観光と「おもろそうし」勝連城
勝連城跡は、勝連半島にある標高約98mの丘陵に築かれた東西に細長いグスク(城)である。
北は金武(きん)湾を囲む北部の山々やうるま市の島嶼(しょ)地域の島々が見え、南には知念半島や中城湾、世界遺産の中城跡が一望できる景勝地である。
勝連城跡は1972年に国指定史跡に指定され、2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして首里城跡などとともにユネスコの世界遺産に登録された。
勝連城10代目按司の阿麻和利(最後の城主)は15世紀の琉球王国において勝連半島を勢力下に置いていた按司で、護佐丸・阿麻和利の乱により首里王府への反逆者とされているが、首里王府が編纂した歌集「おもろさうし」では、阿麻和利について肝高(きむたか/ちむたき、気高い/心豊かなどという意味)と表現され、現在でも市民に敬愛されている。
尚泰久王は王女 百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせており、その後、勝連城で起こる数々の出来事は組踊や現在版組踊にもなっている。
琉球最古の歌謡集「おもろさうし」には、勝連(現在の沖縄県うるま市勝連地区)を日本本土の鎌倉に例えた歌をはじめ、勝連の繁栄や、勝連地域に繁栄をもたらした10代目城主である阿麻和利を讃える歌謡(第12章47歌中12歌)が数多く残されている。
観光と「おもろさうし」_勝連城跡
沖縄の怖い話『七色ムーティ』
【真玉橋(まだんばし)の歴史】
真玉橋は1522年に首里城と那覇港、那覇の防御を目的として、第二尚氏第三代国王尚真の時代に国場川に架けられた橋で、琉球王府時代には首里と島尻地方を結ぶ交通の要でもあったが、川の氾濫や沖縄戦で何度も破損、破壊が繰り返された。
【真玉橋にまつわる怖い話『七色ムーティー』】
当時、木で造られた真玉橋は、大雨のたびに洪水で流されていた。そのため、1707年、尚貞王の時代に丈夫な石で造り替えることになった。
だが、建設中に大雨が降ると造りかけの橋が流され工事はなかなか進まなかった。困り果てた役人が、ユタ(民間霊媒師)をたずねると、「完成させたければ、子年生まれで七色の元結(七色ムーティー)をした女性を人柱にすることだ。」と告げられた。役人は告げられた女性をいたるところで探したが、条件にあった女性は見つけられなかった。
ある日、そのユタも子年生まれであることが役人の耳に入ったため、再びユタを尋ねると、ユタの元結が七色に輝いていた。ユタは「誰かが私を陥れようとしている」と訴えたが、聞き入れられず人柱として埋められてしまった。
(参考:豊見城市商工会とみぐすく,豊見城の民話「真玉橋の人柱伝説 ― 七色ムーティー」,http://www.tomi-shoko.or.jp/tomi_minwa,[アクセス 2023/11/03])*諸説あり
沖縄の怖い話_『七色ムーティ―』
川平湾
川平湾(かびらわん)は、沖縄県石垣市の石垣島北西部にある湾である。
地図
湾内の海は、光の加減や潮の満ち引きにより刻々とその色を変え、石垣島を代表する景勝地と評される。湾口をふさぐように横たわる小島(くじま)をはじめとする小さな島が湾内に点在し、海中には数多くの種類の造礁サンゴが群落を形成している。
1997年9月11日に「川平湾及び於茂登岳」として国の名勝に指定されている[1]。また、2007年8月1日に西表国立公園が拡張され西表石垣国立公園となった際に、第1種特別地域に指定されている[2]。
湾内のサンゴ礁の景観は観光用のグラスボートから鑑賞することができる。潮流が強いため遊泳は禁止されている。
琉球真珠による黒真珠の養殖でも知られているが[3]、近年急速な水質汚染ならびに汽水化が進行しており、早急な対策が望まれている。
動画資料
川平湾全景
川平湾グラスボート
竹富島
赤瓦屋根の家々、サンゴの石垣、白砂の道、屋根の上のシーサー、原色の花々が咲き、美しい沖縄の原風景に触れることができる島。島をゆっくりと巡れば、生活の中に生きづく伝統と文化を実感する。
