近代建築の名工・坂下甚吉

近代建築の名工・坂下甚吉
坂下甚吉
 高山における近代建築の発展に最も貢献した人物といえば、第一に八代目の阪下甚吉(註1)をとにかく上げなければならない。
 彼の残した偉大な業績について『技・巧・人 阪下甚吉』(平成6年 阪下ゆかり編集発行)が詳しい。
 高山及び近郊の近代に建てられた建築物を調べると、その多くが名工の惚れ高い阪下甚吉の手によるものであることが多い。「阪下甚吉」とは代々続いた工匠の名前で、その詳細は明らかではないが、五代目より工匠らしき事跡が見え、大工としては9代まで続いている。その代々の阪下甚吉の中でもとりわけ、その作品数、質ともに他を圧倒しているのが、八代甚吉である。
 八代甚吉の生年は万延元年(1860)10月2日、現在の高山市上川原町で、七代甚吉の長男として生まれたとされている。襲名以前は「万蔵」と称していたが、明治22年(1889)29才のとき八代「甚吉」を襲名した。
 修業時代の彼は、父であり、また概ね偉大な工匠であった父七代甚吉の後につき、大工としての建築技術を修得していく。時代は明治の新時代を迎え、各地で文明開化の名のもとに多くの洋風建築が作られるようになり、ここ山深い飛騨の地にもその影響が少なからず及ぼうとしていた。
 明治新政府は国家の近代化の図るにはまず教育の近代化を推し進める必要があるとして、各地に近代化を象徴する学校建築を建てさせた。
 明治9年には飛騨地域で初めての洋風建築である煥章学校(P27)が建築され、明治13年には山口区上野(現高山市山口町)に開文学校が開かれた。2つの学校は中央に塔屋を頂き、隅石やアーチ窓を取り入れるなど洋風の意匠をふんだんに取り入れた華麗な建物であった。
 若き日の甚吉がこうしたそれまで無かった新しいデザインを取り入れた建築に身近に触れ、大きな影響を受けたであろうことは想像に難くない。
 そうした彼が自ら西洋建築に取り組む時がやってきた。当時は日本の近代化を推し進め、外貨を獲得しうる数少ない産業として製糸業があった。飛騨においても伝統的な座繰り製糸から近代的な技術を導入した施設として、器械製糸の工場が出来つつあった。森佐兵衛らによる「開山社」(明治8年)、直井佐兵衛の「永昌社」(明治13年)など、あいついで大規模な製糸会社が設立され、製糸産業の全盛期を迎えていた。
 そうしたさなか、永田吉右衛門は「三星製糸場」「三星織工場」の設立に向かう。8才の頃から永田家の出入であった甚吉は、大工として旦那である素封家永田家の普請を引き受けるようになっていたが、無論製糸工場のような近代的設備を伴った洋風建築を手がけたことは無かった。
 永田はそんな甚吉を伴い、西洋建築が多く存在していた東京、そして官営模範工場としてフランス人技師が設計した群馬の富岡製糸場(明治4年建築)まで見学に行っている。この機会に甚吉は洋風の小屋組トラスの組み方や、洋式デザインなどの多くを学んで来た。高山に帰ってきた甚吉は実際の建築の際には多分に悩みながら、自分が見てきた洋風建築を見よう見まねで模範しようとしたに違いない。こうして明治21年に飛騨初の洋風工場建築である三星製糸場は完成する。伝統的な木造の技法を生かしながらなんとか洋風を消化しようと懸命に努めている様が伺える建物で、こうした建物を建築史では「擬洋風建築」という。甚吉若干28才の時の作品である。
 鮮烈なデビューを果たした甚吉はその後も精力的に建築活動に取り組んでゆく。
 高山町役場(明治28年、P18)は瓦を並べてた屋根の豪勢な景観や、吹きガラス、華模様の鉄欄などハイカラなイメージを取り入れた、永田町長の考えた新しい高山の創出にふさわしい庁舎であった。
 明治36年には桐生町に高山測候所(P14)明治43年には正雲寺本堂など、和様を問わず様々な建物を残している。
