沖縄の観光 真栄田岬
真栄田岬(まえだみさき)は、沖縄本島北部の恩納村(おんなそん)に位置する景勝地である。その歴史は、数万年前の隆起サンゴ礁による地形の形成に始まり、琉球王国時代には海上交通の要所として利用され、戦後は観光開発が進められ、現在では国内外から多くの観光客が訪れるマリンスポットとなっている。
岬は、万座毛と同じ琉球石灰岩で形成された断崖が続く地形で、隆起サンゴ礁が三角形に海へ突き出している。崖下には入り江と透明度の高い青い海が広がり、展望台からは東シナ海を一望することができる。また、海へと続く階段が整備されており、多くのダイバーやシュノーケリング愛好者が訪れる。
真栄田岬には、沖縄本島を代表するシュノーケリング・ダイビングスポットとして知られる「青の洞窟」がある。地元では「クマヤーガマ」と呼ばれ、かつては台風時などに漁師が船を避難させる場所として利用されていた。
資料(メタデータ)
メタデータ_真栄田岬
荒川家住宅(付属施設)歴史民俗資料館・旧緒方家
荒川家は天正年間(1573年から1592年)から続くという旧家。主屋と土蔵は江戸中期に建てられたもの。飛騨の匠が腕をふるった建物は見応え充分で、国の重要文化財に指定されています。内部には、民具や伊達政宗が金森長近に宛てた書状などが並びます。隣に立つ歴史民俗資料館では、細江光洋氏による乗鞍岳の写真や、丹生川地域の民具と石仏写真、昭和を偲ばせる道具などを展示しています。
荒川家は天正年間に当村の肝入りをつとめたと伝える旧家で、元禄以来代々庄屋をつとめている。この住宅は棟札によれば、主屋が寛政8年(1796)に建設されたものであり、土蔵は延享4年(1747)に造られている。
主屋は桁行11間、梁間8間半の2階建切妻造[きりづまづくり]の大型住居で、正面外観は出桁を腕木でうける小庇をつける。また、差物や軒桁にかなりの巨材を用いて横の線を強調するとともに、2階正面の格子窓と2段に通る貫の細い直線的交叉をみせるなど洗練された意匠である。
内部は基本的に「ドジ」「オエ」の3方に各室を形式で、下手に「マヤ」「ニワ」、裏手に「ダイドコ」、上手に「ブツマ」「ナカノマ」「デイ」「オクデイ」の座敷を設けており、旧田中家住宅を大規模に発展させたものとみることもできる。
構造は「オエ」と「ダイドコ」境の桁行に敷梁をおき、前後から大梁を梁行に架けて2階床梁として固め、2階は側通りのほか、入側通りと棟通りに管柱を立て、入側桁から棟下まで登り梁を渡して母屋をうけている。この家では2階を養蚕室とするため、このような構造にしたものとみられる。
このような形式の住宅は、高山東部から西へは白川街道を通って荘川へ、あるいは郡上街道を通って郡上へと分布している。 荒川家住宅は飛騨地方にみられる板葺2階建の切妻民家の中では、大型住居として年代も古く意匠にも優れており価値が高い。
平湯温泉
平湯温泉は、日本列島のほぼ中央、飛騨山脈にある乗鞍岳の北麓、岐阜県と長野県を結ぶ安房トンネルの岐阜県側の玄関口に位置し、関東方面からのアクセスも大変便利になりました。また平湯温泉は奥飛騨温泉郷のひとつで他に福地温泉、新平湯温泉、栃尾温泉、新穂高温泉があります。
近くには飛騨高山、乗鞍岳、上高地などの有名観光地が数多くあります。温泉内には大規模なバスターミナルがあり、周辺には飲食店や土産物屋も。現在では乗鞍や上高地、新穂高、高山などの観光地を結ぶ交通の要所として賑わっています。
平湯温泉は、乗鞍岳のふもと、海抜1,250mにある平湯温泉は、奥飛騨の中でも最も古く、歴史ある温泉とされています。江戸時代末期、飛騨についてに書かれた「飛州志」にも平湯温泉についてまとめた「平湯温泉記」があり
「中世の頃、甲州の武田家臣が攻め入ったとき、士卒が毒霧にやられ動けなくなった。そのとき白い老猿が温泉に入り悪い足を治して跳び去った。これを見た者は競って霊泉に浴し、すっかり元気を取り戻した。この時以来、様々な病を持った多くの人が盛んに訪ねるようになった。云々」と書かれています。北陸の大名も参勤交代の道中で疲れをとり、湯治場として栄えました。また、明治初期に書かれた「斐太後風土記」にも、多くの人が平湯温泉を利用している図などが描かれており、古くから多くの人々に愛された温泉であることが伺えます。
平湯温泉には、平湯温泉発見の由来の「白猿伝説」、「山伏の湯」など色々な伝説や民話が残されております。
平湯の湯
