名工・西田伊三郎(吉島家)

名工・西田伊三郎(吉島家)
吉島家
吉島家は日下部家と仲良く並んでいる。日下部家は川尻治助が棟梁、吉島家は西田伊三郎が棟梁になっている。日下部家は明治8年の大火後、明治20年に再建したもので、その特徴は、セガイを大屋根下に設け、軒高を高くし、内部はウシと呼称されるドッシリとした太材を桁、梁にわたし、三面を楽に渡している。これらは、江戸時代に統制されていたものばかりで、明治になって規制が解除されたことにより可能になったのである。
 吉島家は明治8年の大火後翌年再建をした。明治38年、再度火災にあってしまったが、表側二間分だけは焼け残ったため、その部分を残して明治初年の規模どおりにすべく、明治40年から再建を始めた。いずれの再建も名工西田伊三郎が棟梁となった。西田伊三郎の父伊兵衛の師は、藤原宗安二十一世を名乗る水間相模宗俊であった。
 伊三郎の技は随所で見られる。外観では、セガイを設けず、柱間を一間半としてスケールの大きさを表し、内部は立体格子と呼ばれるいかにも優雅な梁組みを完成させた。
 空間のほぼ中央には、ヒノキの大黒柱が棟桁まで8メートル伸び、節一つない。桁行方向にはアカマツ面落しの大梁が架かり、直交して曲り木の飛梁が架かり、それはアンバランスの美を出している。ヒノキ材の小屋束と、圧縮に強いマツ材の組み合わせは、「マツ得手」をよく心得た伊三郎ならではの技である。
 高山の顔である日下部、吉島家を、棟梁の技巧で比べてみると、また視点を違えてみると高山がみえてこよう。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
西田伊三郎  安政元年(1854)~明治40年(1907)
西田伊三郎は、高山町の中川原町に生まれ、社寺建築の道を歩んだ。伊三郎の父伊兵衛の師は、藤原宗安(ふじわらむねやす)21世を名乗る水間相模宗俊である。
吉島家は日下部家と仲良く並ぶ。日下部家は川尻治助が棟梁、吉島家は西田伊三郎が棟梁になっている。吉島家は明治8年の大火後翌年再建をした。しかし、明治38年、再度火災にあってしまったが、明治40年、西田伊三郎が棟梁となって再建を始めている。明治初年の規模どおりに、焼け残ったふすまや障子に合わせ、建物を寸分狂いなく再建した。西田伊三郎は心労のためか、吹き抜け完了と同時に心臓発作で他界したという。
伊三郎の技は随所で見られ、内部の吹き抜けは立体格子と呼ばれる、いかにも優雅な梁組みを完成させた。
空間のほぼ中央には、ヒノキの大黒柱が棟桁まで8メートル伸び、節一つない。桁行方向にはアカマツの面落しの大梁が架かり、直交して曲り木の飛梁が架かり、それは究極の美を表わしている。ヒノキ材の小屋束と、圧縮に強いマツ材の組み合わせは、「マツ得手」をよく心得た伊三郎ならではの技である。
高山の顔である日下部、吉島家を、棟梁の技巧で比べてみると、飛騨匠の誇りとプライドが見えてこよう。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
吉島斐之(よしじまあやゆき)  天保8年(1837)12月23日~大正4年(1915)7月2日
吉島家の初代は文政6年(1823)に没した休兵衛で、代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ。四代吉島斐之は、明治40年に建物を再建している。
斐之は幼い頃から、読書と算数を高山の高垣隣圃に学び、13歳の時には、国学の上木清成の門に入り、合わせて歌道と謡曲を修めている。剛直で頭が良く、芸達者、経営にたけ、仏教の信仰心に厚い人であった。
よく都を訪れ、紀伊、伊勢、尾張、三河等にも遍歴して諸家と深く親交している。
 酒造業を営んで勤勉で怠けず、家運は益々栄えた。元治元年(1864)、軍資金を幕府に献上し、その賞として苗字帯刀を許され、士籍に列せられている。明治2年、梅村速水が高山県知事になると、学務係を命ぜられ、明治7年には筑摩県県会議員に選ばれた。
明治8年4月、高山町の大火で、町の大半が焼け、吉島家も類焼して宮川へ避難した。その時、斐之は使用人に命じて肴を用意させ、酒を備え、盃を挙げて、櫻山神社に火のうつるのを見て、次の歌を作っている。悲しいなかでの風流である。
  櫻山花の梢にもゆる火の 煙もやがて雲となりつゝ
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月ほか
宮大工 丹羽陽一の見方
[吉島家住宅の場合 工匠、西田伊三郎]
① 西田伊三郎は、なかどーじから見える中央の大黒柱を棟木まで伸ばしその柱に牛梁をかける構図を基本としている。吉島家、北村家ともにその構図である。
➁ 大黒柱を棟木まで通すと、その部位は縮みにくい。他の部位は長年経過で縮むので接合部分に不具合が発生する。
➂ この構図は、牛梁は通しでないために大地震時、横揺れで両側がよく揺れやすいと考えられる。
一間立体格子による小屋組は建て方が難しい。組み手の距離が短いため
仕口のあそび部分が薄くなる。それで建て方時、ほぞ入れや複雑な継ぎ手に取り付けが出来ない場合がある。規模が大きい場合より困難になる。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
1級建築士、加藤達雄の見方
 [西田伊三郎の作風]
① 縦軸を主体とした空間構成である。正面に棟木まで届く通し柱を大黒柱として据えている。桧の美しい柱である。この柱が吹抜大空間の主役で、この柱に牛梁をかけ、順に梁をかけている。
➁ もう一つの特徴として小屋組みを構成する二段梁、束柱の組み方にある。その部材を一間間隔の立体格子に仕立ている。採光窓からの光は時間とともに角度に変化を生じる。立体格子の木組みにできる陰影はその時に応じて微妙に変化していく。その様は芸術的美学を感じさせる。特に、その陰影は縦軸により美しさを見せてくれる。
➂ この空間表現の仕方は横長空間の方が効果的である。おえの間仕切りの表現の工夫も繊細な気遣いがされている。川尻治助が「男性的」と表現すると西田伊三郎は「女性的」という表現ともいえよう。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より