飛騨から山形へ国替え

飛騨から山形へ国替え
金森氏第六代頼旹が転封を命ぜられたのは、元禄五年(一六九二)七月二十八日。同年八月十八日、関東郡代伊奈半十郎が飛騨代官兼務となった。高山城在番を命ぜられたのは金沢藩主前田加賀守綱紀で、在番奉行を永井織部正良としている。
 永井は十月三日、高山城の引き渡しを受け、半年交替で第六番まで続け、第六番奉行の和田小右衛門の時、高山城は破却の命を受けた。
 元禄八年(一六九五)一月七日、第六番在番奉行に和田小右衛門が任命されたが、前田綱紀は十二日高山城破却の幕命を受け、十九日にはそのための横目に矢部権丞、作事奉行に近藤三郎左衛門、普請奉行に前田清八、次いで二月十日には破却総奉行に奥村市右衛門が任命された。二十四日高山城破却に要する諸道具と人数を見積り(註1)、三月一日破却時の廃材、石垣、城内に残る米や諸道具等の処置について幕府に伺い、十八日それらを伊奈半十郎へ引き渡した。
 同年四月九日破却奉行奥村市右衛門以下金沢を発し、十五日高山着、破却は二十二日本丸三階櫓から着手され、城郭内の建物・石垣のほか城下の侍屋敷も同時に破却された。破却開始の日伊奈半十郎は役所をそれまでの武家屋敷から金森家の下屋敷へ移している。 五月二十五日には金沢藩の和田小右衛門、塩川安右衛門が破却を巡見した。六月十日三之丸の堀を江名子川へ掘り抜き魚類を放ち、十六日には本丸・二之丸・三之丸・武家屋敷の建具等の員数帳を伊奈代官へ提出し、十八日普請奉行以下高山を出立した。
 天正十六年(一五八八)の築城はじめから約百七年後の廃城であった。
 高山城の破却は元禄八年(一六九五)六月に終了したが、八月伊奈代官は城地・侍屋敷の跡地の処分について勘定所に伺い、結果高山の町人七百十五軒へ割地し渡すこととなり、また十一月には城や侍屋敷に残っていた道具や樹木の払い下げが行なわれ、後元禄十年(一六九七)六月侍屋敷の割地に対して割地の方法等を定めた証文が出された。

金森清水(上山市小穴字小穴沢)
 ここは腰田山の山麓で、きれいな清水が湧出している。元禄の頃、金森氏の居館があったと言われ、この地区の人々は、ここを「金森清水」と呼び、今日まで伝承されている。
 昭和初期に、地主がこの地を開拓した時、旧住居跡であったことを裏付ける当時の焼き物の生活用品が、かなり出土したことがあった。
 元禄5年、金森頼旹が着封した当時、上山は城がなかったので、旧城二の九付近に新しく居館を造営している。しかし、頼旹が上山城から4キロも離れたこの山中にも自己の屋敷を建てたとは考えられていない。家臣の中で金森姓を名乗る者は5名いるが、実弟金森玄番は八幡小路に居住していたし、いずれも仲丁を中心とした家中地に住んでいた。
 この地に金森の居館があったと仮定するならば、分家金森左京近供が考えられる。頼旹が家督相続の時、その後見役となった金森左京近供には、元禄6年、中郷・下郷から3,000石が分知された。江戸詰であった近供自身は来藩しなかったものと思われるが、その一族郎党が上山へ来藩して、この地に住居を構えたのではないかと推定されている。
  平成22年7月22日
飛騨高山
金森公顕彰会
説明板より

 

関連資料

2-21-1 飛騨から山形へ国替え

2-21-2 金森清水(上山市小穴字小穴沢)