【研究】郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける地域資源の記録・管理法の研究
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、郡上白山文化遺産の世界遺産登録への整備と新たな観光資源の発掘を目的とし、建造物、建築物群を含めた伝統文化遺産の新たな観光資源の発掘、衰退する白山文化遺産の記録、白山文化遺産の県域(岐阜・石川・福井)を超えた白山文化遺産デジタルアーカイブの構築を進めている。
しかし従来の地域資源のデジタルアーカイブでは、記録した地点や時間が不明で、活用することが困難であった。そこで、記録や管理の方法について研究することにより、活用しやすい記録・管理の方法を開発する。
第1章 緒言
1. 研究目的
本研究では、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける地域資源の記録および管理方法の最適化を目的としている。具体的には、次の3つの目標を達成することを目指している。
(1) 地域資源の詳細な記録方法の確立
多方向撮影や多視覚での情報収集を活用し、地域資源の詳細な記録方法を確立する。これにより、郡上白山文化遺産の全体像を正確に把握し、保存することが可能となる。
(2) 効率的な管理システムの構築
地域ごとの分類および日毎の管理方法を導入することで、効率的な管理システムを構築する。このシステムにより、特定の地域や時期に関連するデータを素早く検索・アクセスできるようにする。
(3) 世界遺産への登録支援
郡上白山文化遺産の世界遺産登録を支援するためのデータベースを構築する。詳細なデジタルアーカイブを提供することで、世界遺産に必要な証拠資料や情報を整理・提供し、登録プロセスを支援する。
これらの目的を達成することで、郡上白山文化遺産の保存と活用に貢献し、将来の研究や教育活用、観光において価値ある資料を提供することが期待される。また、世界遺産への支援を通じて、郡上白山文化遺産の国際的な認知度と保護を強化することが目指される。
2. 研究方法
(1) 白山信仰と白山文化の理解
白山信仰が地域文化に与えた影響を調査し、その歴史的背景と現代における意義を考察する。岐阜県・石川県・福井県の白山三馬場や白山信仰に基づく祭りなど具体的な例を挙げ、それがどのように伝承されてきたかを探る。
(2) 文化遺産デジタルアーカイブの意義と方法の探究
文化遺産をデジタルアーカイブ化することの意義を明確にし、それが保存・アクセス・教育・観光のそれぞれでどのように貢献するかを述べる。また、石川県や福井県における白山信仰に関わるデジタルアーカイブと比較し、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの方法を理解する。さらに、他地域との連携や協力の可能性を考える。
(3) デジタルアーカイブの課題と解決策の提示
現在の郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの課題を整理し、それに対する解決策を提案する。二次利用を前提とした新たな地域資源デジタルアーカイブの記録手法と管理方法を提案し、その実用性を評価する。
(4) 新たな地域資源デジタルアーカイブの試行と考察
本研究を通じて、白山信仰とその文化遺産の保存と継承に関する新たな知見を提供し、地域資源の発展に貢献することを目指す。デジタルアーカイブの活用による文化遺産の保存・普及の可能性を広げることを目的とする。
第2章 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける記録・管理方法
① 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、郡上白山文化遺産の世界遺産登録への整備と新たな観光資源の発掘を目的とし、建造物、建築物群を含めた伝統文化遺産の新たな観光資源の発掘、衰退する白山文化遺産の記録、白山文化遺産の県域(岐阜・石川・福井)を超えた白山文化遺産デジタルアーカイブの構築を進めている。
② 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける記録・管理方法
従来の地域資源デジタルアーカイブでは、写真と場所を説明するメタデータ、位置情報、撮影日を記載している。メタデータに記されているものは大まかな場所や歴史などである。位置情報はクリックするとGoogle mapで詳細を確認することができる。
また、管理方法については記録した順に郡上白山文化デジタルアーカイブのページに管理している。
③ 地域資源デジタルアーカイブにおける記録管理の問題点
はじめに記録方法の問題点について述べる。複数枚の画像が並べられているため、記録した地点が不明である。また、どの写真が何を示しているのかが不明である。建造物単体で撮影すると、その場所の中のどこにあるものなのか、位置関係がわかりづらい。一方向から撮影されたものでは、横から後ろから見た様子が不明である。位置情報はGoogle mapで把握することができるが、実際にどのような場所に位置しているのかは分かりづらい。撮影日は記載されているため、季節は分かるが、時間帯までは不明である。
次に管理方法における問題点について述べる。郡上白山文化デジタルアーカイブのページに一括でまとめられているため、データを開かなければ、岐阜県・石川県・福井県のうち、どこで撮影されたものか、またいつ撮影されたものなのかが不明である。今後も記録データは増え続ける一方で、データを検索し、活用しようとする際に時間がかかることが問題点である。
① 白山信仰と文化遺産
・白山信仰
富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つ「白山」。雪をいただき、光を浴びて輝く姿に、古来より人々は白山を「白木神々の座」と信じ、崇めてきた。また、農耕に不可欠な水を提供する山の神としてだけではなく、日本海を航行する船からも、航海の指標となる海の神として崇められていた。北陸は、『日本書紀』の時代には「越の国」と呼ばれており、白山はそこにそびえる白き山という意味をこめて、古くは「越のしらやま」と呼ばれていた。古来より白は神聖な色であったことから、平安時代には「越のしらやま」は都人にとって憧れの山となり、当代一流の歌人たちの歌にも白山の名を見ることができる。
日本では、もともと「山」に対して二つの信仰が存在してきた。一つは遠くから眺めて神秘を感じ、山神に感謝を捧げる「遥拝(ようはい)」で、北陸道筋には、白山を眺めるための「遥拝所(ようはいじょ)」が設けられていた。もう一つは、山中に分け入って厳しい修行を積み、宗教的境地を目指す「修験」で、白山には全国から修験者(山伏)が集まった。どちらの信仰においても、白山ほど霊峰という冠が似合う山はなく、神々しいまでの美しさは多くの人を魅了し続けている。
・白山信仰の始まり
養老元年(717)、越前(福井県)の僧「泰澄(たいちょう)」が初めて白山に登拝し、翌年山頂に奥宮を祀った。以来、神々しい山の神は人々の憧れとなり、白山信仰は急速に全国に広まっていった。白山登拝が盛んになると、加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)には、その拠点となる馬場(ばんば)が設けられ、多くの人々で賑わった。
明治時代を迎えると、神社と寺院を区別させる神仏分離令が発令され、仏像や仏具が白山の頂より下ろされることとなった。それらの仏像は「白山下山仏」として現在も白山の山麓の白山本地堂や尾添白山社などに安置されている。
白山信仰は、単なる宗教的な信仰に留まらず、地域文化に多大な影響を与えている。以下にその具体的な例を示す。
白山信仰は、農耕儀礼として重要な役割を果たしている。毎年、五穀豊穣を祈る祭りや行事が行われ、地域の農民たちは白山神社に参拝し、豊作を祈願する。これらの儀礼は、地域住民の生活と密接に結びついており、農業のサイクルと共に白山信仰が深く根付いている。白山信仰に基づく祭りや行事は、地域全体で大切にされており、住民同士の結びつきを強化する役割を果たしている。この祭りには多くの観光客も訪れ、地域経済の活性化にも貢献している。
・白山文化
白山信仰に関連する文化は多岐にわたるが、以下の具体例を通じてその特徴を説明する。
白鳥おどりは、岐阜県郡上市白鳥町で行われる伝統的な盆踊りで、白山信仰と結びついている。白鳥おどりは、地域住民にとって重要なイベントであり、毎年多くの人が参加する。この踊りは、地域の一体感を高めると同時に、白山信仰の象徴として大切にされている。
白山信仰と白山文化は、地域住民の生活と深く結びついており、文化的遺産としての価値が非常に高い。本研究では、これらの文化遺産をどのようにデジタルアーカイブ化し、保存・普及させるかを引き続き検討する。
・白鳥おどり
清流長良川の最上流に位置する白鳥町(岐阜県郡上市)は、その昔、富士山、立山と並ぶ三名山の一つ、白山への信仰の東海側の拠点「美濃馬場」として、登拝者は「山に千人」「麓に千人」といわれるほどにぎわった。
郡上の盆踊りは、念仏踊りや風流踊りを源流としながら、白山民謡文化圏において、白山信仰との関わりの中で成立したと考えられる。白山中宮長滝寺や石徹白の白山中居神社には、様々な修行者、登拝者たちが往来し、かれらが伝えた念仏踊りや歌念仏と白山を誉めるショウガ(唱歌)が結合して、白鳥おどりの中で最も古い「場所踊り」になったと思われる。
享保8年(1723年)の長滝寺経聞坊「留記」7月9日の記事に「盆中お宮にて踊り申す事、奉行より停止の書状到来」という白山中宮長滝寺における盆踊り停止命令があり、この記事により逆にそれまで境内での盆踊りが慣習となっていたことがわかる。
江戸中期以降の諸資料には、白山中宮長滝寺をはじめ、郡上の寺社境内において、盆踊りが毎年行われ、近郷からも踊りに往来していたことが記されている。盆踊りの内容・種目については、資料がなく不明だが、おそらく「場所踊り」を基本とし、越前及び荘川方面等から伝わった白山民謡文化圏の種目が踊られていたと推察される。
江戸中期以来昭和前期まで、郡上の盆踊りは拝殿踊りとして続いた。神社の拝殿の中央には悪霊除けの花笠に由来する切子灯籠が吊り下げられ、美声自慢の若者たちが音頭を取り合い、板敷きの拝殿の床で下駄の音を鳴り響かせ、近所の若い衆も往来し、輪をつくって踊った。
明治維新(1868年)後、政府が推し進めた急速な欧米化政策は、盆踊りや村芝居等の民俗的風習を否定するものであり、これを受けて岐阜県は明治7年(1874年)盆踊り禁止の布達を出した。
このような禁令にもかかわらず、盆踊りは廃絶することなく細々と受け継がれた。大正末期に伝統芸能の復活の機運が高まると、白鳥町でも盆踊り保存と伝承の動きが出たが、満州事変から太平洋戦争が激化するなかで消えていった。
戦後、各地で盆踊りの復活の機運が高まると、昭和22年(1947年)「白鳥踊り保存会」が設立され、白鳥神社などで拝殿踊りとして踊り継がれてきた白山民謡文化圏の多くの踊りの種目の中から、代表的ないくつかの踊り種目を選んで「白鳥おどり」として整備した。
昭和30年代に入ると、白鳥町はこの踊りを観光に生かそうと考え、切子灯籠を街頭に吊るし、笛、太鼓、三味線などの鳴り物を入れて、踊り屋台を囲んで、街頭で踊るようになった。神社での拝殿踊りの伝統を生かした白鳥おどりは、同じ郡上の盆踊りでも八幡町の郡上おどりとは異なる特色をもち、「神代(ドッコイサ)」「世栄(エッサッサ)」などのテンポの速い、活動的な踊りは、若者をはじめ多くの人々に愛好されている。
一方、拝殿踊りの古い姿を保存伝承するために「白鳥拝殿踊り保存会」が組織され、毎年8月17日白鳥神社及び8月20日野添貴船神社において、楽器、太鼓を伴わない本来の拝殿おどりが催される。
「白鳥の拝殿踊り」は、平成13年(2001年)、岐阜県重要無形民俗文化財に指定され、次いで平成15年には国選択無形民俗文化財に選ばれた。
白鳥おどりは、全国的な民謡ブームに乗って年々盛大になり、踊りの回数も増え、昭和40年代からは、期間も7月下旬から8月下旬までになり、特にお盆の3日間は、徹夜で踊られる。奥美濃しろとりの夏の風物詩として、そして後世に保存伝承すべき貴重な民俗芸能として踊り継がれている。
② 岐阜県・石川県・福井県の白山三馬場
