飛騨一宮水無神社

飛騨一宮水無神社
 飛騨一円を崇敬者とし、除夜祭・歳旦祭は飛騨一円を始め県内外からの参拝者が多い。例祭は5月2日、ひなまつりは4月3日で日本唯一の「生きびな祭」として有名である。 創立年代は不詳、祭神は水無(みなしの)大神など、位山を「神体山」としている。
第38代天智天皇の8年(669)、位山の櫟(あららぎ)材で作られた笏を朝廷に献上してから、櫟(あららぎ)に一位の樹名を賜わり、山は位山と称するようになった。第45代聖武天皇の天平12年(740)、天皇の仮宮殿において、近江国の新羅楽・飛騨楽が奏された。いま一之宮に「神代踊」として伝存する。第46代孝謙天皇の天平勝宝年中(750~)、飛騨国造高市(たけち)麿(まろ)が上奏して、当神社は国の「一宮(いちのみや)」と定められた。第60代醍醐天皇の延長5年(927)には延喜式が出来、神祇官神名帳に飛騨国8座の首班に列し、国の総社をも兼ね、国司は毎月巡拝して幣帛(へいはく)を奉(たてまつ)ることとなる。第76代近衛天皇の仁平元年(1151)、大江朝臣橘助高卿が一宮の神主に補任(ぶにん)され、神主家としてしばらく続いた。第96代後醍醐天皇の建武2年(1335)、国司姉小路家綱卿より、位山一位の御笏を献上し、天皇より御冠・袍・笏等の下賜があり、一宮に納める。天正13年金森長近が飛騨に攻め入り、三木・一宮・山下の神主家の主流が討たれたが、子孫が継続して神主家をつないでいる。
参考文献 『飛騨の神社』
(一之宮町一の宮)
古くから飛騨の人たちに崇敬されてきた神社で、飛騨一之宮として知られる。今でも初詣ではまず水無神社にお参りし、その後に地元の産土神(うぶすながみ)にお参りする風習が続いている。
毎年四月三日に「飛騨生きびな祭り」「養蚕祭」、五月一、二日には例祭が挙行され、例祭時には「水無神社の神事芸能(県指定重要無形民俗文化財)」が奉納され、最近ではどぶろくがふるまわれるようになった。
神社の脇から上がる宮峠(一之宮町、久々野町山梨)は一之宮町と久々野山梨の間にあり、太平洋と日本海の分水嶺である。標高七八二メートル、名前の由来は一之宮町に水無神社があることによる。金森氏によって開かれた峠である。
*説明版より
絵馬殿(拝殿)の由来
〈所在地〉一之宮町字石原5323番地
〈時 代〉明治13年5月再建
〈員 数〉1棟  絵馬殿入母屋流造、高床、四方吹抜
 絵馬殿はもと拝殿と称して建治年中に再建され、慶長12年(1607)飛騨国主金森長近がこれを改築した。更に明治3年の社殿改築に当たり、高山県知事宮原積の命令と称して氏子の反対が強かったにもかかわらず、2〜3人の者しきりに不必要 を主張して遂に一旦これを取りこわした。
それを明治11年12月に至って、位山村宮組の氏子253戸総代大江久兵衛外数名が連署の上 氏子負担を以て再興を願い出、建築の許可が出て建築に着手し、明治12年11月に地鎮祭を行ない、翌13年5月落成した。
 明治初年、官祭と民祭が分離され、拝殿であっ たこの建物が絵馬殿として転用されてきたが、入母屋造り、高床、四方吹抜けの様式から、拝殿として建てられたものである。やや小型であるが益田郡の久津八幡社拝殿(国指定重文)が様式手法共、同形で比較される。
 飛騨では稀な大規模な入母屋流造りの社殿で、いくつかの騒動を経、王政復古で官祭から 民祭へと流れが変化することを識る歴史上民俗学上貴重な建物である。
一、慶長12年(1607)飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営。  (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永7年(1778)百姓一揆が安永2年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた。
一、明治3年(1870)高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた。その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した。
一、明治12年(1879)氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和29年(1954)10年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
*説明版より
神馬二体
市指定‐美術工芸品(彫刻)
 白馬は安永9年(1780)再製され寄進されたと代情山彦集、宮村史にある。作者は武田の万匠とされている。元は黒馬であり数回塗り替えられているようで、この馬が稲喰い馬でないかと記されている。
黒い馬は眼がくり抜かれたようになっているが鞍掛馬と記されている。昔から語り継がれて現存する。水無神社の例祭(毎年5月2日)にはお旅所から帰る神輿を迎えに引き出される。
*説明版より
伝説の木 ねじの木
樹種     ヒノキ 胸高直径         1.5m
 水無神社境内の絵馬殿の傍らにあったもので、自然の作用で、ねじまがった珍しいヒノキ。このねじの木に似せた、「こくせん」という飛騨の伝統的な駄菓子がつくられ、お正月参拝者のお土産になっている。
第1話 その昔、ヒノキの大樹が日陰になるので里人達が伐って普請に使おうと相談した。一夜のうちに幹はもとより、梢までねじ曲がってしまった。里人は、神のたたりを恐れあやまったといわれている。
第2話 今からおよそ200年前宮川が氾濫し、高山の中橋が流された。時の代官大原彦四郎は、神社の大ヒノキに着目し橋材として差し出すよう命じた。困った神社側は、一計を案じ、このねじの木を示し、神意で一夜のうちにねじれてしまったと、説明したところ、ほかの杜の木も切ることが取りやめになったと伝えられている。
*説明版より
白川神社
霊峰白山(2,702m)の飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は、合掌造りの里として世界遺産に登録されている。白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和32年(1957)御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。平成15年12月吉日、玉垣を改修。
*説明版より
島崎正樹 碑
きのふけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里   正樹
 水無神社元宮司島崎正樹翁は文豪島崎藤村の父で、小説夜明け前の主人公青山半蔵その人なり。明治7年11月より同10年12月、木曽馬籠宿より単身赴任さる。
 翁は幕末はやく平田国学の人として維新の運動に身を挺し、のち皇政復古の志もむなしくこの里で多くの歌をものした。ここに自筆の一首を刻し没後100年の追慕となすなり。   昭和57年11月2日
*説明版より
稲喰神馬(黒駒)
作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。
祈晴の神馬(白駒)
元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」 左甚五郎作
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。
#左甚五郎
 

   

資料集
024_028_水無神社