平坦な島をのんびりと歩くのもいいし、サイクリングで島中をまわるのもいい。また水牛車にゆられながら、集落をまわるのもこの島ならでは。
水牛車から聴こえてくる全国的にも有名な「安里屋ユンタ」は、この島で歌い継がれてきたユンタが元歌になっている。そして島最大の行事「種子取祭」は、豊かな芸能を大切にする竹富島の人々の誇りと気概に溢れている。
2007年、竹富島の生活用具(喜宝院蒐集館)が、国指定重要有形民俗文化財に指定された。
動画資料
水牛車観光(1)
水牛車観光(1)
金城町石畳道
那覇市金城町なはしきんじょうちょうにある「金城町石畳道」は長さ300mあり、琉球石灰岩が敷かれた石畳道で首里城から続いています。尚真王しょうしんおうの時代(1477~1526)に首里城から南部へ行く道として造られたそうです。戦争で一部なくなり300mしか残っていませんが、両脇に沖縄の古民家があり、風情ある場所です。この石畳道は沖縄県指定文化財です。石畳沿いの家では普通に生活していますので、騒いだりしないようにマナーをお守りください。
銘文引用
この石畳は、旧首里城守礼門南脇にあった石門(いしじょう)から識名(しきな)、国場(こくば)、真玉橋(まだんばし)を経て南部へ至る重要な道の一部だった。
首里の主要な道が石畳道に改造された16世紀のはじめ、1522年(尚真王46)年ごろにこの石畳道は造られたと推定されている。
全長300m、道幅やく4m。敷石は大小の琉球石灰岩を組み合わせた「乱れ敷き」で、石の表面には適度な加工が施されていたが、長い年月で摩耗している。急な勾配のところでは石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段をつけたりしている。沿道の石垣は、琉球石灰岩を用い、主に沖縄独持の石積みの手法である「あいかた積み」で積まれており、石畳と調和して城下町の風情を残している。
座喜味城跡
西海岸を見渡せる標高127mの丘の上に築かれています。築城年代は15世紀前半で、座喜味の北東4kmに位置する山田城の城主・護佐丸(ごさまる)が北山監守の時、山田城を取り壊してその石材を運ばせてつくらせたと伝えられています。城は主郭と二の郭からなり、外周365m、総面積7,386㎡で、沖縄の城としては中規模のものです。城壁は琉球石灰岩によるあいかた積みを基調とし、アーチ門とその両脇は整然とした布積みとなっています。
座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)は、沖縄県中頭郡読谷村にあったグスク(御城)の城趾。日本軍が高射砲陣地を構築していたため、十・十空襲と沖縄戦で壊滅的な被害をうけ、瓦礫の丘陵地となり、また1974年まで米軍基地ボーローポイント内のナイキミサイル通信基地となっていた。沖縄返還を機に返還の機運が高まり、1974年に米軍から返還された。調査と復旧が進められ、通信基地に駐屯していた退役軍人も驚嘆するほどの美しいグスクとしてよみがえった。2000年、世界遺産に登録された。
概要
築城家として名高い読谷山按司、護佐丸によって築かれたといわれる15世紀初頭の城。城郭の外周は365m、城郭内面積は7,385㎡。なだらかで優雅な曲線を描く城壁は続日本100名城にも選ばれている。
城の上からは中頭地方周囲を広く見渡せる高台にある。海域や周辺離島まで見え、軍事上の要衝に存在した。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。また、城郭の突出部は琉球の城郭に特徴的であり、防衛上の工夫と見られる。瓦が出土しない事からかつてあった建物は板葺きと考えられている。
2018年には南側に世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアムもオープンした。
歴史
1416年から1422年に読谷山の護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。
