杉崎廃寺
杉崎廃寺
飛騨の古代寺院・杉崎廃寺
杉崎廃寺
岐阜県飛騨市古川町杉崎字あわら
杉崎廃寺は宮川右岸の微高地上に位置し、水田の中に整然と並ぶ礎石群と塔心礎の存在が古くから知られていた。
これまでの発掘調査により、7世紀末葉に創建された白鳳時代の寺院跡であることが明らかになった。小規模ながら主要堂塔を備え、金(こん)堂(どう)の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が直線上に並ぶ伽(が)藍(らん)配置は他に例をみない。金堂や講堂・鐘楼の礎石は創建当時の位置を保ち、伽藍全体の遺構がよく残されている点でも比類がない。
伽藍中枢部の全面に敷き詰められた玉(たま)石(いし)敷(じき)は、全国でも初めての発見であり、その荘厳さは飛鳥(あすか)の宮殿遺構を彷彿させる。
建物の礎石は、すべて火を受けた痕跡があり、8世紀の末、一度に焼失したと推測される。瓦は金堂と塔の一部に使われたが、屋根が檜(ひ)皮(わだ)葺(ぶき)であったことも杉崎廃寺の特徴といえる。
出土遺物には浄(じょう)瓶(びょう)(水差)・獣(じゅう)足(そく)火(か)舎(しゃ)(香炉)などの供養具、丸瓦・平瓦などの瓦類、須(す)恵(え)器(き)を主とする食器類、それに建築部材を中心とした木製品などがある。出土した郡(ぐん)符(ぷ)木(もっ)簡(かん)には『和(わ)名(みょう)抄(しょう)』にみえる郷名の飽(あく)見(み)郷(ごう)が記されており、寺院の分布が郷単位であったことが推定される。 飛騨市教育委員会資料から
杉崎廃寺 すぎさきはいじ
所在地 岐阜県吉城郡古川町大字杉崎字あわら地内 ふるかわちょうおおあざすぎさき
調査年 1991~1995年
調査主体 古川町教育委員会
立地環境 飛騨古川盆地の北西に位置し、飛騨の風光明媚な水田地帯にある。標高480mにあり、地下水位の高い「あわら」と呼ばれる湿地に水田が営まれてきた。
発見遺構 中門・金堂・塔・講堂・鐘楼の礎石建物5棟、伽藍を区画する掘立柱塀、伽藍の北西に南北溝(寺域の西を限る排水施設)、僧房
発見遺物 伽藍中枢部を中心に土器と瓦類が出土。土器では、須恵器が主で、坏・椀・蓋を中心とする食器類と、壺・甕などの貯蔵容器類を主体とし、長頸瓶・水瓶・三足火舎などの仏器類もある。焼失した講堂の基壇上面から灯明皿、「見寺」と墨書された土器が出土し、杉崎廃寺の廃絶年代を示す資料となった。9世紀初頭の年代が想定されている。なお、創建年代を示す資料には、講堂基壇中と掘立柱塀柱穴から出土した岩崎41号窯式期比定資料、柱穴から出土した平城宮Ⅰに比定される土師器坏Aがある。
瓦類は金堂、塔の基壇回りを中心に出土、軒瓦は存在しない。全体的に出土量は少なく部分的な使用が考えられている。出土瓦の供給窯は、盆地の南西に位置する中原田古窯である。平瓦は、粘土板桶巻作りによるもの。
木簡は南北溝の多数の建築部材とともに、1点が出土した。荒城郡の郷名が推定できる資料である。・符 飽カ ・急□ 「飽」は、飛騨国荒城郡飽見郷を指すものと考えられ、郡符木簡の可能性をもつ。他の木製品は1,000点を超え、杓子、箸などの食事用具、蓋板などの容器、えぶり、田下駄、木槌、ヘラなどの農工具、籌木等多種に及ぶ。建築部材では桧皮がまとまって出土し、最終時の伽藍内の建物が桧皮葺きであったことが判明した。
年代 創建年代7世紀末、廃絶年代9世紀
出典文献 1.河合英夫・島田敏男「飛騨の伽藍 ― 杉崎廃寺の調査 ―」『月刊文化財』3月号1995 第一法規出版㈱
2.杉崎廃寺現地説明会資料1996 古川町教育委員会
遺跡の概要 杉崎廃寺は、平安時代後期から織豊時代にかけて存続した宮谷寺の跡といわれていたが平成3~5年の調査によって白鳳寺院であることが判明した。
