千光寺

千光寺
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には7堂伽藍19の院坊があったと伝える。永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
 平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第24世法印*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
観音堂 棟札 員数 1棟
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なった。その2年後の慶長3年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬治2年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
昭和44年12月11日指定*説明版より
 高山市指定文化財(建造物)
宿儺堂 員数 1棟
慶長3年(1598)建立。当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。両面宿儺は、日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最期は大和朝廷と戦って敗れる。
 平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長3年の建立と判明した。
 永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に、当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が、1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なっている。
平成15年6月16日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
弁天堂 員数一棟
永禄年間の武田軍による焼き討ち後、再建されたと伝わる。
 弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記される。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。
平成15年6月16日指定  *説明版より
極楽門(仁王門)
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には七堂伽藍十九の院坊があったと伝える。永禄7年(1565)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。
 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第二十四世法印
高野山傅燈大阿闍梨 大圓敬曰*説明版より
高山市指定史跡 四国八十八カ所霊場札所
 明治20年(1887)、当山住職三蔵祐圓法師の時に、新四国霊場を草創し、巡礼運動を展開したのが、現今の道場である。
巡礼者は、身に白衣をまとい、笈摺(おいずる)を負い、金剛杖をつきながら歩き、真言宝号とご詠歌を唱え、施主の報謝を受けつつ巡拝する。巡拝中種々の霊験を蒙(こうむ)ると、古今に伝説が多い。巡拝は四季絶えないが、特に春季が多い。
 安置仏88堂の左側に弘法大師、右側に如来・観音・菩薩像等の札所本尊仏を祀っている。
 平成15年6月16日指定 *説明版より