奈良時代、越前国(福井県)の僧・泰澄が、天空に現れた貴女(白山神)のお告げを受けて、養老元年(717年)に白山の登頂を果たし、修行し、白山の神々の姿を感じ見たと言われている。そして、それまで白山を遠くから遥拝していた人々が、山頂へ登る登拝という祈りの形への移行のきっかけももたらした。「霊峰白山には神仏が坐す」禅頂と呼ばれる頂上へ至る修行の道。それが禅定道である。三方向から整備された禅定道の起点を馬場といい、現在の「白山比咩神社」「長滝白山神社・白山長瀧寺」「平泉寺白山神社」で、平安時代の末頃には、「三馬場」と呼ばれ、白山信仰の崇敬者たちが集まり、登拝していた。当時は神仏習合の時代であったこと、そして山岳信仰もあったことから、神と仏が融合しているのも白山信仰の特質である。さらに山頂を極楽浄土と見立てた「生まれ清まる」の願いから、魂が帰る新たに生まれる場所として、還暦や厄落としなど人生の節目に登山する動きもできた。
・石川県:白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
御鎮座2000年を超え、全国に3000社余りある「白山神社」の総本宮で、加賀一宮。菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊もお祀りし、菊理媛尊は結びの神として崇敬を受け、地元からは親しみを込めて「しらやまさん」と呼ばれている。境内は白山からの水が川となって流れ、澄んだ空気に満ちている。
白山比咩神社では、年間を通じて様々な祭りが行われている。特に、下記には「御田植祭(おたうえさい)」が行われ、豊作を祈願する儀式が行われる。また、神社の周辺では伝統的な工芸品や特産品が販売され、観光客にも人気がある。
・岐阜県:長滝白山神社
もとはひとつの社寺で、明治の神仏分離令前までは、「白山中居長瀧寺」と呼ばれていた。発令後も神仏習合の形態をそのままに、岐阜県における白山信仰の中心となっている。ご祭神は菊理媛尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊。明治32年(1899年)の大火の際にも、白山信仰を伝える宝物は住民の努力により焼失を逃れ、既存している。
毎年1月6日に長滝白山神社で奉納される六日祭は別名を「花奪い祭(はなばいまつり)」と呼ばれている。この祭りの中心となっているのは、奈良の東大寺等で行われた延年で、長滝の延年は長滝一山の神主・老僧が新年にあたり、国家安穏・五穀豊穣を祈る神仏混合の行事である。延年の舞は千余年の伝統にふさわしく、素朴で優雅な民俗芸能で、全国にも数箇所しか既存しておらず、この長滝の延年は国の重要無形民俗文化財に指定されている。この延年の途中から花奪いが始まり、拝殿土間の天井、高さ約6メートルに吊るされた桜・菊・牡丹・椿・芥子の五つの大きな花笠を勇敢な若者たちが3つぎ半の人梯を組んで落とすと、花を奪おうと揉み合いになる。この花を持って帰ると、豊蚕・豊作・家内安全・商売繁盛になると言われている。
・福井県:平泉寺白山神社
広大な境内を覆う苔のじゅうたんと杉木立、参道に佇む結界石と拝殿へと続く石畳道。境内には泰澄が白山への道中に発見し、神のお告げを受けた「御手洗池」が、現在もこんこんと湧き出ている。中世には北陸有数の宗教都市として栄えたが、天正2年(1574年)の一向一揆の争乱で全山焼失。現在も発掘が進められている。
平泉寺白山神社では、春と夏に例大祭を執り行っている。春は多くの人で賑わう拝殿に、少女たちの舞の奉納が行われ、夏は泰澄大師の白山開山の日を偲んで行う。33年に一度、御開帳があり、今も引き継がれている。次回の御開帳は2025年(令和7年)5月。
三馬場周辺の地域では、白山信仰に基づく祭りや行事が盛んに行われ、地域の文化的なアイデンティティを形成している。また、これらの祭りや行事は、観光資源としても活用されており、地域経済の発展にも貢献している。
白山三馬場の文化遺産を保存し、次世代に伝えていくためには、デジタルアーカイブの活用が不可欠である。これにより、地域の伝統文化が広く知られ、未来に渡って継承されることが期待される。
本研究では、白山三馬場の具体的な事例を通して、白山信仰とその文化遺産のデジタルアーカイブ化の意義と方法を探究していく。
③ 長滝白山神社の宝印、最高シンポジウム
長滝白山神社は、郡上市の北部、白鳥町長滝に位置する。長良川鉄道白山長滝駅の西側から、西北方向に参道が伸び、参道沿いには、経聞坊(きょうまんぼう)、宝幢坊(ほうどうぼう)、阿名院(あみょういん)などの塔頭が建つ。太鼓橋を渡り、参道を進むと長滝白山神社と白山長瀧寺の境内に入る。境内の中央には、「正安四年〈壬寅〉那月日願主伝燈大法師覚海」の刻銘がある「石燈籠」(重要文化財(美術工芸品))1 基が据え置かれている。参道に正面を向けて、長滝白山神社拝殿、その奥には、中央に本殿とその左右に両脇社が建つ。拝殿東側には社務所と「白山長滝神社の大スギ」(県天然記念物)が位置する。「石燈籠」の西側には蓮池と白山長瀧寺本堂、東側には仏像を安置している白山瀧宝殿が建っており、神社と寺院が同じ境内地に配置された、白山信仰の神仏習合を今に伝えている。
・長滝白山神社の宝印、再興シンポジウム
令和6年(2024年)4月21日(日)13時30分より、長滝白山神社拝殿にて、長滝白山神社の宝印、再興シンポジウムが行われた。神社の歴史と文化を再評価し、現代におけるその意義を再確認するための重要なイベントである。このシンポジウムには、地域住民や学者など、募集人数を超える参加者が集まった。
・シンポジウムの目的
長滝白山神社の宝印制度とその歴史的意義を再評価し、現代社会におけるその役割を探る。地域住民や関係者とともに、神社の文化遺産の保存と活用方法を検討し、将来的な取り組みを計画する。
・シンポジウムの内容
基調講演:戦国武将から吉原遊女まで広く利用された長滝起請文の意義
対談:瀬戸薫氏(瀬戸菅原神社宮司)、若宮多門氏(長滝白山神社宮司)
昔、日本では保証や契約などをする際に、神仏に誓約する「起請文」を取り交わした。家臣への領地安堵の証文や大名間の軍事同盟の締結・合戦の和睦の外交文書として起請文を用いた。起請文は、平安時代後期に生まれ、神仏に近いを立て破ったならば、神仏の罰を受ける旨を記した誓約書である。中世になると寺社の発行する「牛王宝印」という魔除けの護符の裏に書かれ、長滝白山神社では、「白山滝寶印」が押してある。
・牛王宝印
平安時代から社寺が発行し、信者に授与した護符。牛の体内にできた五黄(胆石)や牛王(胃石)が、高貴薬として重用されたので、病魔除去にも効験があると信じられた。これを朱に混ぜて朱肉として印(宝印)を捺すので、牛王宝印や牛王と呼ばれるようになった。
社寺では、正月の修正会、2月の修二会など、初春の儀式の中で、社寺名を書いた(木版で印刷した)料紙の上に印を捺して作製し授与した。白山の美濃馬場では、修正会の正月6日に作製される護符であった。本来は「護る神」として、身体安全、病気平癒、水口祭(豊作祈願)に用いられていた。
・起請文
起請文(誓紙・誓詞)は、誓約の内容を記した「前書」と、制約を違えた場合に罪をこうむる神仏の名を列記(勧請かんじょう)した「神文(罰文)」からなる。起請文に牛王宝印が用いられるのは鎌倉時代後期から。神文を書き継ぐことによって、「怒る神」に変化させられたと考えられる。護符や「一味神水」(団結のために焼却した灰を神水に浮かべて飲む儀式)により、残存資料は多くない。
・白山権現牛王宝印
延元元年(1336年)5月、美濃国茜部荘(現岐阜市)の荘民達が領主東大寺に誓約。至徳3年(1386年)10月、宗妙が大徳寺如意庵領尾張国松枝荘(現愛知県一宮市)に関して不正を行わないことを誓った。いずれも、「白山権現牛王宝印」を用いているが、このあと戦国期に用いられるのは、美濃長瀧寺から授与される「白山瀧宝印」が中心になっていく。
・徳川家康と白山瀧宝印
「白山瀧宝印」を最も有効に用いたのは、徳川家康。家康より先に今川氏が用いていた形跡があるが、残存史料は少ない。永禄4年(1561年)から松平元康、家臣への知行充行(ちぎょうあてがい)や本領安堵に多用する。「白山瀧宝印」のデザインは、二種類あり、入手系統が複数あった。元亀元年(1570年)10月、上杉謙信との密約を経て、天正10年、北条氏規(うじのり)の身体保護を誓うまで、「白山瀧宝印」を用いる。勧請神は、「富士・愛宕・白山」が中心。天正10年以降、「熊野牛王」を用いるようになり、勧請神も「伊豆、根両所権現、三嶋大社、八幡大菩薩、天満大自在天野神」の五神になる。伊豆、箱根、三嶋は源頼朝が崇敬。五社は御成敗式目(貞永式目)の起請詩。のちに、五社は江戸幕府が定める基本型(式目神文)になる。
・織豊政権と白山権現
白山宝印は用いなかったが、白山権現を「起請の神」として全国に定着させたのは、織豊政権。織田信長は天正8年(1580年)の大阪本願寺との講話に、熊野牛王だが「八幡・春日・天満天神・愛宕・白山」の五神を勧請した。羽柴秀吉は天正7年(1579年)6月、中川清秀に兄弟の契約し、「八幡・愛宕・白山」を勧請した。霊社上巻起請文は、熊野牛王を3〜7枚使って、膨大な字数で全国の神仏を勧請する形式で、戦国末期に近江国で始まったと見られる。秀吉は文禄4年(1595年)の秀次事件の際に採用した。慶長4年(1599年)前田利家の死まで続いた。
・前田家と加賀藩の起請文
前田利家が「白山瀧宝印」を用いたのは、天正13年(1585年)に菊池武勝に対してのみであった。他の2通は「那智瀧宝印」に「愛宕・白山」を勧請した。1通は「霊社上巻」。前田利長は、「那智瀧宝印」3通に「富士・白山・愛宕」を勧請した。1通は霊社上巻。加賀藩士の役職就任・家督相続等の誓約書(起請文)に神文の残るものは僅かである。
・「白山権現」の広がり
佐竹・武田・毛利・細川・島津(琉球王国を含む)等の大名・家臣に倒多した。武田信玄は天文15年(1546年)7月、「春日」源助充ての誓詞に「富士・白山」とあり。直江兼続は慶長9年(1604年)10月、本多政重を婿養子に迎える起請文案に「あた子・はく山」とあり。
・牛王宝印と起請文の文化的意義
牛王宝印と起請文は、白山信仰の文化と歴史において大切なものである。これらは信仰の象徴であり、社会的な契約や約束の証拠として使われてきた。
牛王宝印と起請文は、神聖な儀式で使われ、信仰のシンボルとしての役割を果たしている。これにより、信者の信仰心が強まり、神聖な絆が生まれる。
起請文は、約束や契約の証拠として、個人や団体の間で信頼関係を築くために使われていた。これにより、社会の秩序が保たれ、誠実な関係が築かれる。
牛王宝印と起請文は、歴史的な文化遺産としての価値がある。これらの遺産は、地域の歴史や信仰を伝える貴重な史料であり、保存と研究が進められている。
・牛王宝印と起請文のデジタルアーカイブ
牛王宝印と起請文を保存し、デジタルアーカイブすることは、地域の文化を守り、広めるために大切な取り組みである。以下に、具体的な保存方法とデジタルアーカイブの方法を示す。
牛王宝印と起請文は、適切な環境で保存する。温度や湿度をきちんと管理し、劣化を防ぐための対策を行う。定期的に点検と修復を行い、保存する。
高解像度の写真やスキャンデータを使って、牛王宝印と起請文をデジタル化する。これにより、物理的な劣化のリスクを減らし、誰でもアクセスできる形で保存することができる。デジタルデータには、検索や閲覧が簡単になるようにメタデータをつけて整理する。
牛王宝印と起請文のデジタルアーカイブを利用して、教育プログラムや展示を行う。これにより、地域の歴史や信仰についての理解を深める。学校や博物館、図書館などと連携し、デジタルコンテンツを提供することで、地域の文化を広める。
・今後の展望
牛王宝印と起請文を保存し、デジタルアーカイブ化することは、今後続けていくべき重要な取り組みとなる。以下に、今後の計画を述べる。
牛王宝印と起請文だけでなく、関連する全ての文化遺産をデジタルアーカイブする。これにより、地域の文化遺産全体を簡単に理解できるようになる。
デジタルアーカイブを通じて、次の世代に地域文化を伝える取り組みを強化する。若い人たちが地域の歴史や信仰に興味をもち、積極的に関わることができる機会を提供する。
さらに、海外の大学や文化団体と協力し、国際的な視点で保存と研究を進める。これにより、白山信仰の文化遺産が世界中に広まっていくことが期待される。
牛王宝印と起請文は、白山信仰のシンボルであり、地域文化の大切な部分である。これらの遺産を保存し、デジタルアーカイブを通じて広く知らせることで、地域の歴史と信仰を次の世代に伝えることができる。