伽藍や主要堂塔は、全体的に小規模であるが、非常によくまとまっており、また伽藍全体がこれほど良好な状態で遺存した例は少ない。伽藍配置は、全体としてやや変則的な形式をとるが、いわゆる法起寺式であることが判明した。特に金堂や講堂、鐘楼の礎石は、創建時の状態を良好に保ち、塔や中門についても根石の存在によって本来の位置が復元できるなど、高い価値を有している。また、伽藍地全面が丸い人頭大の河原石で敷き詰められ、荘厳な印象を与えている。伽藍地全面に石敷を施した例は、同時代の寺院跡には類例がなく、飛鳥の宮殿遺跡を思い浮かべる。
<規模>伽藍中枢部・東西37.5×南北35.8m 中門・桁行5.7 梁行3m 金堂・桁行7.8×梁行6m 塔・各面4.2×4.2m 講堂・桁行12.6×梁行9m 鐘楼・桁行4.5×梁間3.3m
<中門>礎石及び根石のレベルが、伽藍内の石敷上面レベルと大差なく、基壇は基壇化粧のない低い土壇状。桁行3間、梁間2間の八脚門。
<金堂>南を正面とする東西棟建物で、基壇、礎石ともほぼ完存。基壇は掘り込み地業を伴う版築による乱石積基壇。外周に石敷面より一段高い犬走りを巡らせる二重基壇。桁行3間、梁行2間の身舎の4面に廂が取り付く3間4面の形式。
<塔>金堂の東に位置する。基壇は金堂と同様、掘り込み地業を伴う乱石積の二重基壇。花崗岩製の礎石が15個現存。心礎は大きく南東に移動している。
<講堂>金堂の背面に位置する。基壇縁に自然石を並べただけの低い基壇であるが、掘り込み地業と版築によって築成される。桁行4間、梁行2間の身舎の南北二面に廂をもつ両廂付き建物である。特記すべきことに、建物内の中央2間分に、棟筋と身舎側筋の少し内側に、礎石状の石が置かれ、床束を支える束石、または須弥壇の束石と考えられている。
<鐘楼>西を正面とする南北棟建物で、基壇、礎石ともに完存している。基壇は見切石を並べただけの低いものである。桁行3間、梁間2間で、楼形式であったかどうかは不明。
<南北溝>伽藍の区画施設である、西面の掘立柱塀に沿って南に続き、南面の塀を通りこし、溝に並行して塀も延びる。この結果、中門の南には伽藍の外画施設と南門の存在が想定された。
<僧房関連施設>伽藍の北側に大きく2時期の変遷を示す、掘立柱建物で構成された僧房及び関連施設がある。伽藍中枢部とは仕切塀によって区画されていた。僧房は桁行4間、梁行2間の大形の掘立柱建物2棟を基本とする東西棟が一列に並んで構成され、最近2回の建替えが行なわれ、建物内部は4室ほどに区画されていたと推定される。
僧房の西側には桁行4間、梁行2間の南北棟が建つ。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』135~136頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
杉崎廃寺は古川盆地の北西隅杉崎地区に位置している。平成3年から平成7年にかけて行われた発掘調査により、やや変則的であるが法起寺式伽藍配置の白鳳寺院であることが判明した。
伽藍は小規模ながら、中門・金堂・塔・講堂・鐘楼などの主要堂塔を備えている。伽藍の内部に施設した石敷は、同時代の他の寺院跡には見られない杉崎廃寺独特のものであり、飛鳥の宮殿遺跡を彷彿させるものである。
また、伽藍の西で検出された南北溝から、多数の木製品と郡符木簡が発見された。この資料は全国的に見ても極めて貴重であり、律令国家の行政の末端を知るうえで価値が高い。
瓦類は、金堂および塔の基壇回りを中心に出土したが、軒瓦は1点も出土しなかった。
塔心礎は花崗岩製で、不正の長方形をなし、礎面に直径70cmほどの円形柱座をつくり、中央に直径32cm、深さ12cmほどの舎利孔をあけている。(編集中)