飛騨匠神社

飛騨匠神社
「飛騨匠神社」
住所 高山市堀端町90 護国神社境内
ご祭神 手置帆負大神(たおきほおいのおおかみ)
彦狭知大神(ひこさしりのおおかみ)
飛騨木匠霊位
例祭日 1月2日
昭和34年11月15日上棟祭、昭和36年11月15日入神祭。
 飛騨の高山でこれらの人たちを祀る「飛騨匠神社」が、堀端町、飛騨護国神社境内に出来上がった。左甚五郎はじめ多くの棟梁(とうりょう)工人をうみ「飛騨匠」の名を残している神社は小さなつくりだが、出来ばえは精密なもの。そのうえ、この神社の建設は明治維新以来飛騨匠の伝統を継ぐ人たちの宿題となっていただけに関係者の喜びはひとしお。
 今度の建設は去る33年春ごろから高山市の大工組合員堀新造さんと下島一郎さんの2人が同組合を代表して精魂こめてつくってきたもので、高さ約1メートルの石台に間口、奥行き各1.5メートル、高さ約2メートルの神殿だ。
 明治維新のころ、すでに計画され、内務省へ飛騨の有力者たちが連名で嘆願書を出したが、当時は神社の新築が認められなかったという。その後、法律がゆるめられ、工事にかかったが、今度は資金難などのため一部つくっただけで延べ約1年間工事を中止していた。今度完成までこぎつけたのは飛騨地方の木材関係者などの間に資金面の協力が得られたからで、明治初年以来90余年でようやく出来上がった。
 神社には故人となった工匠たちの位牌と今後の大工職人でなくなった人の位牌も納めるほか、年貢米を納める代わりに京都の御所の普請に出た大工がその仕事ぶりをたたえられて受けた菊の御紋入りの弓と当時の飛騨匠の名声をつづった古文書などを神宝として納める。
 (第4代)長沢秋太郎高山大工組合長の話 長い間の夢だった匠神社が我々の代に出来たことは大変うれしい。なくなったたくさんの先輩たちもよろこんでくれることでしょう。いま飛騨国分寺にまつられてある「飛騨匠木鶴大明神」の木像が匠神社に飾れないのが残念だ。以前匠神社は国分寺内に神殿を持っていたが、あるとき大工と住職の意見が対立して別れることになった。そのとき匠の木像だけ大工側に渡されなかった。近々に今の住職にお願いして何とかもらい受けたいと思っています。
(朝日新聞 飛騨版 昭和36年9月19日)
 明治12年1月2日より現護国神社境内にお祀りされている飛騨皇大神宮にて例祭が斎行されて以来、滞りなく毎年の例祭が催行されている。
 明治42年正式に飛騨匠神社として神社庁に登録がなされたのであるが、匠発祥の地たる飛騨に木の神を祀り飛騨匠を顕彰し奉る神社がないことはすこぶる遺憾として兼々神社建立が企画されてきたが、機ついに熟するところとなり昭和36年11月15日、着実に進歩し素晴らしい技術の粋を結集した現匠神社がここに誕生したのである。
 神社の御神霊は木の神 手置帆負大神並びに技工の神彦狭知大神であり、同業篤志家の昇天された方は洩れなくこの神社に合祀されたのである。匠神社は木に携わる人々の守り神としてまた、心のより処として飛騨の地を鎮守したまうことを念ずるものである。
(護持者 高山建築組合 組合長)『飛騨の匠神社』高山建築組合、匠神社発行 平成27年 より
 現在の建物は高山建築組合により、新社殿として昭和36年に新築されている。当初は飛騨国分寺境内に歴代工匠諸霊を併せて祭祀と供養がなされていて、この堂宇を「木鶴堂」と呼び「木鶴大明神」を祀っていた。
木鶴大明神は国分寺の「大明神縁起」によると平安時代に飛騨市河合(かわい)町天生(あもう)から出て京に行き、さらに中国の唐へ渡って活躍した飛騨匠の「韓(からの)志和(しわ)」だという。しかし大工仲間があがめる「木鶴神」は、鎌倉時代に郡上市長滝寺の大講堂建立という大工事をなした藤原宗安をもって飛騨匠の祖としている。そして自分たちを藤原宗安の末裔だと信奉している。
明治12年、城山公園三ノ丸に中教院(現在の飛騨護国神社)が創立されると、神霊は木鶴神像を残して国分寺より分離して中教院に遷され、明治15年、飛騨匠神社として高山中教院の皇大神宮内に祀られた。明治17年1月2日、匠神社例祭として定着(神道事務分局日誌)し、大工組合・木匠講などによって祭祀が行なわれるようになった。
明治20年、久邇宮朝彦親王殿下より「木(たく)匠(みの)祖(おや)神(がみ)」の御神号を賜り、木匠祖神(猪名部(いなべの)眞(ま)根(ねの)大人(うし))を主神とし、相殿に飛騨工匠歴代の神璽と手置帆負(たおきほをひの)神(かみ)・彦狭(ひこさ)知(しり)神(のかみ)2柱の神を祀る。
昭和36年の新社殿は、昭和55年、護国神社の社務所と遺品館建築のため、南側に移されて現在に至る。
参考文献
飛騨建設工業倶楽部企画・編集『飛騨匠』昭和60年
『飛騨の匠神社』5~6頁 高山建築組合 匠神社崇敬会発行