難波宮跡

難波宮跡
後期難波宮
後期難波宮模型(大阪歴史博物館)
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。
延暦3年(784年)[4]、桓武天皇により長岡京に遷都[7]された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。  
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
『日本書紀』や『続日本紀』に記された難波宮の所在地は、昭和29年(1954)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、現在の史跡指定地にあることが明らかにされました。
その後の調査により、2時期の宮殿遺構があることがわかり、それを前期難波宮、後期難波宮と呼び分けています。前期難波宮の遺構には火災痕跡があり、朱鳥元年(686)に焼失した天武天皇の難波宮にあたり、その創建は「大化改新」ののち、孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられています。一方、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮です。史跡公園内には復元された後期難波宮の大極殿基壇や前期難波宮の八角形建物などが立体的に遺構表示されています。また、大阪歴史博物館の地下には前期難波宮の倉庫群の遺構が保存され、一般公開されています。
(引用:http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/naniwamiyaatokouen.html)