護佐丸は中北山の争いから逃れた今帰仁王子が伊波城に勢力を持った伊覇按司の三世の次男と言われる。先代山田城主読谷山按司(山田按司)も伊覇按司の一族係累であったが嗣子がなかったため、城主の兄弟の伊覇按司の三世の次男護佐丸が養子となって読谷山按司を継いだと伝えられる。1430年に中城城に移封されるまで読谷山按司を名乗った。
出土品に16世紀のものも見られる事から、護佐丸の移封後もしばらく利用されていたと推定されている。座喜味城の貿易遺物は15世紀中期以後であり、護佐丸が座喜味城を離れた後の年代であるため、近年いしゐのぞむは以下の新説により座喜味觀に大きく轉換を試みてゐる。「おもろさうし」78番(卷二)の越来按司の子「(ま)たちよもい」が尚泰久であることは定説だが、別途卷十五の「宇座のたちよもい」を泰期とする舊説は誤りであり、兩者はともに同一の尚泰久=懷機=國公道球である。尚泰久が護佐丸を中城に移した後、自ら懐機の名(越來の福建字音)で座喜味城下の長濱で南海貿易を行なひ、國公(越來及び懷機の同音)の道球(泰久の同音)として『琉球國由來記』卷十に記録されたのである。なお、この新説は発表間もなく、定説となってゐない。
久高島
久高島は沖縄本島の知念岬の東の海上5.3kmにある、周囲約8.0kmの小さな島。沖縄では琉球王国の時代から特別な島で、島自体が沖縄最高峰の聖地です。
琉球開びゃく始祖・アマミキヨが降り立った島として、琉球の神話や神事が今も息づく島で、島民はその歴史や神事を大切に守り継いでいます。
久高島(くだかじま)は、沖縄本島東南端に位置する知念岬の東海上5.3kmにある、周囲8.0km[1]の細長い島である。全域が沖縄県南城市知念に属する。人口は238人、世帯数は153世帯(2020年4月末現在)
地理
北東から南西方向にかけて細長く、最高地点でも標高17m[3]と平坦な島である。将来懸念される津波襲来に備えて、300人を収容できる避難施設(上部は海抜21.35m)が設けられている[4]。土質は島尻マージと呼ばれる赤土で保水力には乏しい。河沼はなく、水源は雨水と湧き水を貯める井泉(カー)に依存している。海岸沿いには珊瑚礁で出来た礁湖(イノー)が広がっている。
北東約2.1km沖にウガン岩がある。
歴史
琉球王国時代には国王が聞得大君を伴って久高島に渡り、礼拝を行っていた。後に本島の斎場御嶽(せいふぁうたき)から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。
近世・近代には鰹節の産地として知られ、徐葆光の『中山伝信録』でも「鰹節は久高島産のものが良質」と述べられている。
1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、金武町屋嘉の集落に身を寄せた[6] (久高島住民強制疎開の碑)。そのためやんばるでの避難生活や収容所での栄養失調やマラリアで亡くなった住民が多いといわれ、沖縄戦での犠牲者は男性が13名、女性が24名、子どもが27名の計64名である。1946年5月に帰島が許された。
行政区域上は1908年(明治41年)の島嶼町村制施行時に島尻郡知念村久高となり、2006年(平成18年)に知念村が佐敷町、玉城村、大里村と合併したため、南城市知念字久高となった。
2021年(令和3年)11月、福徳岡の場の噴火から生じた大量の軽石が沖縄の海域に移動。安座真港と久高島をつなぐフェリーが欠航するなどの影響が出た。
社会
公有地や電力会社所有地などを除き、土地を自治会である字(あざ)名義で登記して「総有」する、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている。家を建てる時は字総会の許可を得て、普段は土地を自宅や畑として使うものの、島を出る際には字へ返す。島の約3分の2を占めるリゾート開発の計画が持ち上がったことをきっかけに、1988年、「久高島土地憲章」として明文化された[9]。
リゾート計画は立ち消えとなり、 島内は観光開発がほとんどされず、集落は昔ながらの静かな雰囲気を残している。後述する各聖地を回るにも標識がないため、詳細な地図をあたるか、地元の人に聞かないと探すのは難しい。