平城京

平城京
唐と新羅が再編成した東アジアで、日本が生き残るためには、強力な政府を建設する必要があった。政府は先進国の唐帝国を手本にして国を統治する律令制度を導入し、仏教の国教化を促進してゆく。飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮・難波(なにわ)京・藤原(ふじわら)京と都市建設の実験を繰り返しながら、710(和銅3)年3月、平城に遷都して都が完備された。国土の中心に天皇の政府が所在する都城を営み、地方には政府の意志を代行する国府(こくふ)をおき、その傘下に郡(ぐん)・郷(ごう)・里(り)を配置するという、壮大な構想であった。聖武天皇は天平12年(740)~天平17年(745)まで都を転々と移すが、天平17年~延暦3年(784)、再び平城京を都としている。
平城京は朱雀大路をはさんで西側を右京、 東側を左京という。条坊地割りによって区画された。朱雀大路の南端には羅城門、北端には朱雀門があり、朱雀門より中は1 km四方の平城宮となる。大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所、庭園がある。奈良時代前半、大極殿は朱雀門の真北にあった。しかし後半には、東側に第二次大極殿が建てられている。
平城京の一部建物は平安京への遷都後も長く継続し、官立の大寺である東大寺・興福(こうふく)寺・元興(がんごう)寺・大安(だいあん)寺・法華(ほっけ)寺・西大寺・唐招提(とうしょうだい)寺・薬師(やくし)寺などは移っていない。平安遷都後もこれらの寺院は奈良を南都と称し平安京政権の精神的な支えとなり、宗教的な都市となった。
参考文献  町田章編『古代史復元 8 古代の宮殿と寺院』㈱講談社 1989年
      奈良文化財研究所発行 平城宮跡リーフレット

   

資料集
030_035_平城宮