・長滝白山神社の宝印、再興シンポジウムの成果と影響
長滝白山神社の宝印、再興シンポジウムは、地域社会と白山信仰の未来に向けた重要なステップとなったと考えられる。
シンポジウムを通じて、長滝白山神社の歴史的意義が再評価された。これにより、地域住民の間で白山信仰に対する理解と関心が深まった。白山信仰の継承と発展に向けた具体的な方針が共有され、地域全体での協力体制が強化された。
・今後の展望
長滝白山神社の宝印、再興シンポジウムは、地域の文化を守り、次の世代に伝えるための大事な一歩である。以下に、今後の活動の方向性について述べる。
シンポジウムで得た成果をもとに、続けて活動を進めていく。定期的にミーティングを開き、進捗を確認しながら活動を改善していく。
地域内外の関係者との協力を強化し、幅広い協力体制を作る。大学や文化保存団体と一緒に研究やプロジェクトを進め、白山信仰の文化遺産を深く理解し、保存を進める。
国際的な視点をもち、白山信仰の文化遺産を世界に発信する。海外の大学や文化団体と連携し、共同プロジェクトや研究を通じて、白山信仰の価値を国際的に認識してもらう。
長滝白山神社の宝印、再興シンポジウムは、地域の歴史と文化を見直し、将来に向けた具体的な取り組みを計画する重要な機会となった。これにより、白山信仰の文化遺産が次の世代に渡って保存・継承され、地域社会の発展に役立つことが期待される。
(2)文化遺産デジタルアーカイブの意義
①保存の意義
文化遺産を保存することは、その歴史的な文化的な価値を伝えるために重要である。特に、物理的な劣化や災害から文化遺産を守るためには、デジタルアーカイブが重要な役割を果たす。
伝統的な文化遺産は、時間が経つにつれて劣化する。紙の文書、木で作られた建物、布製品などは、温度や湿度、虫によって傷みやすい。また、火事、地震、洪水などの災害による破壊リスクも高いため、物理的な保存には限界がある。
デジタルアーカイブは、物理的な劣化を防ぐための良い方法である。デジタルデータは、簡単にコピーでき、違う場所にバックアップを保存することで、災害時のリスクを減らすことができる。高解像度のスキャンや3Dモデリングを使って、細かい記録を残すことができる。現物がなくなっても、デジタルデータを通じてその姿を後の世代に伝えることができる。
デジタルアーカイブは、文化遺産へのアクセスを大きく向上させる。これにより、たくさんの人が文化遺産を知ることができ、地域外の人々にもその価値を伝えることができる。
物理的な遺産は、その場所に行かないと見ることができない。しかし、デジタルアーカイブはインターネットを通じて世界中からアクセスできる。遠くに住んでいる人や、身体的に現地訪問が難しい人も、デジタルアーカイブを通じて文化遺産に触れることができる。検索機能などの使いやすいコンテンツを提供することで、利用者が必要な情報に素早くアクセスできるようにする。バーチャルツアーや3Dモデルを使うことで、より臨場感のある体験を提供し、利用者の理解を深めることができる。
デジタルアーカイブは、教育にも大きな役割を果たす。学校や大学と協力して、文化遺産を教材として使うことで、次の世代に伝えることができる。学校での授業の教材として使うことができる。歴史や文化を学ぶときに、実際の遺産のデジタルデータを使うことで、より具体的に理解することを助ける。インタラクティブなコンテンツを作ることで、学生が自ら学ぶ環境を提供し、興味を引き出すことができる。
大学や研究機関でも、デジタルアーカイブは貴重な研究資料になる。過去の文系や資料を簡単に検索してみることができるため、研究が効率的になる。共同研究や国際的な研究プロジェクトでも、デジタルデータを簡単に共有できるため、研究の進みが早くなる。
デジタルアーカイブは、観光にも新しい可能性をもたらす。文化遺産をデジタル化して、観光資源として使うことで、地域の魅力を広く伝えることができる。
デジタルアーカイブを使って、文化遺産を紹介するウェブサイトやアプリを作ることで、観光客の関心を引き、訪問を促すことができる。ソーシャルメディアを通じてデジタルコンテンツを広め、より多くの人に地域の魅力を伝えることができる。
観光地でのデジタルガイドやAR技術を使うことで、観光客に対してより良い体験を提供できる。デジタルアーカイブを使った展示やインタラクティブな体験を通じて、観光客の満足度を高め、再び訪れることを促すことができる。
デジタルアーカイブは、文化遺産の保存、アクセス、教育、観光において大きな意味をもち、地域文化の発展に役立つ。本研究では、これらの意義を考え、具体的なデジタルアーカイブの方法とその実施についてさらに探求する。
④ 二次利用
デジタルアーカイブのデータは、一度保存されると、いろいろな形で使い直すことができる。これにより、その価値がもっと高くなる。二次利用は、教育、研究、観光など、さまざまな分野で役立ち、地域文化の普及と発展に貢献する。
学校や社会教育では、デジタルアーカイブのデータは貴重な教材となる。歴史や文化を学ぶときに、具体的な資料として扱うことができる。インタラクティブなコンテンツを通じて、学生の興味を引き、学習効果を高めることができる。
デジタルアーカイブは、歴史学、文化人類学、考古学などの研究分野で重要な資料となる。高解像度の画像や3Dモデルを使って、詳細な分析や比較研究ができる。国際共同研究などにも使われ、学術的な知識を深めることに役立つ。
観光業界では、デジタルアーカイブのデータは観光プロモーションに使われる。バーチャルツアーやAR体験を提供し、観光客に新しい体験を提供する。デジタルコンテンツを通じて、地域の魅力を広く発信し、観光客を引き寄せることができる。
・二次利用の具体例
郡上白山文化デジタルアーカイブでは、以下のような具体的な方法で二次利用ができる。
郡上白山文化デジタルアーカイブのデータを使って、教育用のデジタル教材を作る。歴史や文化を学ぶためのビデオ教材やインタラクティブな学習アプリを提供する。地元の学校と協力して、地域の歴史や文化をテーマにした授業を行う。
デジタルアーカイブのデータを使って、大学や研究機関と共同で研究プロジェクトを進める。歴史的な建造物や祭りの詳細な記録をもとに、学術論文や研究報告を作成する。研究の成果をデジタルアーカイブに戻し、新しい知識を広く共有する。
郡上白山文化遺産をテーマにした観光プログラムを作る。バーチャルツアーやAR体験を通じて、観光客に地域の魅力を体験してもらう。地元の観光協会と協力し、デジタルコンテンツを使った観光キャンペーンを行う。
・二次利用の課題と対策
二次利用には、いくつかの課題がある。これらの課題を解決するために、適切な対策が必要である。
デジタルアーカイブのデータを二次利用する際、著作権や利用許可の問題が起こる。適切な利用許可を取り、著作権を尊重することが大切である。著作権を管理するためのガイドラインを作り、利用者に伝える。
二次利用するデータの質と信頼性を確保することが必要である。デジタルアーカイブのデータは、正確で信頼できるものでなければならない。定期的にデータをチェックして更新し、最新の情報を提供することが利用者の信頼性に繋がる。
二次利用に関する知識や技術が足りない利用者には、教育とサポートを提供する。利用者がデジタルアーカイブを乞おうか的に使えるように、研修やワークショップを開く。利用者からの意見を集め、サービスの改善に役立てる。
・今後の展望
二次利用を進めることで、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの価値をさらに高めることができる。
教育、研究、観光以外にも、デジタルアーカイブのデータをさまざまな方法で使う計画を立てる。例えば、地域の発展やコミュニティ活動に使うことが考えられる。新しいアイデアや技術を取り入れて、利用の幅を広げる。
デジタルアーカイブのデータを海外に提供し、海外の教育機関や研究機関との連携を強化する。国際共同研究や教育プログラムを通じて、郡上白山文化遺産の価値を世界に広める。多言語対応のコンテンツを増やし、世界中の人々が使えるようにする。
二次利用で得た収益をデジタルアーカイブの運営資金にするなど、長期的に運営できる仕組みを作る。デジタルアーカイブの価値を最大限に引き出し、長く続けることを目指す。パートナーシップを強化し、共同プロジェクトや資金を集めるチャンスを広げる。
二次利用は、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの可能性を広げ、地域の文化を守り広めることに大いに役立つ。これにより、地域の文化遺産が次の世代に伝わることが期待される。
③郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの説明
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、郡上白山文化遺産の世界遺産登録への整備と新たな観光資源の発掘を目的とし、建造物、建築物群を含めた伝統文化遺産の新たな観光資源の発掘、衰退する白山文化遺産の記録、白山文化遺産の県域(岐阜・石川・福井)を超えた白山文化遺産デジタルアーカイブの構築を進めている。
・アーカイブの背景と目的
岐阜女子大学のデジタルアーカイブ専攻では、長年にわたり研究・蓄積された「地域資源デジタルアーカイブ」を効果的に活用する。新たな価値を創造するため、「知的創造サイクル」を生かして地域課題を探求し、進化させ課題の本質を探り、実践的な解決方法を導き出す人材養成を目的としている。郡上白山文化遺産について、地域と連携をして開発を進め、地域資源デジタルアーカイブとしての構築を進めている。「地域創造サイクル」を実現するための「知識循環型デジタルアーカイブ」による新たな価値の創造について調査・研究することが目的である。
・アーカイブ計画
郡上白山文化遺産のデジタルアーカイブ(文化遺産の収集と調査、建造物・建築物群の歴史的な価値の調査、白山信仰の三馬場の調査)において「知の増殖型サイクル」を構成し、世界遺産への登録を支援する。これは、記録→活用→創造という循環サイクルのことをいい、これをデジタルアーカイブのサイクルとして捉えると、収集・保存した情報を活用・評価することにより、新たな情報を作り出すというサイクルとして捉えることができる。
郡上白山文化遺産の調査、建造物、建築物群の歴史的・文化的価値の調査ならびに白山信仰の三馬場の調査を綿密に行い、デジタルアーカイブ研究により、新たな観光資源の発掘を支援できる。
・実施内容
地域資源データベースのシソーラスや索引語(キーワード)の統一化をする。既存の地域資源データに新たな資料を追加し、オープンデータ化を進める。
地域の課題を抽出し、大学の知識を集約して知識循環型デジタルアーカイブを構築する。社会的経済効果と意識的効果を測定し、地域資源の活用効果を実証する。
地域資源デジタルアーカイブを活用し、学生が新たな価値を創造する知的創造サイクルを実証する。地域の課題に対する実施的な解決方法を研究し、地域に貢献する。
・地域への影響
社会経済効果の定量的な分析を通じて、地域の伝統文化政策の立案や財源確保に役立てる、地域資源デジタルアーカイブの知識循環型デジタルアーカイブモデルを構築し、地域の課題解決に貢献する。地域資源を有効に活用するための教育や研究を進め、地域の発展に寄与することを目標としている。郡上市の白山文化博物館では、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブを利活用したデジタルサイネージを展示している。
・郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの記録・管理方法
高解像度カメラを利用し、建造物や祭り、行事の撮影をする。集めたデータには、細かい説明(メタデータ)をつける。これにより、データベース内で情報を探しやすくし、研究者や一般の人が必要な情報にすぐにアクセスできるようになる。
デジタルアーカイブには、地図の情報(GIS)を組み込み、各遺産の正確な場所を示す。これにより、ユーザーは地図上で遺産の場所を確認でき、現地を訪れる計画を立てるときにも便利である。
集めたデータは、ウェブサイトで管理される。データの保存、整理、検索機能を提供し、利用者が簡単にアクセスできるように作られている。
⑤ 他の地域との比較(石川県・福井県)
・世界遺産への提案