そのむかし、信濃の国で上杉謙信とひどい戦いを続けていた武田信玄は、越中を手に入れようと考え、飛騨を攻め入ることにしました。大将山県昌景は、沢山の軍勢を引き連れて峠越えをしようとしたのですが
頂上を超えるころには皆疲れきっており、その上硫黄岳の毒霧が出て倒れるものが続出しました。やっとのことで平湯あたりにたどり着いた時、老いた白猿が皆の前を
歩いて道端の湯に導いてくれました。そこで皆、我先にと猿が教えてくれた湯に入って疲れを癒し、みるみる内に元気を取り戻しました。この話があちこちに広がり遠くからも平湯を訪れる人が多くなったそうです。
山伏の湯
むかし山伏が平湯に現れて、重々しい呪文を唱え重い病気を治したり、湯をグラグラと煮えたぎらせ村人たちにその湯をふりかけたが、まったく熱くは感じず、大評判となりました。山伏は得意になって、次から次へと自慢話を始めましたがある村人が「村はずれにある、地獄へと続いているといわれるお湯には入れまいて」というと、むっとした山伏は「おれの呪文にかかれば、この村の湯はただの水同然だ」と豪語しました。村人たちが見守る中、山伏が呪文を唱えながらお湯に飛び込むと、次々と湧き出てくる熱い湯に耐え切れなくなり逃げ出そうとしましたが、湯垢で滑って上がる事が出来ず、とうとう茹で蛸のようになって死んでしまいました。その湯をいつしか「山伏の湯」と呼ぶようになったそうです。
平湯大滝
落差64メートル、幅6メートルを誇るその姿は、白水(はくすい)の滝・男女滝(めおとたき)と並び飛騨三大名瀑に数えられ、日本の滝百選にも選ばれた名瀑です。駐車場から滝へと続く遊歩道では、季節ごとの野草や木々のささやきに耳を澄ませてみてください。春の雪解けの季節は、轟音とともに豊かな水が流れ落ち、5月に入るころには鮮やかな新緑が滝を瑞々しく包みこみます。夏には天然のミストを湛えた風がひとときの涼を運び、10月にはカエデやブナ、シラカバが断崖を鮮やかな赤や黄色に染め上げます。冬には零下にもなる静寂の中、豪快に流れ落ちていた水は一転、巨大な「氷の彫刻」へと姿を変え、暗闇に浮かび上がる青白い氷瀑が、幻想的な世界を創り出します。わずか10日間ほど開催される「結氷まつり」では、夜空を彩る打上花火と氷の壁が織りなすコントラストをご覧いただけます。平湯大滝の力強さに触れたあとは、歴史ある名湯にゆっくりと浸かり、心身を癒やしてください。自然が織りなす景色は、訪れるたびに新しい感動があり、どの季節に訪れても、そこには本物の「自然」が待っています。
篠原無然記念館
篠原無然(しのはらむぜん、本名:篠原禄次。1889年(明治22年)3月7日 – 1924年(大正13年)11月14日)[1]は、飛騨地方で活動した教育者である。
兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄(もろよせ)出身。早稲田大学中退。社会教育の先駆者。1914年(大正3年)11月、岐阜県飛騨地方の吉城郡上宝村(現 高山市)にあった上宝村第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員となり、以降飛騨を中心に青年の教育や工女の待遇改善などに尽力。地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備した。乗鞍岳の姫ケ原・土俵ケ原や桔梗ケ原などの命名者としても知られる。雪の安房峠で遭難し、36年の生涯を閉じた。
経歴
1889年(明治22年)兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄に生まれる。父・六一、母・つる。
1903年(明治36年)高等小学校を卒業し神戸の野口貿易商会へ見習社員として入社。
1904年(明治37年)4月、神戸商業学校( 現 兵庫県立神戸商業高等学校)入学。
1907年(明治40年)9月、神戸で後藤新平の知遇を得る。この後、健康を害し神戸商業を中退する。
1909年(明治42年)春、兵庫県美方郡小代村(現 香美町)の小学校へ代用教員として赴任。
1910年(明治43年)11月『青年団の組織と事業』発行。二学期末に学校を辞任。
1911年(明治44年)4月、上京する。早稲田大学文科に入学。
1913年(大正2年)修養団機関雑誌『向上』の編集責任者となる。このころ新井奥邃の知遇を得る。山にこもり修養したいとの思いを募らせる。
