豊原寺跡

豊原寺跡
 豊原寺は白山豊原寺と号し、平泉寺と並ぶ白山信仰の巨刹であった。「白山豊原寺縁起」によれば、大宝2(702)年「越の大徳」泰澄により開かれたとされ、源平合戦時には木曽義仲に従い、さらに南北朝の抗争では 、一時南軍に組みしたこともあるものの守護斯波氏(北軍)を助け、朝倉氏時代にもこれに従いその規模を大きくし、発展した。 
『朝倉始末記』によれば、朝倉氏と一向一揆が激突した越前史上最大の戦いといわれる九頭竜川大決戦の翌年、一揆軍は再び越前侵攻を試み、豊原寺に押し寄せるが、明王院、華蔵院をはじめ一丸となりこれを撃退している。
戦国期には多数の僧兵を擁して、周辺には僧坊が建ち並び、「豊原三千坊」と呼ばれるまでに勢力を伸ばした。 
しかし、戦国の動乱は越前にも波及。
天正元年、織田信長の越前侵攻のまえに、8月20日朝倉義景は自刃、朝倉氏は滅亡に追い込まれる。しかし一向門徒は無傷のまま残り、信長が引き上げると、朝倉旧臣の勢力争いを引き金にして、一向門徒が蜂起、 豊原寺は今度は一向一揆に与し、その大将であった本願寺の下間頼照が一揆軍の総帥として豊原寺に本陣を置いた。
このため、天正3年織田信長が一揆討伐のため再び越前に攻め入ると、拠点であった豊原寺は坊舎を含めすべて焼き払われた。 
一揆壊滅後、信長は越前支配を柴田勝家に委ねるが、勝家は養子(甥)の勝豊を要害の地である豊原に置き、勝豊は築城に着手する。しかし、谷間である豊原の地形では発展は望めず、豊原寺から西に4kmの段丘に丸岡城を築城する。
これに伴い寺院や住民も移り、豊原は急激な衰退に見舞われた。 関ヶ原の戦いの後、越前に入部した結城秀康が50石を寄進し、これにより寺院として再興されたものの往時のような繁栄には至らず、明治元年の神仏分離令により廃寺となった。豊原寺跡へは丸岡町田屋から行くことができる。 丸岡の中心部から東に向かい、丸岡高校の横を通り、北陸高速道の下をくぐり抜けたところが田屋である。
田屋集落には小さな看板が出ており、それに従い車を林道に進める。林道入口付近に大きな史蹟案内看板が設置されており、そこから林道を1.5kmほど東に入るとキャンプ場があり、その付近に地蔵堂ある。
ここを左に折れて細い道を進むと行き止まりの小広場となり、そこが豊原寺史蹟の中心部となる。
『朝倉始末記』にも登場する華蔵院の跡や講堂跡(伝)が残り、さらに講堂跡付近の石段を登っていくと白山神社(権現山)に至る。
(引用:http://okhome.fc2web.com/castle/maruoka/toyohara.html)