平成18年11月29日、石川県、福井県、岐阜県、白山市、勝山市、郡上市の3県3市によって、世界遺産暫定一覧表記載候補提案書「霊峰白山と山麓の文化的景観」を文化庁に共同提案した。文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会より、世界遺産暫定一覧表に追加記載することが適当とされた文化遺産が公表されたが、「霊峰白山と山麓の文化的景観」は、課題を踏まえて、主題及び構成について引き続き検討していくことが必要な「継続審議」案件とされた。
世界文化遺産特別委員会より示された諸課題を解決し、再提案の内容の充実を図るため、学識経験者による専門部会を開催したほか、関係自治体による協議を重ねた。
平成18年度提案自治体のほか、小松市(石川県)、大野市(福井県)、高山市・白川村(岐阜県)が加わり、3県6市1村として、再提案書「霊峰白山と山麓の文化的景観-自然・生業・信仰―」を文化庁に共同提案した。
平成20年9月26日付け文化庁の発表により、「世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)」への追加記載が適当とされず、現時点においては、世界遺産としての顕著な普遍的価値を有する可能性が高いとまでは評価されなかったため、「世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)候補の文化遺産」のカテゴリー2として整理された。
・石川県のデジタルアーカイブ
石川県は、白山信仰が始まった場所であり、郡上市と同じように豊かな文化遺産がある。石川県では、デジタルアーカイブを使って、地域の歴史や文化を保存し、多くの人に広めている。
・白山比咩神社のデジタルアーカイブ
白山比咩神社は、白山信仰の中心となる神社で、古くから続いている。この神社の祭りや儀式、建物の詳細をデジタル化して、インターネットで公開している。高画質の写真を使っているため、参拝者や研究者は現地に行かなくても、見ることができる。
・地域文化のデジタル保存
石川県は、地域の伝統芸能や公言品のデジタルアーカイブも進めている。特に、加賀友禅や九谷焼などの伝統工芸品を詳細に記録し、教育資料として活用している。地元の博物館や美術館と連携し、デジタルコンテンツを作成してオンラインで公開している。
・石川県立図書館デジタルコレクション
SHOSHOは石川県立図書館が所蔵する約100万点以上の資料の中から、情報を素早く、簡単に、楽しみながら、見つけることができる資料検索サイトである。「さがす」、「手にとる」、「つかう」の3つの大きな特徴がある。
石川県図書館デジタルコレクションは、地域の歴史や文化に関する貴重な資料をインターネットで公開している。江戸時代に描かれた絵図や古文書など、さまざまな種類の資料をデジタル化し、高画質の画像と一緒に提供している。資料はテーマごとに整理されており、使いやすい検索機能で効率よく見つけることができる。使いやすいインターフェースで、誰でも簡単に資料にアクセスできる。これらの資料は、地域の歴史や文化に関する教育的な価値が高い。貴重な文化財を守るためにも役立っている。
・福井県のデジタルアーカイブ
福井県もまた、白山信仰と深い関わりをもつ地域であり、デジタルアーカイブを活用して地域文化の保存と普及を進めている。以下に福井県の具体的な取り組みについて述べる。
・平泉寺白山神社のデジタルアーカイブ
神社の歴史や建物、文化に関する詳しい情報や、高画質の写真がたくさん集められている。境内の案内図や、出来事の年表などの資料も豊富である。また、神社の歴史や文化の意味についても詳しく説明されている。情報はテーマごとに整理されており、誰でも簡単に探せるように設計されている。境内の案内や年中行事など、参拝者に役立つ情報も充実している。研究者や一般の人々にとって、貴重な情報源であり、教育や文化の普及にも大きく貢献している。
・デジタルアーカイブ福井
デジタルアーカイブ福井は、福井県文書館と福井県立図書館、福井県ふるさと文学館の3館共同のアーカイブシステムとして、2019年4月から運用を開始した。資料の目録情報を中心に、一部資料についてはデジタル画像を公開している。デジタルアーカイブ福井は、福井県の地域資料の総合的なデジタルアーカイブを目指しており、関係機関との連携・協働を進めている。
デジタルアーカイブ福井の参加館の所蔵資料を中心に、著作権保護期間が満了したものについては、資料画像右下にパブリックドメインマーク(PDM、著作権なし)を表示している。また、1968年以降に福井県広報課が撮影した広報写真については、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの「表示ライセンス」(CC BY、著作権者のクレジット表記を条件に利用可能)を表示している。このほか、明治時代の新聞画像の ウェブ公開や、福井藩関係資料の全文翻刻テキストのデータセットなど、オープンデータ化を進めている。
「デジタル資料」(福井県の行政刊行物のPDF版)は図書館OPACでも検索することが可能で、検索結果画面の「デジタルアーカイブを開く」ボタンから、「デジタルアーカイブ福井」の目録画面に遷移できる。これにより、OPAC検索からPDF閲覧までをシームレスで行うことができる。また、「人物文献検索」では、参考文献タイトルをクリックするとOPACの書誌情報に遷移し、当該資料の詳細な書誌や貸出状況を確認できる。
デジタルアーカイブ福井は、国立公文書館デジタルアーカイブ、国立国会図書館NDLサーチ、ジャパンサーチ、みんなで翻刻の外部機関との連携によって、福井県街・国外においても幅広く活用されている。
・FUKUI MUSEUMS デジタルアーカイブ
福井県内の博物館や美術館からの展示品、歴史的資料、文化財をデジタル化している。展示品や資料の詳細な画像を提供し、オンラインでの鑑賞を可能にしている。テーマ別や施設別に整理され、利用者が簡単にアクセスできるデザインである。利用者が特定の資料や情報を迅速に見つけられるよう、詳細な検索機能を提供している。福井県博物館協議会加盟施設の協力のもと、福井県立歴史博物館事務局により管理されている。サイト上で使用されている文章や画像の転載・使用は禁止としている。利用者は公正な利用を心がけることが重要である。
・郡上白山文化遺産デジタルアーカイブとの比較
いずれの地域も、白山信仰に関する文化遺産のデジタル化を積極的に進めている。高品質な写真を使って詳細な記録を残し、それを教育や研究のために活用している。地元の学校や大学と協力し、歴史や文化の学びに役立てている。また、デジタルアーカイブのコンテンツを刊行の広報にも使って、地域の魅力を広めている。
テーマごとのデータ管理や、検索機能により利用者が簡単にアクセスできるように工夫している。利用者が著作権を侵害することなく、情報の活用ができるように配慮している。
石川県では古い絵図や古文書などの歴史資料を中心にデジタル化を進めている。福井県では歴史的な文書や新聞記事、写真など幅広い資料をデジタルで保存している。そして、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、白山信仰や関連する文化全般にわたる広範な情報を集めている。石川県・福井県の県域を超えた文化遺産のデジタルアーカイブを行なっている。
・他地域との連携と未来展望
石川県や福井県と協力して、デジタルアーカイブ運営での知識や技術を共有し合い、互いの資料の質を向上させる。共同で白山信仰に関するプロジェクトを立ち上げ、複数の地域の詳細なデジタルアーカイブを一つの場所で見られるようにする。これによって、利用者が便利に資料にアクセスできる環境を提供する。
さらに、海外の大学や文化団体とも連携して、国際的なデジタルアーカイブの展開を目指す。白山信仰の文化遺産を世界に広く知ってもらい、国際的な関心を集める。郡上白山文化遺産デジタルアーカイブは、他の地域と連携し合いながら、地域の文化を守り、次世代に伝えるための重要な成果をあげることができる。
(4) デジタルアーカイブの課題と解決策の提示
① 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの問題点
・記録方法の問題点
記録方法には次のような問題が存在する。複数枚の画像が並べられているため、記録した地点が不明である。また、どの写真が何を示しているのかが不明である。建造物単体で撮影すると、その場所のどこにあるものなのか、位置関係が分かりづらい。一方向から撮影されたものでは、横から、後ろから見た様子が不明である。位置情報はGoogleマップで把握することができるが、実際にどのような環境にあるのかが分かりづらい。撮影日は記載されているため、季節はわかるが、時間帯が不明である。資料に十分なメタデータが付与されていないと、検索性が低下する。
・管理方法の問題点
次に管理方法における問題点を指摘する。郡上白山文化デジタルアーカイブのページに一括でまとめて管理されているため、データを開かなければ、岐阜県・石川県・福井県のうち、いつ、どこで撮影されたものなのかが不明である。今後も記録データは増え続ける見込みだが、それに伴い、データを検索・活用する際の時間が増大することが懸念される。
② 新たな地域資源デジタルアーカイブの記録・管理手法の提案
・改善提案
上記の問題を解決するためには、多方向撮影や多視点撮影を行うことが重要である。これにより、詳細で正確な記録を作成できる。さらに、各画像や資料に詳細なメタデータを追加することが求められる。これによって、情報の検索性が向上し、データベースの分類やタグづけを行うことで、地域ごとの情報を簡単に参照できるようになる。また、撮影場所や日時の詳細な記録を含めることで、資料の文脈を明確にすることができる。これらの取り組みを通じて、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブは、情報の効率的な管理と利用を実現することが期待される。
・多方向撮影の重要性
多方向撮影は、地域資源のデジタルアーカイブにおいて非常に重要な手法である。特に、郡上白山文化遺産のような複雑な環境や建築物の詳細を正確に記録するためには、多方向からの視覚情報が不可欠である。多方向撮影の具体的な手法とその意義について述べる。
・多方向からの撮影手法
多方向撮影とは、対象物を異なる角度から撮影し、立体的かつ全方位的な情報を収集する手法である。この手法により、以下のような効果が得られる。
記録場所に入る前に、周囲8方向(北、東、南、西、北東、南東、南西、北西)を撮影することで、場所の全体像を把握する。これにより、対象物の周囲にある道路や建物との位置関係が明確になる。
正面だけでなく、周囲8方向からの呪法を得ることで、建物や環境の詳細がより分かりやすくなる。例えば、建物のデザインや材質、劣化状況などを詳細に記録できる。
撮影時にカメラの時間情報を利用することで、撮影日時とともに時間帯も記録する。これにより、同じ場所でも時間帯による影響(例えば、日照や影の変化)を把握することが可能となる。
・実際の撮影手順
・事前準備
撮影場所の地図を確認し、どの方向から撮影するかを計画する。特に、重要なランドマークや目印となる建物をリストアップする。
・周囲8方向の撮影
撮影場所に到着したら、まず周囲8方向を順番に撮影する。各方向の撮影時に、カメラの設定(解像度、露出、ホワイトバランスなど)を統一することが重要である。
・対象物の撮影
記録する対象物に接近し、再度周囲8方向を撮影する。対象物の細部がわかるように、適宜ズームやマクロ機能を活用する。
・時間情報の記録
撮影した画像には、必ず撮影日時と時間帯を記載する。これにより、後からデータを整理する際に時間的な変化を容易に追跡できる。
多方向撮影は、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおいて、対象物の立体的な理解と詳細な記録を可能にするための重油な手法である。この手法を活用することで、将来の研究や保存活動において価値あるデータを提供することができる。
・多視点撮影の重要性
文化遺産のデジタルアーカイブでは、多視点からの撮影がとても重要である。これにより、対象物の詳細な記録が可能になり、立体的な理解も深まる。単一の視点では見逃してしまう情報も広く記録でき、保存や普及の質を向上させることができる。