 押上邸(大正2~5年、P22)では和風の本宅と洋風の別館を併置し、両者を廊下で繋ぐという飛騨では珍しい方式の邸宅を作り上げた。大正2~3年に上一之町の永田邸、同4年には同じく上一之町の平瀬邸など旦那衆と呼ばれる家の邸宅を手がけている。平瀬邸には伝統的な外観の町家内部に数奇屋風の瀟洒な茶室、離れが設けられている。
 彼は大変に頭の回転が早い人物だったらしい。数学に長じており、ソロバンの名手でもあった。立体幾何を解釈し、規矩術を自由にあやつり、間取りや部材の寸法を設計すればその図面は大変正確だったとのことである。その明晰な頭脳に加え、新しい技術や素材に対する受け入れも早く、学ぶ意欲も相当なものであったのであろう。
 また、大変に仕事熱心で、昼間は弟子達と現場で休む間もなく働き、夜は図面作成や設計の仕事を遅くまで続けていた。
 名工として名が知られていた阪下家には大工としての教えを請うものが多く、弟子入りは大変困難だったようであるが、何人もの優秀な弟子が甚吉門下を巣立ち、飛騨の匠の技を継承している。弟子は八代九代を合わせ総勢40名を数えるといい、その中には畑由兵衛、下島一郎、堀新造、八野忠次郎などがいた。
 私生活では甚吉は明治19年に26才で結婚し3男7女の子供をもうけるが、幼い子供達を流行の感冒などで次々に失うこととなってしまう。
 昭和5年2月2日、数えで71才の冬、八代甚吉は家族に見守られながら大往生を遂げる。葬儀は九代甚吉が完成させた神田町の霊雲寺にて営まれ、墓も同所に建てられた。そのわずか2年後の昭和7年、息子であり将来を嘱望された後継者九代甚吉もわずか29才で早世してしまう。これにより飛騨の匠の系譜としての阪下家は途絶えることになる。
坂下甚吉とその建築 国立岐阜工業高等専門学校・教授  水野耕嗣
 飛騨は「飛騨匠」(註1)の語彙で知られるように、古代より木造建築の技術に秀でた大工が数多輩出している。その一系統に、江戸末期より明治・大正・昭和初期にかけて、高山を中心に飛騨一円で活躍した「坂下家」がある。
 この坂下家は9代続いた工匠であると伝えられているが、初代より4代までは系譜およびその建築的業績は不詳である。また5・6代は工匠らしいものの、僅かに歿年が記録されるのみで、作品の詳細は不明である。坂下家で本格的な工匠としての業績が判明するのは7代目以降である。
 そこで本研究では、この坂下家の初代より9代までの建築的業績を明らかにすることを主眼に、坂下家の建築の特長に触れようとするものである。
 さて、その坂下家に関する従来の研究としては次記のようなものがある。
①笠原烏丸「近世飛騨の木匠について(七)」(註2)
②富田令禾「ひだのたくみ雑考(九)」(註3)
③八野忠次郎「たくみ達が歩んだ道」(註4)
この①は飛騨工匠の一人として坂下家を取り上げ、たんに歴代の建築業績を列記しただけではあるが、飛騨大工の坂下甚吉の系統を初めて纏めたものとして注目すべきである。
 しかし②は、①を後年に再録したにすぎない。さらに③は8代坂下甚吉の高弟にあたる著者が、師匠たる8代甚吉の人柄・性格などについて述べたものであり、建築業績は記されていない。
 以上のごとく、坂下家の系譜・建築業績に関して体系的に明らかにした研究は未だ無いといってよい。
 なお姓の「坂下」と「阪下」の記法であるが、従来より「坂」の字で書かれたものが多い。例えば先記、笠原烏丸「近世飛騨の木匠について(七)」、富田令禾「ひだのたくみ雑考(九)」、八野忠次郎「たくみ達が歩んだ道」、長倉三郎『ブルーガイドブックス高山と飛騨路』、山本茂美『高山祭』、日本建築学会東海支部編『東海の明治建築』、同『東海の近代建築』、『高山市史』などがそれである。
