金森氏6代頼旹、第7代頼錦の郡上八幡城下

金森氏6代頼旹、第7代頼錦の郡上八幡城下
山形から郡上へ国替え
①頼旹から頼錦(よりかね)へ
(①は『金森史』一三四~一三七頁より)
元禄十年(一六九七)六月、幕府は金森頼旹(よりとき)に出羽国上山から、美濃国郡上八幡へ所(ところ)替(が)えを命じた。郡上郡百二十一か村(村高二万四千石)と越前国内で六十九か村(村高一万五千石)の合計三万九千石を治めることになった。元禄五年(一六九二)七月、飛騨高山から上山へ移り、五年で再び郡上に国替えとなったのである。
「長滝寺(ちょうりゅうじ)荘(そう)厳(ごん)講(こう)執(しっ)行(ぎょう)帳(ちょう)」の中に、頼旹は、元禄十一年(一六九八)七月六日午後六時頃、三百余人の家来を引き連れて、八幡城へ入城したことが記されている。翌十二年には、参勤(さんきん)交代(こうたい)のため江戸へ赴(おもむ)いた。頼旹のその後の様子は、「鷹の書」の本を書いた以外わからないが、前藩主井上家の方法を受け継いで行なったものと思われる。
頼旹は元文元年(一七三六)五月、六十八歳で江戸芝の邸において亡くなった。
頼旹の後は、息子の可寛(ありひろ)がすでに亡くなっていたので、孫の頼(より)錦(かね)が元文元年(一七三六)十一月、二十三歳で相続した。頼錦は、天文学を研究したり、詩歌や書画を愛する風雅な性格であった。
東常縁(とうのつねより)(郡上篠脇城主)の遺風を慕い、白雲水の碑(東常縁が宗(そう)祇(ぎ)に古今伝授をした由来による)を建て、歌集白雲集の編纂(へんさん)をしたり、多くの書画を書いている。藩政については、八幡城下の宮が瀬の傍らに目安箱(めやすばこ)を設け、領民の声を聞いて藩政に反映させようとした。
延享四年(一七四七)、頼錦は幕府の奏者(そうじゃ)役に任ぜられている。この役目は、大名などが将軍に謁見(えっけん)する時、姓名を申し上げ、献上物の披露をしたり、将軍からの下(か)賜(し)物(もつ)を伝達する役目である。
いつも将軍の側近くで仕えるために、かなりの器量人でないと、勤まらなかったといわれる。また、諸大名との交際も多くあるために、生活も派手になりがちであった。しかも、奏者役に任ぜられる前に、江戸芝の藩邸の新普請で五千両余を費やし、その費用調達に随分無理をしたので、藩財政はかなり苦しくなっていった。そこへ、奏者役になったため、出費がさらにかさむことになった。
これを補うため、二か年分の年貢を前借したり、領内の口番所
(関所の小さいもの)からの税を増やしたり、さらには、日(ひ)傭(やとい)稼(かせぎ)の者からも「日(ひ)役(やく)」という税を取ったりした。それでもなお経費が不足するので、最後の手段として、これまでの定免(じょうめん)法(数年間一定の免の率を定めて取る方法)から、検(け)見(み)取(どり)(年毎に収穫高を計算して免(めん)(貢租の割合)の率を定めて取る方法)に改めようと
した。この方法になると、農民側ではこれまで公然と持っていた隠し田が見つかったり、検見のための坪刈りの方法によっては、過酷な年貢になる心配もあった。
②金森頼錦(金森氏第七代)
(②は『越前大野城と金森長近』一四六頁より)
頼錦(又太郎、兵部)の祖父は頼旹、実父は長門守可寛、母は家女、妻は駿州田中城主、本多伯耆守正永の女である。正徳三年(一七一三)江戸に生まれ、享保十四年(一七二九)九月三日祖父頼旹の願の通り、嫡孫として後を継ぐことになる。
享保十四年(一七二九)九月二十八日将軍家継公、家重公へ御目見、巻綾二、馬代献上した。同年十二月十六日従五位下若狭守敍爵。
元文元年(一七三六)七月十八日、頼旹の遺領頂戴し兵部少輔となった。
元文元年(一七三六)七月七日、西丸登城のところ勅使冷泉大納言為久卿葉室前大納言頼胤卿御馳走御用仰せ付けられたが、冷泉卿は病気のため御下向中止となった。
元文五年(一七四〇)五月朔日初めて御暇下し置かれ、巻綾十句、銀二十枚拝領、西丸よりは巻綾五拝領した。
寛保元年(一七四一)四月より翌年まで出火の節、大手組防仰せ付けられ、同三年四月より翌年まで出火の節、桜田組防、同四年五月十五日御奏者役仰せ付けられた。
宝暦元年(一七五一)家継公薨去(こうきょ)の節は、増上寺にて御法事中
両門勤番、同月十二日御座間にて山門勤番。
宝暦六年(一七五六)八月千代姫君誕生し、御祝として襁褓(むつき)二
献上、西本丸へは酒肴料献上。
宝暦八年(一七五八)十二月二十五日御咎(とが)めあって領地八幡城
取り上げられ、奥州岩手郡盛岡城主南部大膳大夫利夫へ永の御預となった。
御咎とは美濃越前に一揆が起こり、特に郡上領内百姓一揆、越前石徹白事件の責任追究の結果である。
宝暦十三年(一七六三)六月六日配所盛岡にて病死、享年五十一歳、同所法泉寺に葬った。寛政元年(一七八九)五月十四日菩提所江戸渋谷祥雲寺へ改葬したいと願い出たため御用番井伊兵部少輔のはからいにより許されて、同年八月八日同寺へ改葬し法名曽雲院殿性海善理大居士と号した。
 これにて金森本家は断絶となった。頼錦には七男二女の子供があったがいずれも父の御咎改易のため同様改易となったが在世中いずれも御免となった。もっとも頼錦は永の改易で許されずに、病死した。
③郡上藩石高の内訳
(③は『越前大野城と金森長近』一四一~一四五頁より)
 元禄十年(一六九七)六月、頼旹は郡上八幡へ再転封、三万八千石である。
 八幡は美濃郡上郡で長良川に沿う小都市であるが、領地は郡上郡と越前大野郡、南条郡、今立郡とにある。細別すれば郡上郡に約二万石、越前三郡に約一万八千石となっている。― 中略 ―
〈大野郡における郡上領(五十八ヶ村)〉
三石七斗三升六合  市布村    七石八斗九升八合  上半原村
七石六斗三升二合  下半原村   三石七斗五升一合  荷暮村
九石        久沢村    十石五斗      伊勢三ヶ村
四石九斗      米俵村    十石九斗一升    穴馬大谷村
八石七斗八升四合  野尻村    十四石三斗九升   長野村
三石五斗八升    鷲 村    九石二斗九升    下大納村
十三石三斗     下山村    五石六斗一升九合  貝皿村
十二石四斗三升四合 河合村    二石七斗六升    伊月村
七石六升三合    朝日村    九石八斗五升    角野村
八石六升九合    後野村    四石一斗二升八合  朝日前坂村
三石二斗六升    角野前坂村   五石二斗九升九合  板倉村
四石五升      仏原村    三十八石二斗二升一合 西勝原村
九石二斗七升    東勝原村   五石五斗六升    下打波村
六石八升二升    上打波村   六百九十五石二斗一升 上野村
六百十五石八斗三升四合 御給村    五百十六石八斗五升九合 吉 村
三百八十一石九斗一升九合 森政領家村   百二十五石五斗六升 森山村
百十九石四斗二升五合 平沢地頭村   六百五十二石五斗八升三合 平沢領家村
八百七十七石二斗三升八合 木本地頭村   四百二十七石八斗九合 木本領家村
四百二十七石八斗九合 木本新田村   五石五斗      巣原村
二百十六石二斗二升 新河合村   二百八十石三斗   土布子村
二百七十一石一斗五升 井口村    百二十五石三斗   川島村
百五十二石四斗一升 北山村    二百四十九石六斗  発坂村
四百石六斗九升   別所村    七百三十六石    細野村
六百二十一石二斗  野津又村   百十四石七斗四升六合 横倉村
百六十八石一斗七升 御領村    三百九十六石五斗六升 薬師神谷村
三石        木合月村   百八十一石七斗一升 根橋村
九十石六斗三升   小原村    百三石五斗一升   田名部村
三百七十六石一斗八升 松田村    九十六石六斗    暮見村
四百四十石一斗二升 寺尾村    六百八十五石九斗八合 若猪野村
三百三十石八斗一升 下高島村   二百六十三石四斗九合 北市村
二百六十五石一斗六升 上高島村   三百六十四石八斗五升 大渡村
三百五十五石二升  岩ヶ野村   二百四十八石二斗七升 大矢谷村
二十二石八合(大矢村枝) 蓑輪村    百四十六石九斗   石谷村
六百九十三石一二升 松丸村    高無  上中下   石徹白村
合 計  一万三千九百五十二石五斗四升五合
〈南条郡における三ヶ村〉
九百二十九石八斗一升 千福村    八百三十六石三斗八升一合 妙法寺村
五百四十九石六斗五升二合 上中津原村
合 計  二千三百十五石四斗一升四合
〈今立郡における四ヶ村〉
五百九十七石三斗八升 生谷村    五百五十八石七斗  和田村
二百三十二石五斗九升三合 上野枝村   百九十八石五斗六升八合 蝉口村
合 計  千五百八十五石二升四斗一合