多視点から、さらに多角度からの撮影を行うと、対象物を立体的に記録し、3Dモデルとして再現することができる。利用者はそれをさまざまな角度から見ることができ、より詳細に観察できる。この方法は、文化遺産の詳細な調査や分析に非常に役立つ。特に、建物や彫刻、工芸品などの複雑な対象物に対して有効である。また、文化遺産の保存や修復の際にも、多角度からの撮影記録は重要である。元の状態を細かく記録することで、修復の際の貴重な参考資料となる。
・多視点撮影の方法
・静止画撮影
高解像度カメラを使用して、対象物をさまざまな角度から撮影する。撮影時には、三脚や回転台を使用してカメラの位置を固定し、一定の間隔で撮影を行う。
・ビデオ撮影
高解像度ビデオカメラを用いて、対象物を360度の視点から連続的に撮影する。ドローンを使用して空中からの撮影も行い、広範囲の記録を可能にする。ビデオデータは、視点の変化をリアルタイムで記録し、インタラクティブなコンテンツの作成に利用される。
・多視点撮影の活用と展望
多視点撮影は、さまざまな分野で使われていて、これからもっと進化することが期待されている。教育では、授業や研究で重要な情報源となる。実物を見なくても、詳しいデジタルデータを使って学ぶことができる。研究者たちは、3Dモデルを使って新しい発見をすることができる。
観光業では、多視点撮影は観光地の宣伝に使われる。バーチャルツアーやARにより、観光客の興味を惹いて、訪れるきっかけになる。SNSやネット広告でたくさんの人に宣伝できる。
文化遺産の保存や修理には、多視点撮影が欠かせない。細かいデータを残して、正確に修理することができ、文化遺産の長期保存に役立つ。
・場所ごとの管理方法
場所ごとの管理は、アーカイブないの方法を地域別に整理し、迅速にアクセスできるようにするための手法である。この方法により、特定の場所に関する情報をすぐに把握することが可能となる。
郡上白山文化遺産のデジタルアーカイブは、岐阜県、石川県、福井県などの地域ごとに分類する。この分類により、特定の地域に関連する情報を簡単に検索し閲覧することができる。
各地域内でさらに詳細なサブカテゴリを作成する。例えば、岐阜県内では郡上市、美濃市などの地町村単位で分類し、それぞれの文化遺産に関する情報を整理する。
アーカイブに地図を組み込み、各場所の情報を地図上で視覚的に確認できるようにする。これにより、ユーザーは地理的な位置関係を把握しやすくなる。
・日毎の管理方法
日毎の管理は、時間軸に沿って情報を整理し、季節や時間帯による変化を追跡するための手法である。この方法により、特定の時期における変化やイベントの影響を詳細に記録・分析することが可能となる。
全てのアーカイブデータに撮影日と撮影時間を記載する。これにより、同じ場所であっても異なる時期に撮影されたデータを区別できる。
一年間を四季に分け、それぞれの季節ごとにデータを整理する。例えば、春、夏、秋、冬ごとの風景の変化や文化行事の様子を記録する。
日毎の管理に加えて、撮影された時間帯(朝、昼、夕方、夜)も記録する。これにより、同じ日の異なる時間帯における環境や光の変化を比較することができる。
各データにタグをつけることで、特定の条件に基づいてデータを簡単に検索できるようにする。例えば、冬景色、紅葉、祭りなどでフィルタリングできるようにする。
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの効果的な管理は、場所ごとおよび日毎の管理方法に基づいて行うことが重要である。この手法により、地域資源の詳細な記録と簡単なアクセスが可能となり、将来的な研究や保存活動に貢献することができる。
(5) 新たな地域資源デジタルアーカイブの試行と考察・未来展望
① 新たな地域資源デジタルアーカイブの試行
デジタルアーカイブの運営と管理において、試行は重要なプロセスである。これにより、新しい技術や方法が実際に役立つかどうかを確かめることができる。以下に、試行の目的とその重要性について述べる。
新しい技術や方法を導入する際、理論だけではうまくいくかどうかわからない。実際に使ってみて、技術や方法が役立つかどうかを評価することができる。試してみることで、実際の運用で出てくる問題点を事前に見つけることができる。これにより、本格的に導入する前に問題を解決し、スムーズに運用できるようになる。試行により、技術や方法を最適化し、運用環境に合わせた調整を行うことができ、効率的で効果的な運用が可能になる。
このように、新しい技術や方法を試してみることは、デジタルアーカイブの成功にとって非常に重要である。試行を通じて得られる実践的な評価や問題点の発見、そして最適化と調整が今後の運用をスムーズにする。
・試行計画と実施
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける試行の計画と実施方法について、具体的な手順を示す。
試行の目的と目標を明確にし、試行計画を立てる。計画には、試行の範囲、期間、使用する技術や手法、評価基準などを含める。
試行で使用する技術や手法を選定する。例えば、高解像度の写真撮影や、メタデータの作成などが含まれる。選定した技術や手法について、事前に十分な練習をし、試行に備える。
試行中に収集したデータを詳細に記録する。これには、技術や手法の使用状況、発生した問題点、解決策などが含まれる。データは、のちの評価と分析のために整理して保存する。
試行終了後、集めたデータを使って評価を行う。まず、評価基準に従って新しい技術や方法がどれだけ役立ったかを分析する。データを見ながら、どこを改善すればもっと良くなるかを考える。見つけた改善点に対して、具体的な改善策を実行する。このプロセスを通じて、新しい技術や方法をさらに改善し、次の運用に生かしていく。
・試行の具体例
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける試行の具体例を以下に述べる。
新たな地域資源デジタルアーカイブの記録・管理手法を用いて、撮影を行った。撮影場所は、白山比咩神社、白山名敵神社、平泉寺白山神社、白山中居神社、石徹白地域、白川郷。多方向撮影、多視点撮影を行った。データは、岐阜県、石川県、福井県の地域ごとに分類し、管理した。また、全てのデジタルアーカイブデータに撮影日と撮影時間を記載した。
・白山中居神社
白山信仰と共に栄えた白山麓の集落、石徹白にある白山中居神社。神が座す神域である白山と、俗世である人の住む里の境界にあるこの地には、神様が中居りされるという。神社の境内には、大日孁貴(おおひるめのむち)はじめ諸々の神様が祀られ、縄文の古より山を降りてきた神が依り代とした磐境(磐境)に、いにしえからの信仰の姿が感じられる。
図16.石徹白上在所にある注連張
石徹白(いとしろ)は白山周辺に広がる白山国立公園の南山麓に位置する小さな集落である。石徹白は平安時代から鎌倉時代にかけての白山信仰が盛んな時代には「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど修行者の出入りで栄えた土地であり、近世(明治)まで神に仕える人が住む村としてどの藩にも属さず、年貢免除・名字帯刀が許されたところである。ゆえに「中世的支配体制」が明治になるまで維持され独自の文化が形成された。
最奥の「上在所集落」は夏は修験者や白山参詣の道案内と宿坊を営み、冬は「御師」として各地に信仰を広め御礼を配ることを生業とする人々の住むところであった。
・白川郷
白川郷とは岐阜県の庄川流域の呼称で、現在では主に白川村のことを指す。特に白川村の荻町(おぎまち)地区は合掌造りの集落として知られ、1995年には五箇山と共に世界文化遺産に登録された。その独特な建物や景観だけでなく地域に根ざした文化なども併せて世界遺産として評価されたと言われており、特に白川郷の集落では今も実際の生活の場として使われているところに、他の集落群との違いがある。
・試行からの学びと今後の展望
試行から得られた学びと、今後の展望について述べる。試行を通じて、新しい技術や方法の改善点が明確になった。以下に、試行で学んだことと今後の計画について述べる。
多方向から撮影することで、場所全体の様子を把握することができた。これにより、対象物とその周囲の道路や建物との位置関係がわかるようになった。
多視点で撮影することで、対象物の詳細な記録ができ、立体的に理解することが可能になった。しかし、複雑な場所では多視点からの撮影が難しい建物もあった。
場所ごとや日毎の管理により、地域資源の詳細な記録と簡単なアクセスが可能になった。
試行で見つかった改善点をもとに、技術や方法をさらに改善していく。これにより、本格的に導入する際のリスクを減らし、スムーズな運用が可能になる。試行で得られた成功事例を参考にして、新しい技術や方法の導入を進めていく。これにより、デジタルアーカイブの品質と効率が向上する。
試行結果を使って、他の地域やプロジェクトにも技術を広める。これにより、地域文化の保存と普及がさらに広がることが期待される。
試行は、デジタルアーカイブの運営において重要なプロセスであり、継続的な改善と最適化を支える基盤となる。郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの発展には、試行を通じた実践的な評価と改善が不可欠である。
② 未来展望
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの進化は、地域文化の保存と普及において新しい可能性をもたらす。未来に向けた展望として、次のポイントがある。
・最新技術の活用
AI技術を使って、デジタルデータを自動で分類したり、検索機能を強化したりする。例えば、AIが画像や映像の内容を自動でタグ付けし、利用者が必要な情報を素早く見つけられるようにする。ARとVR技術を使い、文化遺産をバーチャル体験できるようにする。これにより、現地に行けない人でも郡上白山文化遺産を体験できるようになる。
。グローバルな発進と連携
デジタルアーカイブの内容を多言語で提供し、国際的なアクセスを促進する。これにより、海外の研究者や観光客も郡上白山文化遺産にアクセスしやすくなる。海外の学術機関や文化保存団体と連携し、一緒に研究を進める。これにより、郡上白山文化遺産の価値が世界中で認識されるようになる。
・持続可能な運営
デジタルアーカイブの二次利用を通じて収益を上げ、その収益をアーカイブの運営に再投資する。例えば、教育機関や観光業と提携して、コンテンツのライセンス販売を行うことができる。また、地方自治体、企業、非営利団体との協力により、デジタルアーカイブの運営資金や技術支援を確保する。
・地域社会との協働
デジタルアーカイブの成功には、地域社会との協力がとても大切である。地域の人々や地元の団体と一緒にデジタルアーカイブを運営することで、地域全体で文化遺産を守る意識を高めることができる。
地域住民を対象にしたワークショップを開き、デジタルアーカイブの大切さや使い方について学ぶ機会を提供する。住民の意見を取り入れることで、アーカイブの内容や質を向上させる。
デジタルアーカイブの運営やデータの収集に参加できるボランティアプログラムを実施し、地域の人々が積極的に参加できるようにする。
地元の小中学校や高校と協力し、デジタルアーカイブを授業に取り入れる。これにより、学生が地域の歴史や文化を学び、文化遺産の大切さを理解することができる。
・未来のビジョン
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブが、地域文化の大切な場所になる。地域の歴史や伝統を保存し、次の世代に伝えることができる。地域の人々や観光客がデジタルアーカイブを通じて郡上白山文化遺産に触れ、学び、共有できる場所を提供する。
新しいデジタル技術を常に取り入れて、デジタルアーカイブの内容と機能を向上していく。これにより、利用者にとって魅力的で価値のあるコンテンツを提供し続ける。また、長く安定して運営できる仕組みを作り、持続可能な運営を目指す。
郡上白山文化デジタルアーカイブが、地域と世界を繋ぐ役割を果たす。地域の文化遺産を世界に発信し、国際的な交流を促進する。海外の研究者や観光客が郡上白山文化遺産にアクセスし、地域の魅力を理解することで、世界との文化交流が進む。
このように、郡上白山文化遺産デジタルアーカイブは、未来に向けたビジョンを実現することで、地域の誇りと文化遺産を次の世代に伝え、地域社会の発展に貢献することが期待される。
3.結果と考察
(1)地域資源の詳細な記録方法の確立
