国昌寺

国昌寺
【国昌寺】
 国昌寺は、曹洞宗の寺で大崎山といい、染谷(大宮市)常泉寺の末寺で、徳川家光から寺領10石の朱印地が寄贈されている。開山は心巌宗智で、中興開山は能書家としても著名な大雲文龍である。
 山門は、江戸時代中期(宝暦頃)の建築で、市指定文化財である。欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐり抜けると、龍に中身を喰われて軽くなるという伝説をもっている。また、この龍はもと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もある。
 境内には、センダンバノボダイジュ(市指定天然記念物)と阿弥陀一尊種子板塔婆(市指定有形文化財)である。また、寺宝として大雲文龍書の大弁才尊天号の軸物(市指定有形文化財)がある。
 大雲文龍は、名僧智識として、その名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、時の帝から3度も召されて、書を指南したと伝える。
  昭和58年3月 さいたま市 掲示物より
戦国期に心巌宗智によって開かれ、二代目住職の能書家として知られた大雲文龍によって再興された曹洞宗の寺です。
山門は開かずの門として有名で、欄間の龍の彫物は、見沼の竜神伝説を伝えています。
<山号>
 大崎山 国昌寺
<宗派>
 曹洞宗
<縁起>
 戦国期に心巌宗智によって建立され、中興開山と称される大雲文龍は、当地大崎の生まれで、宗智のもとで出家し、諸国参禅のあと越前永平寺に修学、帰郷して二代目住職となりました。文龍は、その名声が朝廷にも伝わり、招かれて紫衣や禅師号を賜ったことなどが知られています。また、能書家としての評判も高く、寺宝に文龍書の「大弁才尊天号」(市指定有形文化財)の軸物があり、墓も残されています。
 江戸時代には徳川家光以来、寺領十石の寄進を受けていました。
 江戸時代中期に建立された山門(市指定有形文化財)は「開かずの門」として有名で、この門を棺が通ると軽くなる〈龍が食う〉という伝説があり、門は閉じられ「開かずの門」になったと伝えられています。他にも、門の欄間の龍は左甚五郎作と伝えられ、見沼に棲んでいた龍が作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もあります。
 また、境内には、市指定天然記念物であるセンダンバノボダイジュもあります。この木は、寺院によく植栽されており、葉の形が「センダン」に似て、花は目薬や黄色染料に、種子は数珠に利用されていたようです。
<左甚五郎とは?>
 江戸初期の彫刻の名匠。日光東照宮の眠猫で有名。左甚五郎作の伝説がある彫刻は、日本全国に多数存在する。幻の大工といわれる。
国昌寺は曹洞宗の古刹で、二世大雲文龍和尚(元和三年寂)は能筆を以て有名で、その書は市の文化財に指定されている。この寺の山門には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻が揚げられていて、その扉は常に閉鎖されたままで、「開かずの門」といわれている。それには次のような伝説がある。
昔、この寺の檀家の葬列がこの門を潜ると、中の仏様がもぬけの殻になって、急に軽くなってしまう。それは甚五郎の龍が喰ってしまうからだというのである。
そんなわけで、その門はその後いかなることがあっても開かないことにして、今に及んでいるというのである。
なお、この山門の龍は、すぐ近くの見沼が大雨で氾濫すると、夜毎に抜け出て湖面をのたうちまわるので、その頭に太い釘を打ち込んでから、そのことがなくなったという。
(資料提供者・浦和市大字代山一三三 厚沢八郎氏)
原題は「異変をおこす龍(その一)」
『埼玉県伝説集成・中巻』韮塚一三郎
(北辰図書出版)より