駿府城下の金森屋敷

駿府城下の金森屋敷
① 駿府城下町の建設  (①は『静岡県史 通史編 三(近世一)』静岡県発行 一九九六年 より)
 「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)矢印が金森長門守屋敷
慶長十二年(一六〇七)一月、徳川家康は駿府を菟裘(ときゅう)の地と定め、駿府の城郭を広め、諸士の宅地を定めることを表明した。駿府の築城工事と城下町づくりが始まった。
 駿府城の造営は同年七月完成したが、この年十二月の火災で焼失してしまう。しかし、慶長十三年二月には本丸の上棟式が行なわれ、八月には天守閣が完成した。
 一方、城下町の町割は駿府城の拡張計画とともに立てられ、駿府城が完成する慶長十三年八月までに城下町の建設が進展したと考えられている。
 駿府城下町の建設は城下町を安倍川の氾濫から防護し、駿府城を堅固にすることと不可分であった。安倍川を城下の西側に固定し、安倍川に駿府城の外堀の役割をもたせた。
 こうして駿府城下町が建設されたが、江戸時代の城下町は武家とそれ以外の商人・職人との居住区が区分された。「駿府古絵図」によれば、武家屋敷は城内三の丸に重臣屋敷があり、大手門前から城を取り囲むように上級家臣の屋敷が構えられていた。また、城の南西方向、安倍川近くの一帯にも武家地があった。番町と称ると、城郭を含めた武家地が約四十五パーセント、町方が四十パーセント、寺社とその付属地が十五パーセント。江戸の武家地が六十八パーセント余、寺社地・町人地がそれぞれ十五パーセント余(内藤昌『江戸と江戸城』)にくらべれば、かなり町方が広くとられていた。
「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)拡大
駿府城
今から約650年前の室(むろ)町(まち)時代、今(いま)川(がわ)範(のり)国(くに)が駿(する)河(が)守(しゅ)護(ご)職(しょく)に任ぜられて以降、駿河国は今川氏によって治められた。9代義(よし)元(もと)の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らした。永禄3年(1560)今(いま)川(がわ)義(よし)元(もと)が桶(おけ)狭間(はざま)で織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われた。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移った。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)により関東に移封され、豊臣系の中(なか)村(むら)一(かず)氏(うじ)が駿府城の城(じょう)主(しゅ)になった。その後、徳川家康は、関(せき)ヶ(が)原(はら)の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征(せい)夷(い)大(たい)将(しょう)軍(ぐん)に任じられ江戸幕府を開いた。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀(ひで)忠(ただ)に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入った。この時天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わった。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲(くる)輪(わ)を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪(りん)郭(かく)式(しき)の縄張りとしている。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天(てん)下(か)普(ふ)請(しん)」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められた。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られた。
静岡市教育委員会
説明板より

 

関連資料

2-18-1 駿府城下の金森屋敷

2-18-2 駿府城

2-18-3 家康公の年表