多方向撮影と多視覚撮影を利用して、郡上白山文化遺産の詳細なデジタル記録を行った。多方向撮影と多視覚情報の収集の導入により、従来の記録方法と比べて詳細で正確なデータを記録することができるようになった。
(2)効率的な管理システムの構築
地域ごとの分類と日毎の管理方法を導入し、効率的なデータ管理システムを開発した。特定の地域や時期に関連するデータを迅速に検索・アクセスできるようになり、管理効率が向上する。
(3)世界遺産への登録支援
世界遺産登録を支援するための詳細なデジタルアーカイブを構築し、必要な証拠資料や情報を整理・提供する方法を試行した。郡上白山文化遺産デジタルアーカイブのデータが、世界遺産登録プロセスにおいて重要な役割を果たすことが期待される。
今回の研究を通じて、郡上白山文化遺産の詳細な記録方法、効率的な管理システム、そして世界遺産登録支援のためのデジタルアーカイブの構築に成功した。これにより、郡上白山文化遺産の保存と活用が進み、将来の研究や教育活動、観光業においても価値ある資料を提供する基盤が整ったと評価できる。また、世界遺産登録への支援を通じて、郡上白山文化遺産の国際的な認知度と保護を一層強化することが期待される。
さらに、今後の管理の一環として、クラウドベースの管理方法の導入を検討することを強く推奨する。クラウドベースのシステムを使うと以下のような利点がある。
クラウドベースのシステムは、必要に応じてデータの保存容量や処理能力を簡単に増やすことができる。これにより、季節ごとにデータ量が増減する場合でも、問題なく対応することができる。
クラウドサービスは、大きな初期投資をしなくても使い始めることができる。使用した分だけ料金を払うため、予算に応じた運用が可能である。例えば、AWS(Amazon Web Service)のS3(Simple Storage Service)やGoogle CloudのGoogle Storageは1GBあたり約2.5円から利用できる。自分でサーバーを管理するコストや手間も省けるため、運用費用を節約できる。
クラウドサービスはデータの安全性が高く、データがなくなるリスクを最小限に抑えられる。定期的なバックアップや複数のデータセンターに保存されるため、災害時にもデータを簡単に復旧できる。また、24時間365日の監視体制が整っており、システムが常に安定して動く。
インターネットを使ってどこからでもデータにアクセスできるため、場所やデバイスに関係なくデータを利用できる。研究者や教育者、観光客など、いろいろな人がデータに簡単にアクセスできる。アクセス権限の管理も簡単で、セキュリティを保ちながら必要なデータを提供できる。
・セキュリティとデータ保護
クラウドベースのデータ管理で、セキュリティとデータ保護はとても大切である。データの安全性を守るために、以下のような対策を取る必要がある。
データを保存するときや送るときに、暗号化を行う。これにより、不正なアクセスやデータ漏えいを防ぐ。クラウドサービスの提供者が提供する暗号化サービスを使って、データの秘密を守る。
誰がデータにアクセスできるかを厳しく管理する。特定のユーザーやグループにだけアクセスを許可し、不正なアクセスを防ぐ。多要素認証(MFA)を導入し、セキュリティを強化する。パスワードに加えて例えば、スマホに送られるコードなど、別の認証方法を使うことで、セキュリティを高めることができる。
クラウド環境を24時間365日監視し、不審な活動を素早く見つけるようにする。セキュリティ問題が発生したときにすぐに対応できる体制を整える。
誰がいつデータにアクセスしたかなどの記録(ログ)を定期的にチェックして、セキュリティ状況を確認する。
これらの対策を実施することで、クラウドベースのデータ管理が安全で信頼できるものになる。
・メンテナンス
クラウドベースのシステムは、開発後も継続的なメンテナンスと管理が必要である。
新しい機能を開発したときは、それがきちんと働くかどうか徹底的にテストする。テスト専用の環境を作り、バグや問題点を事前に見つけて修正する。ユーザーからの意見を集めて、システムをより良くする。
開発した新機能を実際に使う環境にリリースする。リリースの手順を自動化することで、新しい機能を素早く確実に提供できる。リリース後もシステムの動きを監視し、問題が起きたらすぐに対応する。
定期的にシステムのメンテナンスを行い、セキュリティアップデートやバグ修正を適用する。これにより、システムの安定性と安全性を保つ。利用者のニーズや技術の進化に応じて、定期的にシステムを更新する。
システムが故障した時のために、リカバリプランを準備しておく。バックアップデータを使って、迅速に復旧できるようにする。障害発生時の対応手順を明確にし、関係者がすぐに対応できるようにする。
クラウドベースのデータ管理は、郡上白山文化遺産デジタルーアーカイブの運営において多くの利点がある。適切な対策を取りながら、クラウド技術を最大限に活用することで、地域文化の保存と普及を効果的にサポートすることができる。
・投資価値 財務大臣向けサマリー
郡上白山文化デジタルアーカイブは、地域の歴史と文化を保存し、デジタル化を通じて広く普及させること、白山文化の世界遺産への登録支援を目的としています。本プロジェクトは、教育、研究、観光の各分野で利用され、地域振興と経済効果をもたらすことを目指しています。
文化遺産のデジタル化により、長期的な保存と広範なアクセスが可能になる。地域住民や教育機関、研究者が活用できる豊富な資料を提供します。
デジタルアーカイブを活用した観光プロモーションにより、国内外からの観光客を誘致します。バーチャルツアーやAR体験を提供し、地域の魅力を発信します。
地域の歴史や文化を学ぶための教材として、学校や大学で活用されます。研究者による詳細な分析や国際共同研究の基盤となります。
・プロジェクトのコスト概要(年間)
・クラウドストレージ
¥1,200,000:データの保存と管理にかかる費用(1TBあたり約¥10,000/月)
・ソフトウェア開発
¥10,000,000:インターフェース開発、機能追加、テスト
・技術者の人件費
¥30,000,000:フルスタックエンジニア、クラウドアーキテクト、データベース管理者、UI/UXデザイナー
・運用費
¥5,000,000:システムの管理、セキュリティパッチ、システムアップデート
・プロモーション費用
¥3,000,000:観光プロモーション、広告、イベント開催
・教育・ワークショップ
¥2,000,000:地域住民や学校向けの教育プログラム、ワークショップ
合計:¥51,200,000
・収益予測と経済効果
・観光収益
バーチャルツアーやAR体験を通じて観光客を増加させ、年間10,000人の増加を見込む。一人当たりの観光消費を¥20,000とすると、年間収益は¥200,000,000。
・教育プログラム
学校や大学での利用により、教育機関からの利用料を年間¥5,000,000と見積もる。
・研究プロジェクト
国内外の研究プロジェクトへの参加費用やデータ利用料を年間¥10,000,000と見込む。
・その他の収益
デジタルアーカイブのコンテンツライセンス販売や企業スポンサーシップによる収益を年間¥10,000,000と見積もる。
合計収益予測:¥225,000,000
・投資総額:¥512,000,000
・年間収益予測:¥225,000,000
初年度の収益が予測通りに達成されれば、初期投資は1年以内に回収可能です。デジタルアーカイブの持続的な運営と更新により、長期的な収益が期待できます。観光収益の増加や国際的な研究プロジェクトへの参加により、地域経済全体に対する影響が広まることが見込まれます。
地域文化の保存と普及を通じて、次世代にわたる文化遺産の継承が可能となります。地域住民や学生の教育資源として活用され、地域全体の文化的価値が向上します。
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブは、地域文化の保存と普及、観光振興、教育・研究の促進において多大な効果を発揮するプロジェクトです。初期投資は高額ではあるものの、短期的な投資回収が可能であり、長期的には持続可能な利益をもたらすことが期待されます。地域経済の活性化と文化的価値の向上に貢献するため、是非ともこのプロジェクトへの投資をご検討ください。
第3章 新たな地域資源デジタルアーカイブの記録管理手法
① 新たな地域資源デジタルアーカイブの記録手法
はじめに多方向からの撮影により、どのような場所に位置するのか明らかにするため、Google mapだけではなく画像データを載せる。記録する場所に入る前に、周囲8方向を撮影し、道路や周辺の建物も記録する。また、記録場所の中に入った時に再度周囲8方向を撮影することにより、どのような場所なのか、どこに何が所在するのか、位置関係も明らかにする。
次に多視覚での撮影により、正面から見た情報だけでなく、周囲8方向から見た情報を得ることができる。どのような建物なのかがわかりやすくなる。
また、カメラの時間情報を利用し、記載することで撮影日だけでなく、撮影した時間帯も明らかとなる。
② 管理方法
管理方法については、岐阜県・石川県・福井県で分けることにより、どこに何が所在しているのかすぐにわかる。
日毎に管理すると、例えば同じ場所であっても、冬に撮影したものが必要な時に、検索し活用することが容易となる。
第4章 新たな地域資源デジタルアーカイブの試行
既に記録されている地域資源を再度活用しやすい形で記録・管理する。世界遺産登録への整備に向けて今後の記録・管理方法を試行する。
長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
伝承によれば、養老元年(717年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称したという。
天長5年(828年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現白山比咩神社)、越前国の平泉寺白山神社である。平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。文永8年(1271年)には火災により半数の建物を焼失。正応3年(1290年)には本殿が再建された。
宝徳2年(1450年)には比叡山延暦寺西塔院南尾一切経蔵院の末寺となる。
江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きる。日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。
慶応4年(明治元年、1868年)、神仏分離令により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。明治32年(1899年)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。
長滝白山神社、長瀧寺、阿名院が共同で設置した宝物殿(瀧宝殿)は、2018年(平成30年)に郡上市に寄附され、郡上市の施設白山瀧宝殿となっている。
参道入口
いにしえの参詣者たちも通った白山中宮長瀧寺の入口
「天台宗 白山長瀧寺」「表本宮 白山神社」と記された石柱が並ぶ姿に、神仏習合の名残が感じられる。
表参道
神社境内へと続く参道の両側には、昔は多くの僧坊が建ち並んでいた。
宿坊・坊中
かつての宿坊であった経聞坊、宝幢坊の建物が当時の様子を今に伝えている。
金剛童子堂
長滝を起点とする行者道から白山を目指す人たちが入山のための儀式を行った場所。金剛童子堂の前には、峯入り儀式のための護摩壇が残されている。
入口
白山瀧宝殿
長滝白山神社・白山長瀧寺・阿名院の三社寺の文化財を納めた収蔵施設である。白山長瀧寺所蔵の国の重要文化財である「釈迦三尊像と四天王像」などが拝観できる。
石灯篭
境内の中央に建つ石塔籠は、鎌倉時代の正安4年(1302)の寄進銘が刻まれており、国の重要文化財に指定されている。
境内
牛王石
長滝白山神社境内にあるこの石は白山中宮長瀧寺ができる前からあるとされ、石徹白の白山中居神社の磐境同様に、太古の自然信仰に基づく紙が下りる場所であったともいわれている。
参集殿
境内周囲
拝殿周囲
拝殿
現在の拝殿は、明治32年の大火で本殿と共に焼失したものを大正年間に再建したものである。ここでは毎年1月6日に「六日祭」が行われ、「長滝の延年」の舞と、拝殿天井に吊られた花笠の花を奪い合う「花奪い」が行われる。
本殿
