと思て掛きてうちぇさ
(意味)恨めしい比謝橋は情けのない人が私を渡そうと思って掛けておいたのだろうか。
また、仲島を詠んだ歌もある。
(琉歌)仲島ぬ花と美らさ咲ちなぎな 詠だる琉歌数に心くみて
(意味)仲島の花と美しく咲きながら詠んだ歌の数々に心を込めて
仲島の大石は沖縄県立図書館と那覇バスターミナル、商業施設の複合施設の裏手、朝夕と多くの人が行き交う場所に位置している。
17世紀後半、仲島の大石のあった仲嶋村(仲島村)には首里王府によって遊郭が公的に設置されていたとされている。
沖縄県立図書館、沖縄県立博物館・美術館には1770年頃の古地図が現存しており、デジタルマップ「沖縄・首里那覇港図屏風展」として公開されている。この屏風絵にも仲島の大石は描かれているようである。