金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配

金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配
金森左京家 白崎陣屋址
ここは金森家の分家である金森左京家の陣屋址である。金森家の初代である金森長近は信長・秀吉・家康に仕えた戦国武将で、信長の時代には越前大野を支配する大名となり、大野城の築城や大野の町づくりに努めた。秀吉に仕えた長近は飛騨国38,700石余を統治し、大野での経験をもとに高山城築城や高山の城下町の整備に尽力した。また長近は関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康からその戦功により加増を受けた。
その後元和元年(1615)金森家第3代領主となった重頼が家督を相続した際に、重頼の弟である重勝は領内より3,000石を賜り分家し、代々金森左京と称した。金森左京家はこのように領内分知により成立し、のち旗本となった。これが金森左京家の始まりである。
100年余にわたり飛騨国を支配した金森本家は、元禄5年(1692)ついに出羽国上山(かみのやま)(現山形県上山市)へ転封となった。その5年後には美濃国郡上八幡(現岐阜県郡上市)へ移り、左京家は本家と共に移動をした。
郡上八幡では本家第7代金森頼錦(よりかね)の代に領内において、郡上宝暦騒動(郡上一揆)が起こり、その責任を追及された金森家は宝暦8年(1758)に改易となり、所領没収となった。しかし幕府は金森家が信長以来の名家であり、その断絶を惜しみ、分家である左京家に名跡を継がせ、3,000石をそのまま下し置かれた。
翌年の宝暦9年、左京家は新たに越前国南条郡(白崎村・清水村・牧谷村)、今立郡(大手村・西尾村・上大坪村・萱(かや)谷村)の計7か村、およそ3,000石を賜った。ここに越前における金森左京領が成立し、この白崎村に陣屋が建てられた。金森左京家第4代領主可英(ありてる)がこの地に入府したのは、明和4年(1767)のことであったという。
金森左京家は旗本のうち交代寄合に列せられ、江戸城表書院で将軍に拝謁できる表御礼衆20家の1つに数えられた。隔年での参勤交代が義務付けられ、この陣屋から行列が出発し、江戸屋敷まで参勤交代が行なわれた。左京家は、まさに大名並の格式を持っていたのである。
この陣屋において明治維新まで8代100余年にわたり、左京家の知行統治が行なわれた。その後大正14年(1925)5月、左京家の厚恩に感謝して、領内牧谷村の宮地義(ぎ)平(へい)が中心となり、この場所に「金森家之碑」が建立された。
陣屋は明治初年には取り壊され、碑の前の鬼瓦や庭の泉水、築山、井戸の跡などにその面影を残している。
説明板より

本保陣屋
本保陣屋は、越前国内の幕府直轄領を支配していた役所で、幕末には丹生郡や今立郡、大野郡などの175か村余、約50,000石を統治していた。享保6年(1721)に初めてこの地に設けられ、一時廃止されたが、延享元年(1744)に再び設置された。その後、明和4年(1767)に飛騨高山郡代の支配下におかれ、明治まで存続した。
明治2年(1869)に本保県が成立すると、旧陣屋が県庁に当てられ、一部の建物を改修したり、新築して明治4年7月に開庁した。しかし、4か月後の11月に本保県は廃止され、明治6年頃までに、旧陣屋の建物はすべて取り払われた。
この図は、天明元年(1780)から寛政元年(1789)頃の「本保陣屋絵図」(本保区有文書)に基づいて、江戸時代の本保陣屋の建物の様子を復元したものである。
周囲に幅4尺ほどの惣堀(そうぼり)が廻り、土塀に囲まれた敷地は、東西約42間、南北方向は西辺が約40間、東辺が約28間で、広さは1,500坪余であった。
中央に玄関や西座敷、台所、白(しら)洲(す)(裁判)などからなる「御本陣御用場」があり、正面東側の細長い建物は、正門を備えた「御門長屋」である。「北長屋」や「西長屋」は役人たちの住居と考えられ、ほかに土蔵や小屋、稲荷社などの建物もみられる。これらの建物は、延享の再営時の記録である「御陣屋御普請諸入用勘定目録」(本保区有文書)にみられる。いずれも茅葺きの建物であったと思われる。
なお、「御本陣御用場」の玄関と台所部分は、それぞれ渡辺国重家(鯖江市上氏家町)と中出俊臣家(武生市広瀬町)に移され、現在も残っている。
(福井工業大学・吉田純一)

 

関連資料

2-27-1 金森左京家 白崎陣屋址

2-27-2 本保陣屋