美濃土岐氏、多治見の大畑時代

美濃土岐氏、多治見の大畑時代
①岐阜の土岐氏
 長近の父定近は、美濃国守護、土岐氏の氏族であった。土岐氏は平安時代、岐阜市茜部周辺で活動していた源氏の一族で、鎌倉時代初めまでには土岐郡(瑞浪市)あたりに住み、土岐氏を名乗る。南北朝の争いには北朝の武将として足利尊氏のもとで功績をあげ、美濃国の守護になった。その後、力が弱まり、最後は斎藤道三によって美濃国から追い出され、土岐氏の時代が終わっている。
 岐阜県岐阜市長良・長良公園は土岐氏の福光城跡で、長良川をはさんで岐阜城が見える。美濃国守護土岐氏は福光城から独立丘陵「鷺山」までの空間に町(鷺山遺跡群)を建設した。発掘調査で家臣の屋敷地や宗教施設などが見つかっている。
②土岐成頼(しげより)
 土岐成頼は金森長近の曾祖父である。
 土岐成頼は康正二年(一四五六)十五歳で、美濃国守護土岐持益の養子となり、左京大夫美濃守となった。応仁の乱では山名氏に従い、始終京都にあって西軍の有力武将として十一年間転戦した。文明九年(一四七七)和平成立後、足利義視、義稙父子をと
もなって帰国した。明応六年(一四九七)五十六歳で病没し、瑞龍寺(ずいりょうじ)に葬られた。
 瑞龍寺が所蔵する成頼像は没後に描かれたもので、曲録に座す僧侶の姿で描かれている。賛は東陽英朝(一四二八~一五〇四)のもので、文中に「岐阜鍾秀」とあり、信長入城以前に「岐阜」が地名として使われた史料としても注目されている。
③斎藤妙椿(みょうちん)
 斎藤妙椿は土岐家の守護代で、主君成頼が京都で転戦している間、在国し支配権を確立、さらに近江、越前など近国にも勢力を拡大していった。他方、歌人でもあった妙椿は文化人の保護者でもあり、美濃で連歌が華やかに行なわれた時代を築いた。応仁元年(一四六七)頃、主君成頼のために瑞龍寺を建立した。妙椿は、文明十二年(一四八〇)七十歳で没しここに葬られた。
④成頼の菩提寺 瑞龍寺
 瑞龍(ずいりょう)寺は斎藤妙椿が土岐成頼(一四四二~一四九七)の菩提所
として悟渓宗頓(一四一六~一五〇〇)を実質的な開山として創建した禅宗寺院である。後に美濃地域の臨済宗妙心寺派の中核寺院として同派を束ねていくことになった。
⑤斎藤道三 明応三年(一四九四)~弘治二年(一五五六)
 名は利政、のち秀龍といい、晩年入道して道三と名乗った。山城の出身で、日蓮宗妙覚寺と深い関係を持ち、山崎屋と号して油売りを業としたと伝えられる。美濃守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りするうち、利安の臣西村家を継ぎ、次いで享禄三年(一五三〇)利安を殺して新九郎利政と名乗り、天文七年(一五三八)守護代斎藤氏を攻めた。天文十一年(一五四二)美濃守護の土岐頼芸を追い、美濃を押領したが、長男義龍と長良川で戦い敗死。織田信長の室は道三の娘である。
※斎藤義龍 大永七年(一五二七)~永禄四年(一五六一)
斎藤道三の子。母「三芳野」は美濃守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に生んだといわれる。はじめ新九郎高政と称し、長じて父道三と不和となり、弘治元年(一五五五)おじ長井道利とはかって道三に背き、翌年長良川に戦って父を討ち、美濃を制圧した。永禄二年(一五五九)から織田信長と争ったが病死。
※⑤、⑥は「『角川日本史辞典』第二版 ㈱角川書店 一九九一年発行」を参考とした。
             
⑦大桑城
(⑦は『越前大野城と金森長近』四頁より)
 土岐成頼(しげより)の二男(土岐)定頼は、兄である美濃守「土岐政房」に仕えて「大桑」に居を構え、大桑兵部大輔定頼と改称した。
 土岐氏は室町幕府の初期に、土岐頼康(八代)が足利高経の軍に転戦している。頼康、康行の頃、美濃、尾張、伊勢の三国の守護となり、東海随一の守護であった。
 土岐氏十五代「政房」の長男「政頼」は、天文十六年(一五四七)頃、斎藤道三と戦い、大桑の居城を追われたが、越前の朝倉孝景の援助を受けて城に帰ることができた。
 しかし、「政頼」は若くして亡くなってしまったため、弟である「頼芸(よりあき)」が十六代を継ぎ、再び道三と戦ったものの、大桑城を追われてしまう。そして美濃から甲斐の武田信玄のもとへと走った。
⑧ 土岐氏からの系図
(⑧は『越前大野城と金森長近』四頁より)

