第1次平城宮

第1次平城宮
平城宮の建設
 和銅元年(708)から、平城京の建設が本格的に始まった。2月、「まさに今平城の地は、四(し)禽(きん)図(ず)に叶(かな)い、三山鎮(ちん)をなす、亀(き)筮(ぜい)ならびに従う、よろしく都(と)邑(ゆう)を建べし」という詔(みことのり)が元(げん)明(めい)女帝から発布される。3月には閣僚の人事異動が発令され、左大臣石(いその)上(かみの)麻(ま)呂(ろ)・右大臣藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・大(だい)納(な)言(ごん)大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)らトップのもとに、造(ぞう)宮(ぐう)卿(きょう)として大伴手(て)拍(がしわ)が任命された。9月、多(た)治(じ)比(ひの)池(いけ)守(もり)が造平城京司の長官に併任され、10月になると伊勢大神宮に使者を送って造営の安全を祈願する。11月、平城宮予定地内に住む菅原の農民90余家を移転させ、12月になってようやく平城の宮地で地鎮祭を行なった。
和銅3年(710)3月、平城に遷都。藤原宮の留(る)守(すい)役(やく)を左大臣石上麻呂とし、遷都の実際的な経営は右大臣藤原不比等の手に委ねられたようだ。
<宮門と大垣>
 平城宮の範囲は、精度の高い土木技術で設定された京の条(じょう)坊(ぼう)地(じ)割(わ)りによって決定された。その平面形は、約1,000メートル四方の正方形の東側に、東西約240メートル、南北約750メートルの長方形区画を付け足した逆L字形をとる。条坊道路と宮城との境には濠(ほり)(道路の側溝)・壖(ぜん)地(ち)(犬走り)があって、その内側に瓦葺きの築(つい)地(じ)大(おお)垣(がき)を築いて外囲いとする。土をつき固めて高い塀をつくる築地は、平城宮で初めて採用された新しい技術であった。
 大路と条・坊間路に面して宮城門を開く。南面と西面では、それぞれ3門を配置し、南面中央門がもっとも大きく、正門の朱雀門である。東南の入り隅部に1門を開く。東面には2門を想定できるが、南側の門は変則的に藤原不比等の邸宅(のち法華寺)に面して開いたようだ。北面では中央門しか想定できない。
宮域を東西に区画する南北方向の基準線は、大路と坊間路の中軸線と同じである。南北に区画する東西方向の基準線は、南面大垣から533メートル(大尺1,500尺)北に位置する第1次大極殿南門、第2次大極殿南門の中心を結んだ線である。この東西の基準線に基づいて、宮内が大小の敷地に区画されるが、基準になる尺度として、大(たい)宝(ほう)令(りょう)で測地用の尺とされている大尺(小尺×1.2、0.3529メートル)が用いられている。
    参考文献  町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
 第1次大極殿院・朝堂院
平城宮の南面に展開する朱雀大路と、二条大路の交差点は一種の広場であり、平城宮の役人と京の住民とで行なう歌(うた)垣(がき)のような行事、宮中の大(おお)祓(はら)いの儀式、あるいは、政府が主催するデモンストレーションの場であった。朱雀門の内側は、天皇・貴族・役人の世界だ。バラス敷きの道路が北上し、朝堂院南門に至る。一般には、これから先が平城宮の中枢部の区画である朝堂院と大極殿院であると考えられている。大極殿は天皇と貴族が中心になって行なう国家儀式の舞台であり、朝堂院は貴族が会合し、政治を論じ、儀式を行なう場所とされている。
朝堂院の区画は、初期には掘立柱塀、後期には築地で囲み、その東西の築地寄りに南北に長い大きな礎石建物をそれぞれ2棟ずつ配置し、中央部は広々とした広場となる。大極殿院は周囲を築地回(かい)廊(ろう)で囲み、壇(だん)の表面を塼(せん)を積んで化(け)粧(しょう)し、登壇のため左右の端に斜めの道を造る。壇上には基壇・礎石付きの壮大な大極殿を建て、後方に後(こう)殿(でん)を置く。
このような平面プランは、平城遷都の710年から恭(く)仁(に)宮へ遷都する天平13年(741)までの姿であり、さらに朝堂院は、大極殿院よりも遅れて715年以降に造営されたことがわかっている。初期平城宮における大極殿院・朝堂院の平面プランは、先に造られた前期難波(なにわ)宮や藤原宮に見られない独特の配置である。
大極殿を高い壇の上に配置し、その前面に広場(朝庭)を設ける方法は、中国の唐大明宮の含(がん)元(げん)殿に見ることができ、平城宮でそれを模(も)倣(ほう)したと考えられる。含元殿では、壇下の東西に南面する建物1棟があり、これが東西の朝堂である。平城宮では壇下で建物を発見していないが、大極殿の左右に広い空間地が残り、基壇・礎石付きの建物を想定することができる。つまり、藤原宮のように朝堂12堂・大極殿・内裏の区画を南から北へ向かう一直線上に配置するのをやめて、唐の制度をまねて東西2朝堂に変更したと考えるべきである。強いて言うならば、築地回廊の中に大極殿と朝堂院の機能を集約したのである。
これこそ、藤原不比等が決意した行政改革の狙(ねら)いではなかったか。
<内裏>
壬生(みぶ)門内にも、大宝大尺で区画された地割りがあり、南から朝集殿院・朝堂院・大極殿院、内裏と築地や築地回廊で囲まれた区画が串(くし)刺し状に並ぶ。
内裏は東西500大尺(約180メートル)、南北550大尺(約194メートル)の方形に近い平面形をとる。前半期(恭仁宮から平城宮に遷都するまで)はまわりを木(き)塀(べい)で囲み、初期には中央に並び堂形式の正殿を置き、前面を広場として後方に数棟の規格的な建物を配置するが、いずれも掘立柱の檜(ひ)皮(わだ)葺(ぶ)き建物である。天皇が寝起きする建物を正殿にあてるなら、天皇の生活空間だけに限定されているようだ。一方、初期の大(だい)極(ごく)殿(でん)院とは区画がはっきりと区別されていることから、天皇の国家的機能と家政的な機能をはっきりと分離しようとする意図がありありとうかがえ、これも不比等の創案によるのであろう。
              参考文献  町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』   (株)講談社発行1989年
 第1次平城京
 和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部のこの地に都が移された。大(おお)路(じ)小路(こうじ)が碁盤目状に通る平城京の人口は、10万人程度と考えられている。平城京の中央北端に位置する平城宮は南北約1㎞、東西約1.3㎞の大きさで、天皇の住まいである内裏、政治や儀式を執り行なう大極殿と朝堂院、さまざまな役所、宴会の場となる庭園などが設けられていた。しかし、都は延暦3年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、平城京も宮(きゅう)も次第に土の中に埋もれていった。
 現在、平城宮跡は国の特別史跡として大切に保存され、奈良文化財研究所が発掘調査を続けている。これまでの調査の結果、平城宮は四角形ではなく東側に張出し部を伴なっていたことや、政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西2ヶ所あったことなどが明らかになっている。こうした成果に基づき、遺跡の復原・表示を行なっている。
※説明板より
 第1次大極殿
 第1次大極殿は、奈良時代前半に、平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、天皇が様々な国家儀式を行なう施設であった。「大極」(太(たい)極(きょく))とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味する。大極殿は和銅8年(715)には完成していたと考えられる。
 第1次大極殿の姿を直接的に示す資料は残っていない。復原に当たっては、大極殿が移築された恭(く)仁宮(にのみや)の大極殿跡の調査成果などを参考に、柱の位置が推定された。上部の建物については、現存する法(ほう)隆(りゅう)寺(じ)金堂(こんどう)や薬(やく)師(し)寺(じ)東塔(とうとう)などの古代建築をはじめ、平安時代の『年(ねん)中(ちゅう)行(ぎょう)事(じ)絵(え)巻(まき)』に描かれた平安宮の大極殿などを参考に調査研究を行ない、当時の姿が復原された。
 大極殿は、二重構造の入(いり)母(も)屋(や)造りで、前面は扉のない吹放しの建物と考えられる。
大極殿の仕様
①大極殿の大きさ

