法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立

法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、三井(みい)という土地の名によって三井寺とも呼ばれています。
三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。
法輪寺の西北、歩いて3分の場所には、聖徳太子が掘られたという国史跡の井戸(「史跡 三井」)が遺されています
法輪寺の創建には2説が伝えられています。
ひとつは、推古30年(622)、聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)がその子・由義王(ゆぎおう)らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)。
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西院伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。
薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。
創建から江戸時代中期まで、当寺に関する史料は乏しいため、奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、十一面観音菩薩立像・弥勒菩薩立像・地蔵菩薩立像・吉祥天立像・米俵毘沙門天立像など、平安時代の仏様を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。
延長6年(928)の『寺家縁起』には、当時の檀越が高橋朝臣であり、寺域は、東は法起寺堺、南は鹿田池の堤、北は氷室池の堤、西は板垣の峰を限ると伝えています。
鎌倉時代の様子は、金堂・講堂・塔・食堂等が建っていて「建立の様は法隆寺に似たり」と『聖徳太子伝私記』に記されていますが、『大乗院日記目録』には、南北朝時代の貞治6年(1367)正月三日に法輪寺が炎上したとあります。
室町時代末頃の『大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起』には、金堂・講堂・塔・中門・北門・鐘楼・鼓楼・経蔵・宝蔵・四面廻廊・僧房・温室等があり、塔の四面に塑像群を置くと伝えますが、上記の火災の記述から疑問視されています。

 

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