 これは、文化13年(1816)の高山郡役所(陣屋)改築時の板書に「(惣大工)坂下甚吉」とあり、また『清見村史』収録の藤瀬神明神社棟札の記載に「棟梁高山 坂下甚蔵秀富」とあるので、江戸時代には土偏の「坂」を使用していたことが判明する。しかし明治8年(1875)竣工の永田家文庫蔵の棟札には「阪下甚吉」と、阜(こざと)偏で記されている。また、坂下家の子孫にあたる故坂下利一氏より戴いた『除籍謄本(写)』によれば、明治19年(1886)頃には「阪」を使用しているので、「坂下」家は明治初期の戸籍作成の折に阜偏の「阪下」姓に改変したことが推測される。この坂から阪への変化は、かつて「大坂」では土に還るということで嫌われて「大阪」に変更した経緯が想起される。
 ところが明治43年(1910)10月成功の本覚寺本堂(上宝村)棟札には「坂下甚吉」と土偏で、さらに大正5年(1916)工事が完了した押上邸西洋室の棟札にも「棟梁大工 坂下甚吉」と記載され、明治末・大正初期には「阪」が再び「坂」に戻ったように曖昧に使われている。
 また8代甚吉の高弟であった八野忠次郎氏でさえ「阪」でなく「坂」で記述しているほどである。(註5)
 一般に棟札は必ずしも大工棟梁が自書したわけではないので、古くからの土偏で書かれた可能性が強い。従って、建築工事では「坂下」を、日常生活では「阪下」を使い分けていたことが推されるので、本稿では一応、建築界で流布した「坂下」を使用する。
 以下歴代の坂下甚吉家の建築的業績とその建築の特色を、遺構を主体に見てゆきたい。
歴代坂下甚吉とその建築業績 国立岐阜工業高等専門学校・教授  水野耕嗣
1・1 初代~四代
 坂下家を最初に研究された笠原烏丸氏の「近世飛騨の木匠について(七)」によれば
  坂下家は、九代継承した工匠であると伝えられているが、初代より四代までは、全くその系譜をあきらかにしない。
とある。また坂下家の『過去帳』は、5代甚蔵から記し、初代より4代までは記載が全くない。また、各種記録・文献や棟札等史料にも、坂下家の建造物関与の記載は、初代より4代までは管見しない。
 以上のことより、初代より四代までは工匠で継続したのか判断は出来かねる。
1・2 五代甚吉(甚蔵)
 「近世飛騨の木匠について(七)」によれば、「五代甚吉 安政六年六月九日歿」とあるのみで、六代の後に
  右の五、六代とも歿年が判明せるのみにて、他は一切不明、工匠なりしか否かも詳らかでない。
と記されている。しかし8代甚吉の『除籍謄本』によれば、その曾祖父、つまり、5代の名は「甚蔵」と記し、上記した「甚吉」とは未だ呼称していたのではないことが伺われるし、また上記にあるように、工匠としての業績は明らかではない。
 しかし、僅かに高山陣屋の文化度の改築工事の棟札(技術者板書)に
  文化十三丙子年/閏八月吉祥日 大工棟梁小峰平助/小島喜兵衛/同町棟梁加藤政蔵/谷口五兵衛/惣大工/中田惣右衛門(中略)坂下甚吉/(以下略)
とあって、飛騨での「坂下甚吉」名の初出が文化13年(1816)であることに注目したい。
 しかし大工棟梁、大工町棟梁に次ぐ惣大工で、しかも第5番目に墨書されていることから判断すれば、大勢の大工の中の一人といった程度である。
 また『清見村史』には次のような記載がある。
  藤瀬神明神社
 是時弘化三年丙午九月二十九日 棟梁高山 坂下甚蔵秀富(以下略)
 この「坂下甚蔵秀富」なる人物は、5代・6代の名乗りがともに「甚蔵」であることより、5代・6代いずれかであると考えられる。また建立の年次が弘化3年(1846)であることから考えても、5代と6代どちらも生存時のことであり、いずれもが該当するので俄かには決められないが、「甚蔵」が襲名して「甚吉」を名乗ると考えれば、この藤瀬神明神社の建設は6代の方に妥当性がある。
 なお5代の歿年は、先記のように安政6年(1859)5月9日であり、坂下家『除籍謄本』でも確認できる。しかし、法名は「釋 聰瓊」というものの、享年は不詳である。
1・3 六代甚吉(甚蔵)