長滝白山神社は明治初年の神仏分離までは白山中宮長瀧寺として長瀧寺と一体で東海地方の白山信仰の拠点として栄えた。本殿の三つの社は、中央に白山御前峰、東に別山、西に大汝峰(越南智)のご祭神が祀られている。
白山長瀧寺大講堂
天台宗の寺院、白山長瀧寺の大講堂。かつては長滝の僧侶たちが集まって法会を開き、仏教経典を学んだと伝わる。明治32年の大火で焼失する前は、本尊として大日・釈迦・阿弥陀の3如来と四天王などを祀り、神社拝殿とは渡り廊下で繋がっていた。
宝篋印塔
白山千ヶ蛇池
三重塔跡・開山堂跡
白山瀧宝殿の木造釈迦三尊像が安置されていたとされる三重塔が建っていた場所。塔は中世の大地震や大風により倒壊し失われたと伝えられる。また、塔に隣接して白山を開山した泰澄大師を祀る開山堂があったと伝えられる。
常行堂跡
かつて長滝の僧侶たちが修行を行った建物として、常行堂と法華堂の二つの建物が建っていたと言われる。
行者の小径
入峯堂跡
白山で修行する修験者たちが、山に入るために7日間の修行を行ったとされるお堂があった場所。山伏たちは、ここから山中の修行場を巡り白山へ登った。
経蔵(薬師堂)
古い絵図では薬師堂として描かれ、江戸時代には宋版一切経の経蔵ともなっていた場所。明治時代の大火で焼失した後、薬師如来像を祀る薬師堂として再建された。
弁財天
白山中居神社
白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町石徹白に鎮座する神社である。伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されている。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日であった。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされた。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になった。
駐車場
大鳥居周辺
神仏習合の面影を残す両部鳥居。
鳥居から宮川橋まで
宮川橋(布橋)
鳥居と境内の間を流れる宮川は、世俗の世界と神の世界の境界と言われていた。
境内
大宮殿
西相殿
東相殿
本殿
昔、山中の古喜美(こきび)、名を武比古(たけひこ)が、正月15日に、夢のお告げを授かりご本殿を建てたのが始まりと伝えられている。
時恰も、景行天皇の12年壬午年(83年)6月15日にして、吉備武彦命国家鎮護のため伊邪那岐の大神をこの地に祀られた文献の併設に始まる。
その後、元正天皇の養老年中、国の大徳泰澄白山を開かれる時、社殿を修覆され、社域を拡張されましたが、神仏混交の元ともなった。本殿の彫刻は江戸時代の作で県重要文化財に指定されている。
御手洗大磐・夫婦磐
長龍泉(長走滝)から短龍泉(イカダバの滝)までの渓流を宮川といい、その中ほどにある御手洗大磐には、水神、瀬織津媛が祀られていて訪れる人達の心をきよめ、ひでりを救ってくださると伝えられている。
ひと昔前までは、宮川は姫神が鎮座される渓流として白山へ登る人や、神社へお詣りする人は、橋を渡るときには川へ賽銭をささげて渡っていたそう。
浄安杉
白山中居神社の裏山にある大きなスギで、地上1.8mのところで幹が2幹に分かれた姿が特徴である。
注連張
上在所の入り口、神様の領域といった注連縄の印がある。上在所は中居神社の社域となり、そこで生活する人たち(社家・社人)を清めるためのしめ縄で、注連張を通ることで清め祓われるということである。
石徹白は雪の多い土地であり、普通の神社は鳥居を設けるが、鳥居の代わりに注連縄を設けたという言われもある。
白山比咩神社
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社である。白山比咩神社は、全国三千余社の白山神社の総本宮であり、加賀の国の一ノ宮として篤い崇敬を受け、「白山さん」と呼ばれて親しまれている。
石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山は、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきた。ふもとに暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって、白山は聖域であり、生活に不可欠な“命の水”を供給してくれる神々の座であった。
やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれた。加賀(石川県)の登拝の拠点として御鎮座二千百年を越える白山比咩神社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮である。
表参道駐車場
一の鳥居
神域への玄関にあたる鳥居。曲線を用い、装飾を施した明神型の大鳥居は高さが6.4mもあり、石造りでは日本有数の大きさである。この鳥居は、昭和11年(1936)に建てられたものですが、白山比咩神社には長らく鳥居がなく、白山七不思議のひとつといわれていた。一の鳥居の奥に、杉や欅(けやき)、楓(かえで)などの樹木に覆われたおよそ250mの表参道が続く。
表参道
琵琶滝
表参道の中ほどにある滝。清冽な谷水を手取川に注いでいる。
御神木(老杉)
表参道手水舎前にあり、注連縄が掛けられている。根元の周り約12m、胸高幹周り約10m、樹高約42mの巨木で、樹齢はおよそ800年といわれている。(白山市指定天然記念物)
手水舎
清冽な水があふれる手水舎。建物の柱には、神社のある旧鶴来地区ゆかりの木彫りの獅子がある。表参道、北参道、南参道の3カ所にそれぞれ趣の異なる手水舎がある。
・表参道
・南参道(亀岩)
・北参道
二の鳥居
三の鳥居
大ケヤキ
境内神門前にあり、堂々とした姿が目を引く。胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年と伝わっている。(白山市指定天然記念物)
神門
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居をくぐった先にあり、神門越しに望む拝殿は風情が感じられる。
神馬舎
白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる神馬の姿を、白山麓の大欅を素材に奉製。絢爛豪華な装飾が見事である。
荒御前神社
神門の傍らに鎮座する境内摂社。荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られている。荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場する。
1
白山奥宮遥拝所
離れたところから白山山頂の奥宮を拝む遥拝所。神門をくぐった右側にあり、大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩が祀られている。毎月1日と15日の月次祭(つきなみさい)では、神職による遥拝が行われている。
外拝殿
切妻造り、銅板葺き、檜造りの優美な姿の外拝殿。もともとは、大正9年(1920)に建てられた旧拝殿であったが、昭和57年(1982)の増改築で外拝殿になった。その後ろに、直会殿(なおらいでん)、拝殿、幣殿(へいでん)、本殿までが一直線に並ぶ。
御神木(三本杉)
昭和58年(1983)の5月21日に石川県で開催された「第30回全国植樹祭」において、昭和天皇が境内の杉の種をお手まきされた。この杉は、その時の苗木を御神木として植樹したものである。
遊神殿
平成20年(2008)に御鎮座二千百年を迎えたことを記念して、平成19年に新築された。参拝者の受付、控室、休憩所として利用されている。
社務所・授与所
参集殿
南参道
禊社・禊場
体を清め、罪やけがれを洗い流す場。平成18年に造られた禊場には、白山の伏流水を利用した滝もあり、荘厳な雰囲気が漂う。
吉住社
禊場の横に鎮座する境内末社。住吉社は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から戻って禊を行った際に生まれた底筒男尊(そこつつのおのみこと)、中筒男尊(なかつつのおのみこと)、表筒男尊(うわつつのおのみこと)の三柱をご祭神とし、禊祓いの神として崇敬されている。
南参道駐車場から三宮交差点まで
北参道駐車場
白山比咩神社宝物館
古来朝廷を初めあまねく上下の信仰崇拝の対象となってきた名社であり、宝物・什器の珍重すべきものが多くある。多数の宝物は「国宝」または「重要文化財」等に指定され、日本の歴史と伝統を物語る貴重な文化財として保護されている。
車祓所
白水霊水
延命長寿の霊水として名高い白山水系の伏流水。北参道手水舎横に湧き出ており、遠方から水を汲みに来られる。
白光苑
昭和33年(1958)に境内の北東に造られた自然にあふれた庭園。鬱蒼(うっそう)とした木々が一帯を覆い、静寂な雰囲気が漂う。
芭蕉句碑
元禄2年(1689)に、奥の細道の途次の松尾芭蕉が、白山の姿に感銘を受けて詠んだ句が刻まれている。『風かをる 越(こ)しの白嶺(しらね)を 国の華 翁』
平泉寺白山神社
平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。養老元年、越前の僧泰澄によって開かれたとされる。平安時代後半には天台宗比叡山延暦寺の末寺となった。戦国時代には四十八社、三十六堂と、六千の坊院が建ち並び、自領は九十石・九万貫、僧兵は八千を数えたと伝えられる。天正2年(1574)に一向一揆の攻撃を受けて全山が焼失した。後に再興されたが、境内はもとの一割ほどにすぎなかった。明治始めには神仏分離令に基づき寺号を廃して白山神社と改めた。平成元年(1989)から始まった発掘調査では、白山神社境内から数百メートル離れた山林や田畑の下から、なだらかな斜面を階段上に造成した坊院跡(僧侶の住居跡)や、縦横に張り巡らされた石畳道が発見され、中世「宗教都市」としての姿が明らかになってきた。
下馬の大橋
菩提林の入り口に橋がある。この橋は下馬の大橋と呼ばれています。人々はここで馬を下りて、川で汗をぬぐい、身を清め、ここから先は歩いてお参りした。川でみそぎをしている姿が古い書物に描かれている。
菩提林
修行の場へ至る参道入り口から続く林は菩提林と呼ばれてきた。菩提とは、煩悩を断ち切り悟りの境地へ至ることを意味する。杉の大木だけではなく、高山にしかないブナの大木や珍しい沙羅やヤマナシの老木もある。千年の歴史を感じさせる厳粛な雰囲気である。
旧参道
菩提林に700メートル続く石畳の参道は、千年前から現存する道路である。石畳に使われている石の裏には法華経の文字が書かれており、僧達が経文を唱えながら女神川(おながみがわ)から手渡しで運んで石畳を作ったと言われている。石畳の道はかつてもっと奥まで続き、西念寺の横を通り坊地の池の奥あたりまで続いていた。石畳は、1986年(昭和61年)に日本の道100選に指定された。
牛岩・馬岩
その昔、昼でも暗い菩提林の中を参拝者が進むと、大きな牛と馬が道いっぱいに横たわっていて遮っていた。たいていの人は逃げ帰るが、ある男が毎晩牛と馬を飛び越えてお参りを続けた。夜が明けると牛と馬の姿はなく、道の両側に二つの大岩になっていたという言われのある岩である。
鳥吠小路
白山平泉寺に身を寄せた源義経一行に対し、当時の長吏が「明朝、朝一番に鳥が鳴いたら門が開く(ので早く出立しなさい)」と伝え、一行を逃したという小道。
結神社
この中には二つの大きな石が祀られている。二つ同時に天から降ってきたものと伝えられ、縁結びの神様とも言われている。
常夜灯
昔は毎晩あかりが灯された。村の若者が「良いお嫁さんをもらえるように」と願いを掛けて石をひろい常夜燈の傘の上に向かって投げたと言う。傘の上に石がのると願いが叶うそと言う。
泰澄大師廟
平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師の供養塔。室町時代に作られたもので、高さは1メートル47センチあり、その時代の供養塔としてはたいへん大きなものであった。泰澄が平泉寺を開き、修行の日々を過ごしたので建てられたもの。泰澄大師の墓は越前町にある大谷寺(おおたんじ)にある。供養塔の前にある石は、「弁慶の足跡」と呼ばれている。塔を背にして立つと足が速くなると言われている。しかし、塔の方に向いて立つと足が遅くなるとも言われているので注意が必要である。