 

⑨ 多治見市大畑の時代
(⑨『越前大野城と金森長近』四頁より)
 明応(一四九二~一五〇一)の頃に「定頼」は多治見大畑に移り、采女「定近」をもうけている。『文三郎金森系譜』によれば、「定頼」は一時商売をしていたとも伝えている。この頃の土岐氏は守護として勢力を持っていた。
 「定近」は多治見にいる時、斎藤一族の女との間に、大永四年(一五二四)、長近をもうけた。この頃になると土岐氏は衰退の時代であり、長近は父定近とともに多治見で苦労を重ねたが、ついに滋賀県の金ヶ森に移り住むことになる。
『高山市史・金森時代編』より

 

 

虎渓山永保寺
およそ650年前、夢想国師を開祖とし、その法弟、仏徳禅師の開山で、起伏する山水の美は、中国慮山の虎渓に似たところから名付けられ、心字池に架かる無際橋は屋形を配して珍しい。
池畔のいずれからみても景観に優れ、構成の巧みさ、視界におさまる広さといい、名園の一言につきる。
多治見西ロータリークラブ

 

 

天下取りの拠点 岐阜城年表
建仁年間(1201~1203)頃、二階堂氏が稲葉山に城を築いたといわれている。
1525  大永5  永井藤左衛門尉長弘・新左衛門尉、守護土岐氏、
守護代斎藤氏を追放
1535  天文4  このころ斎藤利政(道三)が稲葉山城に拠点をおく
1544  天文13  土岐次郎・朝倉氏・織田氏が斎藤道三を攻めるが、井口の合戦で敗退
1553  天文22  斎藤道三、織田信長と富田・聖徳寺で会見する
1554  天文23  斎藤道三、家督を利尚(義龍)に譲る
1556  弘治2  斎藤義龍に攻められ、斎藤道三敗死(長良川の合戦)
1561  永禄4  斎藤義龍病死。子の龍興が跡を継ぐ
1564  永禄7  斎藤龍興、竹中半兵衛らに稲葉山城を占拠され、一時退城
1567  永禄10  織田信長、稲葉山城を攻略して入城、大規模な改修を行う。町の名を
井口から岐阜と改名
1569  永禄12  ルイス・フロイス、岐阜来訪
1576  天正4  織田信長、安土城へ移り、嫡男織田信忠が跡を継ぐ
1582  天正10  本能寺の変(織田信長・信忠自刃)織田信孝(信長三男)入城
1583  天正11  池田元助入城
1585  天正13  池田輝政入城
1591  天正19  豊臣秀勝入城
1592  文禄元  織田秀信(信長嫡孫、信忠の子)入城
1600  慶長5  関ヶ原の合戦の前哨戦で落城 以後廃城となる
岐阜町及び金華山は尾張藩領として幕末に至る
1910  明治43  模擬天守建造
1943  昭和18  模擬天守焼失
1956  昭和31  初代復興天守再建
2011  平成23  岐阜城跡国史跡に指定
説明板より

 

 

岐阜市指定重要文化財 絹本著色土岐重頼像
土岐重頼(生年不明~1497年)は、此の絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を創建した人物である。土岐成頼は、室町時代の美濃国守護として、美濃地方の政治・経済・宗教に影響を与えた。画面に描かれた土岐成頼像は、僧形の人物ですが、部将らしい風(ふう)貌(ぼう)がよく表れている。また、椅子の文様も丁寧に描かれている。さらに、画面の上部には、賛(人物を賞する漢詩文)が記されている。
平成12年3月24日指定岐阜市指定重要文化財
絹(きぬ)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)悟(ご)渓(けい)宗(そん)頓(とん)像(ぞう)
悟渓宗頓(1416年生~1500年没)は、この絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を開いた人物である。寺の創建者の土岐成頼・斎藤妙椿に招かれ、美濃地方の文化に大きな功績を残した。画面に描かれた悟渓宗頓は、顔の表情に個性がよく表れ、袈(け)裟(さ)の文様も丁寧に描かれており、作者の力量が伺われる。画面の上部には、悟渓自身による賛(自賛)が記されている。
平成12年3月24日指定
平成14年3月
岐阜市教育委員会
説明板より

 

関連資料

2-2-1 美濃土岐氏、多治見の大畑時代

2-2-2 虎渓山永保寺の由来

2-2-3 岐阜城年表

2-2-4 土岐成頼・斎藤妙椿 墓

2-2-5 絹本著色土岐重頼像