 「近世飛騨の木匠について(七)」によれば、先記したように
  歿年が判明せるのみにして、他は一切不明、工匠なりしか否かも詳らかでない。
とある。しかし八代甚吉の『除籍謄本』によれば、その祖父、つまり6代の名は「甚蔵」といい、「甚吉」との名乗りは定かでない。
 彼の工匠としての活躍は、年次からは前項で述べたように、藤瀬神明神社建立に関与した可能性が強い。この場合、棟梁として筆頭に記されていることから、父甚吉の元で修業して十分技術を得ていただけでなく、5代甚吉の親の威光が多少感ぜられる。
 なお8代甚吉の『除籍謄本』によれば、8代甚吉の祖父(つまり6代甚蔵)の妻「はや」が5代甚蔵の長女(文政2年4月6日生)であることにより、6代甚蔵はこの長女「はや」の婿養氏である。
 歿年は「近世飛騨の木匠について(七)」では明治27年(1894)11月9日といい、坂下家の過去長でも明らかである。なお享年不詳で、法妙は「釋 證念」という。
1・4 七代甚吉(甚三郎・甚吉・與吉)
 7代甚吉の生歿については「近世飛騨の木匠について(七)」には
  歿年その他は全く不明である
と書かれている。8代甚吉の『除籍謄本』には、「出生 天保四年(1831)九月十六日」とある。しかし出自については「近世飛騨の木匠について(七)」によれば
  七代甚吉は、富山の大久保より坂下家に入った人で、甚三郎、また、典吉(すけきち)と称した。
とある。(註6)上記の大久保とは「越中国上新川郡大久保村」のことらしく(註7)、ここから7代甚吉が坂下家へ入ったことになる。ところが8代甚吉の『除籍謄本』によれば「岐阜県吉城郡上宝村 平民 亡瀧本市助二男 入籍ス」となっていることから、7代甚吉は富山県ではなく、地元の吉城郡上宝村の瀧本家から坂下家へ養子縁組により入籍したものと考慮される。(註8)
 なお8代甚吉の『除籍謄本』によれば、7代甚吉は明治22年(1889)1月8日に名乗りの「甚吉」を「與吉」に改名しているが、これはこの日に嫡男である万蔵が8代「甚吉」を襲名したためである。
 従って上記にある「甚三郎」という名前は、彼が7代甚吉を襲名する以前の名乗り、とくに甚の字を用いるところから推測すれば、師匠甚蔵の弟子で一人前の腕を持った大工であったと考えられる。
 彼の業績は「近世飛騨の木匠について(七)」によれば次がある。
  (一)高山市大雄寺の六角堂
  (一)同  大雄寺の弁天堂
 ここで(一)の大雄寺の六角堂については、芯柱に安政年の記載はあるものの「坂下」名の大工をば確認できない(註9)。また(二)の大隆寺の弁天堂については、同寺所掲の立札により享和元年(1801)5月に高山の大工善兵衛、小左衛門の手で建てられていることが判明している。また7代甚吉が生まれたのは天保4年(1831)であり、弁天堂の建立時の享和元年(1801)は生誕以前であって、建設に関与は不可能となる。よってこの笠原氏記述の7代甚吉の2棟の建造物の業績は否定せざる得ない。
 なお8代甚吉の弟子である八野忠次郎氏の教示によれば「高山市 了心寺本堂建立」が業績という。しかしこの本堂建立の年次については『大八賀村史』によれば「万延元年(1860)頃の建立というが、古老の言によるため確かではない」とある。とはいえこの年号を是認すれば、7代甚吉が29歳の頃となり、年齢的にはこれを彼の業績としてもよいと思われる。
 彼の歿年は『除籍謄本』で明治40年(1970)11月1日とあり、享年96歳となる。なお阪下家の過去帳には法名は「釋 良縁」とある。
1・5 八代甚吉(万蔵・甚吉)
 8代甚吉の生誕については、『除籍謄本』によれば「出生 万延元年(1860)十月二日」と記載されている。またその『除籍謄本』によれば、8代甚吉は7代甚吉の長男であり、襲名以前は「万蔵」と称していたが、明治22年(1889)1月8日、29歳の時に、父である7代「甚吉」の名跡を受け継ぎ、8代「甚吉」を襲名している。彼のことは「近世飛騨の木匠について(七)」によれば