 東西長さ/約44.0m(9間)
 南北長さ/約19.5m(4間)
 高さ(棟高)/約27.1m(基壇高さ約3.4mを含む)
   初重の柱    直径/約71㎝ 長さ/約5.0m 本数/44本
   二重の柱    直径/約59㎝ 長さ/約2.4m 本数/22本
②木材
 ヒノキ、ケヤキ(吉野・熊野地方を中心とする国内産)
③屋根瓦
 約10万枚
④工期
平成13年/着工 平成22年/完成
※説明板より
 高御座(たかみくら)
 第1次大極殿の内部には、高御座と呼ばれる天皇の玉座が置かれていた。高御座は、皇位を象徴する重要な調度で、天皇は即位式や元日朝賀などの国家儀式の際に、大極殿に出(しゅつ)御(ぎょ)して高御座に着座した。貴族は、大極殿の南に広がる内庭(ないてい)に立ち並び、大極殿の天皇を拝した。
 高御座は、国家儀式の際に天皇が着座した玉座である。奈良時代の高御座の構造や意匠に関する記録はなく、詳細は不明である。ここに展示した高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献史料を参照して製作した実物大のイメージ模型である。細部の意匠や文様は、正(しょう)倉(そう)院(いん)宝物(ほうもつ)などを参考に創作された。
※説明板より

 

資料集
083_090_第1次平城宮