1914年(大正3年)冬、上宝村本郷第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員として奉職。
1915年(大正4年)4月、平湯分校へ転任。この後、飛騨地区の青年教育に熱心に取り組む。社会教育家として飛騨の工女たちの教育指導にも取り組む。
1923年(大正12年)3月、指導下にあった工女が入水し死亡。これを無然と結びつける排斥運動が活発化する。9月、関東大震災の救援活動のため上京。いったん平湯に帰った後の12月、大阪府住吉村帝塚山にある芸娼妓専門の難波病院に、大阪府の嘱託として勤務。
1924年(大正13年)10月大阪府を去り上京。その後平湯に帰ろうとして11月14日、雪の安房峠で遭難死。36歳。
資料数:428点
静岡浅間神社
神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げる。
神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。
浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受ける。
大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神である。
三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている。
御本社神部神社・浅間神社・大歳御祖神社のほかに境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座している。
●朝廷・国司・武門の崇敬
当社は延喜式内社として朝廷・国司の奉幣や祈願の尊崇を寄せられのをはじめ、鎌倉時代以降、歴代幕府など武門武将の崇敬を受け、社領の安堵・宝物の寄進など枚挙にいとまがない。
貞応3年(1224・元仁元年)執権北條義時公は当社に使いを差遣し社頭を検分せしめた。延元3年(1338)今川範国公は願文を納め、範氏公は天下泰平の祈願を修し、義元公は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。人質であった家康公(竹千代)は義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行った。以降徳川氏のあつい尊崇を受けて、大御所として入府以来崇敬の真心を捧げ、徳川幕府の祈願所と定めた。
当神社の社領は久能寺(現鉄舟寺)・建穂寺領などの浅間惣社別当寺分が含まれており、両寺院は当神社配下のもと祭祀を行っていた。ことに二月会(現在四月に行われる廿日会)には建穂寺より稚児舞楽を、三月会(桃華会)には久能寺より菩薩舞を出仕して奉納し、一社二寺による祭祀が当神社の中心的行事であり、歴代幕府はこれの庇護に勤めた。これら祭祀の費用に充てるため、明治維新までに至る総石高は2313石の破格の社領が徳川将軍家より安堵されていた。
●社殿の造営
元仁年間(1224年頃)に鎌倉幕府は焼失した社殿を再建し、延文年間(1356年頃)には守護職今川家の造営があり、天正7年(1580)には社殿が焼失したことにより武田家は直ちに造営に取りかかった。また天正9年徳川家康公は武田家攻略にあたり戦勝を祈願し、平治の後に必ず再建すべく祈誓を為して社殿を焼き払い、当社背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼした。天正14年にはその誓いを果たすべく東海各国に勧進を行い、慶長年間社殿が造営されるに至った。さらに寛永11年(1635)家光公上洛の折、社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ幕府御用であった大工木原木工允藤原義久を幕府方の棟梁とし、華村長左衛門を地元大工方棟梁として造営が行われた。その後安永と天明の両度、町方の出火により社殿にも延焼したが、文化元年(1804)から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群である。