  七代甚吉の嫡男である。父業を継承、工匠をこころざし、笠原甚七長則(烏丸氏の曾祖父)に師事、工匠としてその技の優秀をうたわれた。
と記し、またその業績については下記している。
  (一)別院大門の副棟梁 明治四十三年
  (二)古川町の本光寺本堂
  (三)高山市の天満宮拝殿
  (四)同  善応寺の六角堂
  (五)同  黄金神社社殿
  (六)同  正雲寺本堂
  (七)同  勝久寺の本堂
  (八)同 故押上森蔵氏邸宅(註10)
  (九)同 永田氏の土蔵(現郷土館)
なお、上記の業績のうち、ここで少し疑問を持たれるものについてだけ見てみると、先ず(三)の高山市の天満宮拝殿が8代甚吉の業績として記されているが、8代甚吉の高弟八野忠次郎氏の教示によれば、9代甚吉の業績という。この建立年次は昭和2年で、甚吉67歳という高齢であり、名目上建てたとしても、実際は実際は9代甚吉が棟梁を務めたものであろう。
 次に(五)の高山市の黄金神社社殿についてであるが、これは八野氏の教示によれば建立は江戸末期ということである。8代甚吉の生誕は万延元年(1860)であり、建立年が江戸最後の年として慶応4年(1868)を仮定しても、甚吉は僅か8歳にすぎない。たとえ8代甚吉がいかに秀でた大工とはいえ、8歳での棟梁担当は不可能であろう。なおこの黄金神社社殿の建立年時を記した史料が皆無であるため、若し坂下家の作品とすれば8代でなく、7代の業績ということになろう。
 (七)の高山市の勝久寺本堂については、8代甚吉の三女かず氏による『覚書』(坂下家蔵)には次のように書かれている。
  勝久寺(中途にて父甚吉発病)
 このように8代甚吉はこのまま病床につき、建前(昭和5年12月30日)を待たずして、同年(昭和5年)の2月2日に死去している。従ってこれは8代甚吉の着手した仕事ではあるが、途中から9代甚吉がこれを引継いだので、9代甚吉の業績に加えるべきともいえよう。
 また(九)の永田家土蔵(現・高山市郷土館)は同館所蔵棟札によれば「阪下甚吉」により明治8年(1875)11月吉日の建造とある。この年次だけから見れば、8代甚吉が弱冠15歳の時に建てたことになるが、余りに若い年齢の点で疑問が持たれる(註11)。しかし8代甚吉の後の活躍から見て、卓抜した技量を秘めていたこと、また永田家でも本宅ではなく土蔵であること、また親たる7代甚吉の後盾があったことなどの背景を考慮すれば、譬え15歳でも不可能ではないだろうが、「甚吉」の名跡を8代が踏襲したのは後の明治22年1月8日であることから、この明治8年時は未だ7代での名乗りである。よって土蔵の棟札の「甚吉」は7代のことであり、8代は15歳で親の下で仕事をしたことが、後に8代「甚吉」の華々しい活躍で、若年まで遡及させ、結局7・8代を混同したものということになる。
 さて、笠原氏の列挙された8代甚吉の先記業績は、寺院・神社など和風建築のみであることに注目せねばならない。
 実際彼の初期の活躍は、社寺建築というよりむしろ洋風建築に取り組んだといった方がよいであろう。三星製糸所を皮切りに(註12)、高山町役場(註13)、高山測候所(註14)、高山尋常小学校、広瀬郵便局、押上邸洋館(註15)など、手法は伝統的な和風の技術を駆使しながら、構造・材料・意匠面などで、近代洋風建築をこの山間地の高山に持ち込み、文明開化の息吹を形として具現化していったことにある。
 なお後の多くの社寺建築は代々得意のものであり、とくに言を要しないであろう。
8代甚吉の弟子については「近世飛騨の木匠について(七)」によれば
  現在、斐太高校の教官である八野忠次郎氏、岐阜県工芸指導所勤務の畑由兵衛の両氏はその高弟である。
とあるので、八野忠次郎および畑由兵衛両氏を弟子としていることが分かる。
