山田寺

山田寺
山田寺
 桜井市大字山田に所在する。文献によれば、蘇我倉山田石川麻呂が641年に発願した氏寺であり、649年には金堂が、天武朝になって塔や講堂が完成したとされる。685年には天武天皇の行幸があったので、この頃までには伽藍が整っていたのではないかと考えられている。奈良時代には記載がないが、平安時代に入ると藤原道長が参詣した記録がある。1187年には興福寺の僧兵によって丈六仏が奪い去られており、衰微していったと思われる。
 1976年から奈良国立文化財研究所によって発掘調査が行なわれ、当寺が、蘇我氏の邸宅の一部を取り壊し創られたことや藤原道長が参詣したのち間もなく山崩れによって一部倒壊してしまったことなどが明らかとなった。また、平安時代末には主要な建物が焼亡し、その後復興されていたことなどもわかっている。調査では、塔・金堂・講堂・回廊・僧房・宝蔵などが検出された。伽藍配置は、南から塔、金堂、講堂が建ち並び、塔・金堂は単廊によって取り囲まれ、その東側に宝蔵が配置されている。講堂の北には、東西に僧房を配し、金堂正面には礼拝石などがあるのも特徴的である。瓦は単弁八弁蓮華文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせである。その他、垂木先瓦、双頭鴟尾、塼仏、押出仏なども出土している。
<引用文献> 明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録⑤ 飛鳥の寺院 ―古代寺院の興隆―』11頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成19年
 
特別史跡 山田寺跡
 山田寺は、右(う)大臣(だいじん)・蘇我(そがの)倉山田(くらやまだの)石川(いしかわ)麻呂(まろ)が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の1つである。記録によれば、641年に着工し2年後には金堂(こんどう)が完成したものの、649年に石川麻呂が政争で自殺したため造営は中断した。その後、本格的に造営が再開され、676年に塔が完成、685年には、現在興福(こうふく)寺(じ)に仏頭が残る本尊丈(じょう)六仏(ろくぶつ)の開眼(かいげん)供(く)養(よう)が行なわれた。
 1976年以降の発掘調査では、東西118m、南北185mの寺域に、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北1直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽(が)藍(らん)配置であることが明らかになった。また、東面回廊が倒壊したままの状態で見つかるなど飛鳥時代の建築様式を知る上で貴重な発見が相次いだ。
 
山田寺跡
磐余の道・連子窓