この造営は徳川幕府直営工事として行われ、当社所蔵の古文書によれば、寛永年中の造営に携わった華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められた。特に彫刻には信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っている。寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展した。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっている。
境内は4万5千平方メートル。広壮華麗な社殿群はいずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ25メートルあり、殿内は132畳敷きの広さがある。
貞享元年(1684)ごろに貝原益軒の記した『吾妻路之記』には「美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とすと云う」とあり、古くから「東海の日光」と称えられていた。
明治元年神仏分離により別当である久能寺・建穂寺をはじめ多くの社僧寺院が廃寺(久能寺はのちに鉄舟寺へと引き継がれた)となり、境内にあった仏堂・仏像は臨済寺や音羽山清水寺へと遷された。
昭和46年6月社殿24棟が、平成11年2月、宝蔵・神廐舎が国の重要文化財に指定され、まさに“東海の日光”と呼ばれるにふさわしい佇まいである。
●皇室の御崇敬
明治10年11月4日 明治天皇は御参拝の儀を仰せ出だされたが、生憎の強雨につき岩倉内大臣を以って御代拝された。明治45年3月25日 皇太子殿下(大正天皇)は秩父宮・高松宮殿下とともに御参拝。昭和5年5月29日 昭和天皇御参拝。同10年11月8日 東伏見宮大妃殿下御参拝をはじめ、遷座祭・御鎮座式年祭には幣帛料、天皇皇后両陛下の県内行幸啓には幣饌料を下賜されている。
●文学・芸能・その他
能楽の始祖「観阿弥」は今川家に招かれ当社の大前に能を奉納し、その後当地において没した。観阿弥最後の舞台として知られており、楼門脇には観阿弥の碑がある。
泉鏡花の『婦系図』にも当社が語られている。
海外雄飛で有名な山田長政公の産土神でもあり、長政公奉納の「戦艦図絵馬」(写)を所蔵する。
神社内には「叶え馬(かなえうま)」など左甚五郎(ひだり じんごろう)という職人が作ったと伝わる彫刻があります。 日光東照宮の眠り猫をはじめ、全国各地に彫刻があり、 彫られた動物があまりにリアルで夜な夜な 動き出すといわれたそうです。
江戸時代初期に活躍したとされますが、 活動期間が 300 年 にも及び、 実在の人物なのか、 腕の良い職人の代名詞であっ たのかは定かではありません。 落語などの題材としてエピソー ドが残る伝説的な人物です。
資料数:118枚
四天王寺
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされています。
明治以後の四天王寺は、まず、明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた神社が離され、厳しい状況に置かれましたが、人々からは依然として庶民信仰の寺・お太子さまの寺として深い信仰を受け、諸行事は従来どおり行われました。
昭和9年(1934)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被りました。昭和15年(1940)、努力のすえに五重塔が再建されましたが、それも束の間、昭和20年(1945)の大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰してしまいました。
しかしこの時も、各方面の人々の協力を得て復興への努力がなされ、昭和38年(1963)には伽藍が、昭和54年(1979)には聖霊院奥殿・絵堂・経堂が再建、その他の建物も次々に再興され現在ではほぼ旧観に復しています。さらに、戦後間もなく太子創建の寺であることから天台宗から独立し、和宗を創立。四天王寺はその総本山として、仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺として再生いたしました。また、四箇院事業も、学校法人四天王寺学園を経営し、国際的な視野のなかで仏教教育を実施し、社会福祉法人四天王寺福祉事業団を中心に悲田・施薬・療病の各事業を継承発展させています。
当時はたび重なる戦火や災害に見舞われ、多くが焼失しましたが、現在の建物は創建当時(飛鳥時代)の様式を忠実に再現しており、古代の建築様式が今に残るのは貴重といえます。