 家族面から8代甚吉は、明治19年6月3日に高山の船阪清兵衛の二女「ミ祢」(明治2年1月2日生)と婚姻をなし、同年6月12日に家督を相続、子供は三男七女に恵まれている。
 8代甚吉の歿年は『除籍謄本』によれば昭和5年(1930)2月2日で、享年70歳であり、また阪下家の過去帳によれば、法名は「釋 慈堅」といいう。
 なお8代甚吉には異父弟がいたらしい。名を三枝伊兵衛一光という。高山別院の大門に兄甚吉を助け彫刻に腕を振るったという(註16)。
1・6 九代甚吉(久吉・甚吉)
 「近世飛騨の木匠について(七)」によれば、九代甚吉は
  八代甚吉の嫡男である。本名は久吉、甚吉と襲名した。父祖の業を継承して工匠となり、将来を嘱目せられたが、惜しくも二十九才にせ早世した。昭和七年八月十四日歿。
とある。ここには9代甚吉は8代の嫡男と記されているが、8代甚吉の『除籍謄本』によれば、嫡男は「甚造」といって5歳の時に他界しており、久吉は二男である。従って正確には久吉たる9代甚吉は8代の二男であるので、嫡男というのは錯誤である。
 なお『除籍謄本』によれば、久吉は8代甚吉の死去の翌年、つまり一周忌直後の昭和6年(1931)2月7日、27歳で9代「甚吉」を襲名している。
 さて作品については「近世飛騨の木匠について(七)」によれば
  (一)吉城郡坂下村(註17)打保金勢明神の社殿
  (二)古川町円光寺の鐘堂
  (三)高山市江名子の清伝寺
が記されている。また、八野忠次郎氏の教示により業績を加えると下記がある。
  (一)高山市霊雲寺本堂
  (二)同  住吉神社
  (三)同  飛騨護国神社内大神宮
  (四)同  鉢ノ子地蔵堂
  (五)同  田近氏邸
  (六)同  日赤病院本館
 このうち(六)の日赤病院本館は坂下家の多大なる業績の中で唯一の病院遺構であるが、改築のために旧態を逸している。また八野氏の教示によれば、この建物の竣工は、昭和8年(1933)ということであるが、9代甚吉の襲名翌年の昭和7年に死去しているので、これは着手したものの完成させたものではないことになる。以上の業績の他に前項(5)にて考察した「天満宮拝殿」と「勝久寺本堂」も9代甚吉の業績に加えておくことにする。なお田近邸は、八野氏のいう高山でなく、古川町の旧町長宅のことであり、現存している。
 また9代甚吉の『除籍謄本』による彼の生誕・歿年などには次のごとくである。
  出生 明治参十七年(1904)五月十八日 昭和七年(1932)八月十四日死亡
ここで、先に記した「近世飛騨の木匠について(七)」においては、9代甚吉は「二十九歳にして早世した」となっているが、これは数え年のためであろう。
 妻は、大野郡大名田町の野川庄兵衛・こう夫妻の長女「津喜江」(明治41年10月13日生)であり、2女を儲けている。阪下家の過去帳によれば、9代の法名は「釋 慈敬」である。
 阪下家の系譜について            国立岐阜工業高等専門学校・教授  水野耕嗣
 先章による歴代坂下甚吉を阪下家の『除籍謄本』及び『近世飛騨の木匠について(八)』により、その系図を作成すると表1のようになる。
 坂下甚吉5代以前は全く不明で、5代から「甚蔵」が2代続き、7代より9代にかけて3代が「甚吉」を名乗るようで、当初から「甚吉」を踏襲したとは確認しにくい。5代甚吉の長女は名前が判明すものの、6代甚吉の娘で8代甚吉の母親の名は不明である。
 なお8代甚吉のみ3男7女に恵まれ、以前の世代は子供に恵まれないようにみえるが、これは系図上の記載の問題であり、実質の系図については別表(阪下家系図)を参照されたい。
 八代坂下甚吉の師匠について国立岐阜工業高等専門学校・教授  水野耕嗣
 「近世飛騨の木匠について(七)」によれば、「(前略)笠原甚七長則(烏丸氏の曾祖父)に師事、(後略)」とある。
