国指定・松本家

国指定・松本家
〈国指定〉昭和46年12月28日
 〈所有者〉高山市
 〈所在地〉上川原町125番地
 〈時代〉主屋、米蔵は江戸時代後期、漬物蔵は文政9年(1826)
 〈員数〉3棟
  主屋(1棟)桁行10.8m、梁間14.5m、2階建、切妻造、鉄板葺
  米蔵(1棟)土蔵造、桁行7.9m、梁間5.8m、2階建、切妻造、南面庇付、鉄板葺
  漬物蔵(1棟)土蔵造、桁行5.2m、梁間4.2m、2階建、切妻造、東面庇付、南側蔵脇土間付属、鉄板葺
  附 主屋漬物蔵間通り土間(1棟)桁行9.5m、梁間2.8m、両(りょう)下(さげ)造(づくり)、南面流し場付属、鉄板葺
 明治8年(1875)、二之町で出火した火災は三町、寺内町、八幡町、鉄砲町などに延焼し1,032戸を焼失した。桜山八幡宮、別院など寺院や多くの町家が類焼したが、松本家住宅は火災を免れた。市内の町家の中では最も古く、改造があまりされていない貴重な建物である。
 漬物蔵の化粧裏板に「文政9戌年(1826)5月18日屋根棟上」、窓(まど)框(がまち)に「文政9年戊4月27日出来」の墨書が見られることから、主屋の建設年代もその頃と推定される。米蔵の化粧裏板には「嘉永元申年(1848)4月日 大工八賀屋平吉 清助」とあり、建設年代かあるいは屋根修理時の墨書である。
 松本家は現在の松本町の出身で、弘化年間(1844~1848)に高山町に分家し、以後蝋燭(ろうそく)、煉(ねり)油(あぶら)商を営んだ。松本吉助の代には、他に明治30年代は煙草製造卸、同40年代には金貸業も営み、明治45年に薬(やく)種(しゅ)商(しょう)原(はら)屋(や)三(さん)右衛門(えもん)、屋号「原三」の家(本建物)を譲り受けたという。上一之町から上川原町へ移ってからは、この建物を居住用に使用し、原三時代の主屋、土蔵、薬行商人宿泊所などを、大改造せずそのまま残したのである。原三は、文化年間(1804~1818)には益田街道沿いであるこの上川原町で商いをしており、松本吉助に売却後は安川通りで原三薬店を開いた。
 この住宅は主屋のほか、裏の中庭に面して米蔵、漬物蔵が連なる。主屋の「通りドジ」を裏へ進むと漬物蔵の庇、米蔵の庇とコの字状に庭を囲んでいる。近世末高山の標準的町家の屋敷構えが完存している。
 主屋は切妻造2階建で、正面には「のれんかけ」を下げるむくり屋根の小(こ)庇(びさし)や2階の連子窓、1階の出格子などが見られ、高山の町家の典型的な外観を示す。玄関大戸は無双窓の形式になっていて、中桟(なかざん)を動かすと縦の格子戸になる。夕方は大戸を閉めて小さい潜(くぐり)戸(ど)から出入りする。
 大戸から「ミセ」の脇の「ドジ」(土間)を抜けると、中は「オエ」から「ダイドコロ」へ続く広い空間になる。梁から小屋組まで吹抜けを見せた空間が意匠的に扱われている。奥の部屋は表側に「オクミセ」続いて「カズキ」「ブツマ」「ザシキ」と4室並ぶ配置で、前後の部屋に1間の食違いを生じさせている。2階には広い座敷や、奥に茶室が設けられている。
 南隣りの家屋は浅野氏の居宅であったが、平成元年に市が購入した。もともと原三の商家であり、内部調査の結果、主屋よりも古い建物であることが判明し、保存修理をして管理棟に使用している。
 米蔵には松本家の商売用具、生活用品、装飾品などを展示し、漬物蔵には漬物桶や台所用具を展示している。松本家から寄贈された文化財指定建物は、高山の標準的な商家としてその価値は高く、また土蔵内一括資料、民具も明治から昭和にかけての生活を知る上で貴重である。
参考文献
『高山の文化財』16~19頁 高山市教育委員会発行 平成6年

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