総面積3万3千坪(約11万㎡)。甲子園球場の三倍の広さを有する境内には四天王寺式伽藍のほか、聖徳太子の御霊を崇る聖霊院(太子殿)があり、創建当時の品々など500点あまりの国宝・重要文化財を所蔵する宝物館もある。
日本庭園の「極楽浄土の庭」にたたずむと、都会にありながら喧騒とは無縁の世界が広がる。新西国三十三観音霊場第一番など多くの札所にもなっている。
お太子さまをしのんで毎年4月22日に催される聖霊会舞楽大法要では、重要無形民俗文化財の天王寺舞楽が披露される。
毎年21日の大師会と22日の太子会は四天王寺の縁日で、露店も多く並び庶民の太子信仰の寺としての姿勢を貫いている。
左甚五郎の眠り猫
境内南東に位置する太子殿、こちらで猫之門を見ることができます。猫の門は木造で、切妻屋根(きりづまやね)、本瓦葺(ほんかわらぶき)の四脚門。門の前には「太子殿猫の門」と書かれた石柱があるので、注意深く観察すれば気づくことができるかもしれません。大阪の誇る古典名作落語の一つ、「天王寺まゐり」では、猫の門を四天王寺七不思議のひとつに数えています。その門の蟇股(かえるまた:横木に設置する屋根を支える部材)にちょこんと乗った眠り猫は、ピンと耳を立て、半分眠っているように見えてもこちらの気配を感じ取っているような印象を受けます。貴重な経文をネズミから守る門番だったのでしょうか。
この眠り猫の作者は、江戸時代の名匠、左甚五郎と言われていました。左甚五郎は猫の彫物を日本各地に残していて、新潟県普光寺の猫面もそうでした。四天王寺の眠り猫は元和の再建時に作成されたとのことで、猫の隣にある牡丹は『牡丹花下睡猫児(ぼたんかかすいびょうじ)』という禅問答から着想を得ているそうです。しかし、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまい、現在の眠り猫は大仏師である松久朋琳、松久宗琳による2代目になるそうです。このとき、青木大乗画伯も猫の門再建を記念して、眠り猫を描いて寄贈したそうです。牡丹の下で寝ていた猫に近づくとすぐ逃げるため、猫は寝ていたのか起きていたのか、という問い。あるいは、牡丹と猫、かわいい綺麗と感じるのは人それぞれで、他人と自分を割り切って超然とすべしという教訓もあるという。
この猫之門、普段は固く閉ざされていて、通ることはできません。一般客は太子殿南西の寅之門から入りますが、太子殿側から猫之門を覗くことはできません。
一説には、四天王寺の眠り猫は日光東照宮の眠り猫と対を成すそうで、夫婦と表現されることもあり、元旦にニャオと鳴くという話があります。
また、夜になると大阪市街のミナミに遊びに出かけ、遊びまわっていたという話もあります。そんな噂に困ったお寺は、猫が抜けださないように門に網をかけてしまったそうです。
過去、幾度となく火災に見舞われた四天王寺ですが、火災時にはまず眠り猫を案じ、かろうじて難を免れてきたことも『大田南畝全集第八巻 蘆の若葉』」に記録されています。しかし、第二次世界大戦での火災のときは、網から抜け出せず焼けてしまったと言われています。
資料数:301枚
新穂高ロープウェイ
高山市奥飛騨温泉郷に位置する新穂高ロープウェイ。ゴンドラに乗り頂上を目指せば、西穂高岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳などの北アルプスの山々が 360度の大パノラマでご覧いただけます。頂上駅の西穂高口駅外に広がる千石園地の原生林の樹間を縫う散策コースでは、5~10月には、山野草や高山植物の可憐な花がご覧いただけます。紅葉は例年10月上旬から下旬まで楽しめます。10月20日頃を過ぎると、真っ青な秋の空に新雪の北アルプスと紅葉のすばらしい景色が見られることも。冬には巨大な雪の回廊ができます。岐阜県高山市に位置する新穂高ロープウェイは、標高2,156mの雲上の世界へと手軽にアクセスできる人気の観光スポットです。日本唯一の2階建てゴンドラからの眺めは圧巻で、晴れた日には雄大な北アルプスの山々が織りなす絶景を360度の大パノラマで堪能できます。四季折々の自然美はもちろんのこと、星空観賞やアウトドアイベントなど、年間を通して様々な魅力に出会える新穂高ロープウェイの魅力を、いくつかの項目に分けてご紹介します。