 さて、その笠原甚七長則とは、喜四郎吉政の長男で、天保7年(1836)生まれである。後年御用大工の筆頭に命ぜられたり、一ノ宮大宮司より「神坪次第」の免許を受領するなどからみて、優秀な工匠であったと推定される。
 建築業績としては、明治11年(1878)高山別院本堂の設計図を作成している。その他には高山中教院本堂(明治12年)、それに金沢市の八幡神社(年代不詳)がある。近代建築も手掛け、明治13年(1880)に芳国舎渋草製造所の建築にたり、それが縁でか、渋草焼の祖である三輪源兵衛の邸宅を建築したと伝える。その他、土川宗佐エ門邸を建築した。
 なお彼は建築だけでなく『番匠義定書』の執筆(明治16年)や『大和めぐり』などの見学紀行文などの著述がある。また彫刻・絵画に造詣が深く、「甚七ふいご」の制作には妙を得ているという。(註18)
 8代甚吉は、この甚七について修業したもので、四天王寺流の和様の建築技術を持つ笠原に師事(註19)したことから、当然同流の技法を取得したものといえる。

1 田辺泰・渡辺保忠「飛騨工孝」(『日本建築学会論文集』第39号 昭和24年)、渡辺保忠「建築生産」(『建築学大系4-1日本建築史』)、笠原烏丸「近代飛騨の木匠について」、伊藤ていじ「飛騨の匠」(『カラー飛騨の魅力』)など。
2 笠原烏丸「近世飛騨の木匠について(七)」(『飛騨春秋』13号 昭和32年6月)所収
3 富田令禾「ひだのたくみ雑考(九)」(『飛騨春秋』136号 昭和43年10月)所収
4 八野忠次郎「たくみ達が歩んだ道」(『飛騨の匠』昭和52年7月)
5 註4参照
6 註2は基本的に阪下家の除籍謄本を見て書いたと思われるが、この「典吉」を謄本にない「すけきち」と振り仮名まで付けている。しかし除籍謄本は「與吉」とあり、與を紛らわしく「典」と誤読したものと判断される。因みに「與」は「与」であり「与吉」となる。
7 旧地名での「大久保」は、高山との距離や字名よりみて現在の「大沢野町」のことと判断される。(『増補大日本地名辞書5北国・東国』、『角川日本地名大辞典16富山県』)
8 この件は除籍謄本にはその記載はなく、笠原氏が何の資料を基に富山の大久保から養氏に入ったとされたのか不詳であるが、6代目も養子であるので、それを錯誤したとも考えられる。
9 大雄寺住職談。
10 本宅は照蓮寺に庫裏として移築、西洋室は旧地に遺存。
11 しかし別の『飛騨の匠』に「8代阪下甚吉は弱冠19歳で永田家の棟梁を務めた」とあり、年齢で先記とは4年の差がある。8代甚吉を19歳として逆算すれば明治12年(1879)となるが、棟札に八代甚吉とあるわけではないので、これを是認すれば8代甚吉の誕生年に疑義が持たれる。
12 伊藤三千雄「大倉飲料株式会社工場(旧三星製糸所)」(『東海の明治建築』所収)
13 伊藤三千雄「高山市公民館(旧高山町役場)」(『東海の明治建築』所収)
14 伊藤三千雄「飛騨民俗村山岳資料館(旧高山測候所)」(『東海の明治建築』所収)
15 水野耕嗣「ヨガ整体道場(旧押上邸洋館)」(『東海の近代建築』所収)
16 笠原烏丸「近世飛騨の木匠について(七)」(『飛騨春秋』14号 昭和32年7月所収)によれば、彫刻師としての兄の8代甚吉と協働した異父弟として三枝伊兵衛一光の存在を記されている。笠原氏は彼が高山市仲町に居住していたことを記憶しておられるので、虚言として退けることはできないのであろう。
17 現・宮川村
18 笠原烏丸「近世飛騨の木匠について(七)」(『飛騨春秋』9号 昭和32年1月所収)
19 内藤昌『近世大工の系譜』(ぺりかん社 昭和56年刊)
114-1~5の引用文献
『技・巧・人 阪下甚吉』(平成6年 阪下ゆかり編集発行)
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月