第7代 金森頼錦
①金森頼旹の郡上八幡支配
頼業の子として寛文九年(一六六九)に生まれ、同十二年四月五日幼年で遺領を継いだ。幼名は万助、改めて頼時といい、のち頼旹とした。天和三年(一六八三)十二月四日、従五位下出雲守となり元禄五年(一六九二)七月二十八日に長近以来の居城であった飛騨国高山城を取り上げられて(国主として飛騨一国を領有していた)出羽国上ノ山に移されたが、落ち着く間もなく同十年六月十一日に郡上城に移され、郡上及び越前国大野郡の一部を領有することになった。
②金森頼錦の支配
正徳三年(一七一三)に生まれ、名は又太郎といいはじめ台頼(かつより)のち台近(かつちか)と改めた。享保十四年(一七二九)九月三日に父可寛(ありひろ)が若
死したため(「地方発達史と其の人物」では十三年)、祖父頼旹の家督を継ぎ、同年十二月十六日従五位下若狭守に任ぜられ、元文元年(一七三六)七月十八日に二十三歳で遺領を継承して兵部少輔と改めた。同三年五月一日初めて城地へ行く暇をもらい、延享四年(一七四七)五月十五日奏者番となったが、宝暦八年(一七五八)九月二十七日に不審を被って仮に松平忠名に預けられた(十月二日)。「飛州志続藩翰譜」には「その事由は今日に至るも詳らかでない」とされている。領内の租税問題で農民の強訴・駕籠訴が起こり、また石徹白の社人追放の時、家臣らの曲事があったことも知らず、また石徹白豊前の悪事についての訴訟に対してもその尋問をせず、幕府の審理によって初めて豊前の罪は明白になったので、「これを知らないで多くの社人を追放したその罪は重い」として領地を没収されて同年十二月二十五日に改易され、南部大膳大夫利雄に預けられて同十三年六月六十一歳で没した。
③典雅だった金森頼錦
頼錦(一七三六~五八)は武人というよりもむしろ文人ともいうべき人でちょうど常友を思わせる藩主であった。性格が温和で文雅に深い関心を持ち絵画にも優れ、神社・寺院へ絵馬を描いて奉納した。― 中略 ― 彼は先人の遺績顕彰のため著名な事績の修復に努め、まず寛保年間(一七四一~一七四四)に東殿山の城跡を保存するため大学頭林信充に作文を依頼し、石碑に銘を刻んでこれを建てた。現在は慈恩寺(乙姫町)境内に移されている。
さらに小野滝山の古戦場にも石碑を建てて、戦没した先祖可重の家臣の霊を慰さめ、常縁・宗祇の遺跡白雲水の傍らにも石碑を建ててこの碑文もまた林信充に作らせた。
常縁の遺風を慕い、白雲水の名跡を長く後世に伝えようとして、和歌の上手な公家・諸侯らに頼んで三十首を手に入れ、鳥丸大納言光栄にその清書を願って白雲集と題し、これを慈恩寺に納めた。
 (①~③は『郡上八幡町史』二七九、二八三頁による。)

