岩手県盛岡の金森氏遺構(第7代頼錦の菩提寺)

岩手県盛岡の金森氏遺構(第7代頼錦の菩提寺)
金森兵部の碑
金森兵部は少(しょう)輔(ゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)38,000石の藩主であったが、宝暦8年(1758)に領民騒(そう)擾(じょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになった。
盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇していたが、宝暦9年2月の流(る)謫(たく)から4年余り過ぎた同13年(1763)6月に病死している。享年51歲。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものである。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきた。
金森家は長く謹慎の身に置かれていたが、嫡孫靭負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元年(1789)に遺骨は江戸へ引き取られている。
碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」の没年が刻まれている。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われる。
平成16年3月 盛岡市
説明板より

国指定史跡 盛岡城跡
所在地 盛岡市内丸1番地ほか
指定年月日 昭和12年4月12日
 盛岡城は、三戸(さんのへ)から不来(こず)方(かた)に居城の移転を決定した南(なん)部(ぶ)信直(のぶなお)(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(としなお)(第2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められた。
 城の縄張りは豊臣家重臣の浅(あさ)野(の)長政(ながまさ)の助言によるものと言われ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰(こし)曲(くる)輪(わ)などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内(うち)曲(くる)輪(わ)(御(ご)城(じょう)内(ない))としている。
 さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸(うちまる)地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外(そと)曲(くる)輪(わ)とした。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠(とお)曲(くる)輪(わ)(総構(そうがま)え)が配置されている。
 築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(しげなお)(第3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。
 盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃したが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
 平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけた。
  平成21年10月                            盛岡市
説明板より

 

関連資料

2-26-1 金森兵部の碑

2-26-2 国指定史跡 盛岡城跡