顕海寺
1574年(天正2年)一向一揆により全山焼失したが、その難を逃れた賢聖院(げんじょういん)の顕海僧正(けんかいそうじょう)は9年後二人の弟子と共に平泉寺を再興した。後に顕海は玄成院(賢聖院の漢字表記が変わる)を弟子の専海に譲り、自ら隠居寺にした寺が顕海寺である。
駐車場から精進坂まで
精進坂
昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていた。菩提を求めて身を清め慎むということで「精進坂」と呼ばれてきた。
一の鳥居
一の鳥居から二の鳥居まで
白山神社社務所
一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海僧正が9年後に戻ってきて住まいとしたのがこの玄成院。現在は社務所でお札やお守り、朱印を受けられる。
国名勝 旧玄成院庭園
500年ほど前、室町幕府の将軍を補佐した管領 細川高国(ほそかわたかくに)による作庭と伝えられ、昭和5年(1930)旧文部省により国の名勝の指定を受けている。社務所横の入り口から庭園に入ることができる。入場料50円。
飼葉料
桃山時代、拝殿の内に掲げられている絵馬から夜中に神馬が抜け出して村の田畑の作物を喰い荒したので、この場所を馬の飼葉料にしたと伝えられている。現在も草を刈り残している。
御手洗池
平泉寺の名称由来の池。泰澄が清水の湧く地に向かい祈っていると、一人の女神が現れ「私の本当の姿は白山の頂上にある。早く登ってきなさい」と告げ、泰澄は女神の導きにより白山の頂上を目指した。この池は昔「平清水」(ひらしみず)と呼ばれ、平泉寺の呼称のもととなっている。女神の立たれた岩は池の中央にあり「影向岩(ようごいわ)」と呼ばれている。
御神木
三又に分かれた杉は泰澄のお手植えと伝えられている。幹が途中から3つに分かれ、白山三山(御前峰・大汝峰・別山)を象徴していると言われている。
八幡神社
二の鳥居
この鳥居は両部鳥居で、神仏習合の形式である。鳥居は一向一揆で消滅したが、1778年(安永6年)に再建された。中央の額には「白山三所大権現」と書かれており、中御門天皇の皇子・天台座主・公遵法親王の筆と伝えられている。鳥居の中央に屋根がついているのはこの額を護るためである。額内の三所とは白山の御前峰、大汝峰、別山 を指している。二の鳥居をくぐると白山神社拝殿が見える。
かおり風景百選
正面の額に「中宮平泉寺」とある拝殿は、江戸時代に作られた寄棟檜皮葺(よせむねひわだぶき)で平安時代の風情を残している。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、幅が46間(およそ83メートル)あったようで京都の三十三間堂より大きな建物であった。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っている。
拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市の文化財に指定されている。その中でももっとも古い絵馬は1598年(慶長3年)のものである。
拝殿から本社まで
本社
白山の主峰である御前峰の神・伊弉諾尊(いざなみのみこと)をお祀りしている。本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主・松平重富により再建された。総欅(そうひのき)の入母屋造榑葺(いりおもやづくりくれぶき)。外観は白木造りですが、内部は美しく彩られている。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山を構成している3つの山と神々をあらわしている。今は失われているが、中世から近世にはさらに金釼社(かなつるぎしゃ)と加宝社(かほうしゃ)が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であった。
本社の内扉は33年に一度開けられる(御開帳)。次の御開帳は2025年(令和7年)5月である。
昇り龍・降り龍(くだりりゅう)
唐破風(からはふ)を支える柱に見事な昇り龍と降り龍の彫刻が施されている。
別山社
本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀っている。天忍穂耳尊は、天照大神(あまてらすおおかみ)の子、天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父にあたる。
越南知社(おおなむちしゃ)
本殿に向かって左の社。大己貴尊(おおなむちのみこと)を祀っています。大己貴尊は大国主命(おおくにぬしのみこと)とも言う。
本社から三の宮まで
開山社
納経所跡
平安の頃より六十六部といって滅罪の経典である法華経を写経し、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼した。とくに江戸時代には盛んに行われ、越前での納経所は当社だけである。境内にある結神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が現存している。
楠木正成の供養塔
かつてはここに三之宮の拝殿があった。楠木正成の甥の恵秀律師(えりゅうりっし)がこの拝殿でお勤めをしていると楠木正成が鎧甲の武者姿で目の前に現れたので、恵秀律師が不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川の合戦で戦死していたことを知る。その後恵秀律師は供養の石塔を建てた。1336年(延元元年)建立。
1574年(天正2年)の一向一揆の時に拝殿は焼失し、この石塔も一部失われたが、1668年(寛文8年)に福井藩主松平光通の奉納により補修して周囲に玉垣をもうけた。
三の宮
祀られているのは、栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)で安産の神様として知られている。参拝するとお産が軽くなるといういわれがあり、お参りの帰りに社務所で腹帯を求められる。
白山禅定道
三之宮の裏に泰澄大師が登ったとされる白山への登山道がある。この道を白山禅定道、または越前禅定道と呼ぶ。1996年(平成8年)に歴史の道100選に選定された。
謀反岩(むほんいわ)
16世紀中ごろ、大石垣を築くため、弟・玉泉坊が持つ大石に対抗し兄・宝光院がこの場所の岩を掘り出そうとした。朝倉義景が巨石を運び合う争いを収めたが、岩を運べなかった兄・宝光院がこの大岩の前で弟・玉泉坊を滅ぼす方法を企んだと伝えられている。
南谷発掘現場(みなみだにはっくつげんば)
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失してから、多くの建物跡が土に埋もれてしまった。勝山市では平成元年から平泉寺の発掘調査を行い、これらの調査によって当時の生活様式や屋敷の大きさ、数などが明らかになってきた。昔の平泉寺がいかに栄えていたか発掘の成果については「歴史探遊館まほろば」に詳細を展示している。
南谷坊院跡
南谷の薬医門 出土した礎石と石垣をそのまま利用して坊院の門と土塀を復元した。
中世の石畳
山を切り開き、町並みを安定させるために石が用いられていた。坊院跡には中世最大規模の石畳が張り巡らされている。石垣には、石を割る技術「矢穴技法」の跡がある。
若宮神社・大杉
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失した際に残ったという大杉のひとつ。
南谷発掘地から精進坂下まで
大地蔵跡
南大門跡
歴史探遊館まほろば
石徹白地区
上在所コミュニティー
上在所の集会所。5月から10月までの期間、毎週日曜日は青空市と喫茶店が開設されている。青空市では山菜や地元の採れたて新鮮野菜を販売している。
御輿宿(杜)
石徹白清住邸
白山信仰の色濃く残る家で御神前の間と御霊(みたま)の間が別々に作られている。御神前の間には天照大神と中居神社氏神様が、御霊の間には先祖が祀られている。
明治29年(1890年)に建てられ、築後119年が経過している。
石徹白大師堂
明治初年の神仏分離の際、白山中居神社などの仏像や仏具を祀るために建てられた。
奥州藤原秀衡の寄進と伝えられる「銅造虚空蔵菩薩坐像」は県下唯一の傑作といわれ、昭和43年に国の重要文化財に指定されている。
石徹白郵便局
威徳寺
石徹白農村センター
石徹白住民の集会場所。葬祭等にも利用されている。
JA-SS JAめぐみの石徹白SS
郡上市立石徹白小学校
石徹白小学校は全校児童12名、職員8名の小さな小学校。
一人一人の児童を大切にした、きめ細やかな教育が行われている。運動会、文化祭、スキー大会などは、地区の人々の協力のもと行われており地区全体で子供たちを育てていこうという暖かい小学校である。なお同じ敷地に石徹白保育園もある。
郡上市役所 白鳥高齢者保険福祉支援センター
高齢者の憩いの場であり、地域医療の場として利用されている。毎週月曜日午後に医師の来診がある。
城山跡
中世(16世紀末頃)の武将、児河合(こかわい)は初代石徹白城主であり神主であった。その石徹白城の城郭跡。
白川郷
白川郷・五箇山の合掌造り集落は、飛越地方の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。日本の原風景ともいうべき美しい景観をなすこの合掌造り集落が評価され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、さらに1995年には五箇山(富山県)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
飛騨地域の中でも、村は山ひだが険しい地域となっており、その急斜面地の間を縫うように庄川が流れ、その流域に集落が形成されている。また、村は日本有数の豪雪地帯であり、かつて秘境と言われてきたのは、これが冬季に周辺との交流を遮断したからである。
であい橋
秋葉神社
白川八幡神社
和銅年間に創建されたという歴史ある神社。毎年10月14日、15日には「どぶろく祭」が開催され、訪れた参拝者にどぶろくが振る舞われる。人気アニメのモデルとなっており、足を運ぶファンも多い。
神田家
160年以上の歴史を刻む、風格ある合掌造り民家。間取りや小屋組み(合掌木)など、きわめて完成度の高い合掌造り家屋である。和田家から分家して居を構えたのが神田家の始まりで、ここで酒造業を興している。
和田家
白川郷の合掌造り集落で最大の規模を誇る和田家住宅は、式台付きの玄関など格式の高い造りを持ち、江戸時代初期と見られる建築文化の粋を今日に偲ばせている。和田家は、国の重要文化財にも指定されている。和田家は天正元年(1573)以来、代々「弥右衛門」の名を継ぎながら、江戸時代には名主(庄屋)や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝(えんしょう)の取引によって栄えた。
明善寺
白川郷集落内の真宗大谷派の寺院。
鐘楼門
明善寺創建以来作られたもので飛騨の匠の作りで、延べ人足1425人を要したと記されている。
本堂
今から約260年前の延享5年創立。飛騨高山の国分寺の塔建立ゆかりの棟梁「水間字助」により木積され数年を要して建築された。
明善寺庫裡
およそ200年前の徳川末期に、飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工と、正副棟梁が協和して三年間の工作で完成したもの。釘、カスガイ等を一切使わず、クサビの他は「ネソ(マンサクの若木)」、「ワラナワ」でしめくくった特殊なもので、茅葺の切妻屋根は雪を落とすため、60度に近い急勾配になっている白川郷の5階建て合掌造りとして最大随一のものである。
萩町城跡展望台
展望台までの所要時間:シャトルバス約10分、バスターミナルから徒歩約20分。
JA/ATM
奥左エ門
白川郷で大正三年に建造された奥左エ門は、合掌造りではない和風建築の伝統的建造物。合掌造りで使われていた柱を使った母屋と増築した総ひのき造りで漆喰壁が特徴の書院座敷から成っている。
本覚寺
秋葉神社
村
せせらぎ公園駐車場
道の駅白川郷
地元の菓子や白川郷で生産された加工食品、飛騨の地酒など、品揃え豊かなお土産店。季節のメニューが人気の食事処。合掌造りの全てがわかる合唱ミュージアムを併設。
飯島八幡神社
10月18日~19日にかけてどぶろく祭りが開催される。