八幡城の沿革
永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山(市街地南方)の東家を滅し八幡城を築いたのがこの城の創始である。後、秀吉が天下を統一し、領地20,000石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けた。やがて関ヶ原合戦が起こると遠藤慶隆は家康に味方し、慶長5年(1600)再び遠藤氏が城主となった。
元禄5年(1692)遠藤氏後嗣なく没収せられ常陸より井上正住が城主(40,000石)となって来封したが間もなく同11年金森頼旹がこれに代わって封せられた。宝暦8年金森頼錦の晩年になって失政のため農民困窮甚だしくついに金森騒動宝暦義民の一揆が起こり、そのため一家は断絶され、同年丹後国宮津の城主青山幸道が代わって郡上藩主となり八幡城下48,000石を領することになった。その後藩政よく治ってその後明治維新によって廃城となり、昭和8年旧跡に模擬天守閣が作られた。
説明板より
郡上八幡城由来
永禄二年(一五五九) 遠藤盛数が東家を滅ぼしこの八幡城を築いた。
その後 遠藤氏加茂郡小原に転封、稲葉右京亮貞通が城主。
慶長五年(一六〇〇) 関ヶ原合戦時、金森長近と遠藤慶隆は稲葉を攻め、落城。
遠藤氏が再び城主となる。
元禄五年(一六九二)遠藤氏後継ぎがなく没収、常陸より井上正住が来て、城主。四万石。
元禄十年(一六九七)金森氏六代頼旹、山形県上山から来て、城主に。
宝暦八年(一七五八)金森頼錦の代に宝暦騒動、金森氏改易。
丹後国宮津の青山幸道が郡上藩主となり、明治を迎えた。

 

関連資料

2-24-1 山形から郡上へ国替え

2-24-2 第7代金森頼錦

2-24-3 八幡城の沿革

2-24-4 郡上八幡城由来