新穂高ロープウェイの最大の魅力は、何と言っても日本で唯一の2階建てゴンドラです。1度に多くの乗客を乗せることができ、ゆったりとした空間で空中散歩を楽しむことができます。ゴンドラが高度を上げるにつれて、眼下に広がる景色はダイナミックに変化。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季折々の美しい自然を余すところなく満喫できます。特に、晴れた日には槍ヶ岳や穂高連峰をはじめとする北アルプスの山々が壮大に広がり、その雄姿は言葉を失うほどの感動を与えてくれます。2階からの眺めはさらに開放感があり、まるで空中を散歩しているかのような特別な体験となるでしょう。
資料数:133枚
沖縄のサトウキビ グーサンウージ
沖縄では、旧暦7月13日から15日にかけて、各家々で盆行事(旧盆)が行われる。行事の内容や作法には地域差があるが、共通してご先祖様を家に迎え、供養する期間とされている。
13日のウンケー(お迎え)は、先祖の霊を迎え入れる日であり、仏壇や位牌を清め、生花や果物、提灯、グーサンウージ(祖霊の杖となるサトウキビ)のほか、アダンの実など6~7品の供物を仏壇に飾る。
グーサンウージは、先祖の霊が使用する杖を象徴するもので、具体的には7節分の長さを持つサトウキビを2本用い、仏壇の左右両脇に立て掛けて供えられる。これは、あの世とこの世を行き来するご先祖様の安全や護りを願う意味が込められており、特に旧盆の時期に重要な役割を果たす供物である。
資料(メタデータ)
メタデータ_グーサンウージ
沖縄のサトウキビ 黒糖
黒糖の定義について、消費者庁が発信している「食品表示に関するQ&A(食品表示基準に関する解釈通知)」には、「サトウキビのしぼり汁に中和・沈殿などの方法で不純物を除去し、煮沸によって濃縮した後、糖蜜分の分離などの加工を行わずに冷却して製造した砂糖で、固形または粉末状のもの」と記載されている(『加工黒糖等に関するガイドライン-第二条-(1)』より)。
サトウキビは沖縄方言で「ウージ」と呼ばれ、沖縄を代表する特産品の一つである黒糖は、郷土料理や菓子、土産品など幅広く用いられ、古くから沖縄の慣習や生活文化に深く根付いている。味わいはカラメルのようなコクと甘みが特徴で、場合によっては渋みや苦味も感じられる複雑な味わいを持つ。菓子や料理の甘味料として使われるだけでなく、コーヒーや紅茶の砂糖として、あるいはそのまま食べて楽しむこともできる。
近年では、部活の休憩時間に黒糖が配られ、ミネラル補給として活用されることもあり、子どもたちにも身近な存在として親しまれていることから、沖縄の文化や生活に深く根付いた食品であることがうかがえる。
現在は、個包装のものもあり、シークヮーサー味やショウガ味などのバリエーションが豊富になってきている。
資料(メタデータ)
メタデータ_黒糖
沖縄のサトウキビ サーター車
サーター車(砂糖車)とはサトウキビを搾るための圧搾装置のことで、沖縄では約400年前から活用されており、沖縄の製糖業の歴史を語るうえではなくてはならない存在である。
その構造は、3本のローラーを歯車で回転させ、回転するローラーの間にサトウキビの茎を差し込んで圧迫粉砕し、サトウキビ汁を絞り出す。回転させる動力は牛や馬などで心棒をまわして歯車を動かしていた。
この製糖法は1623年、首里王府の役人である儀間真常(1557-1644)が中国から学び伝えられたものといわれている。自家で砂糖製造を始めたことから黒糖製造が広がった。当時、使用されたのは木製の二本式砂糖車だったが、時代と共に石製、鉄製と改良された。
現在では使われておらず、琉球村などで昔の生活を伝える展示として展示されている。
資料(メタデータ)
メタデータ_サーター車













































































































































































































































































































