龍應山西明寺

龍應山西明寺
龍應山西明寺の由来は寺伝によると、平安時代の初期に当たる承和元年(834年)のある日、三修上人(慈勝上人)が、琵琶湖の西岸を歩いていると、突如として琵琶湖の東方の彼方より、紫雲が現れまぶしい光が射しました。この雲や光を見た上人は「この光の源をたずねれば、きっとすばらしい霊地があり、修行中の私に何か悟らしめて、重大な使命が下されるに違いない」との霊感に打たれました。そしてその光明を目指して湖東の山中に分け入ると、一筋の光明を放つ池があったのです。上人は「このような有難いまぶしいご光明を放たれるのには、何か事情があるのでしょうか。この清浄な霊地から沸き出づる泉を通しての光明は、何を暗示しているのでしょうか。どうかご教示願いたい」と池に向かって一心に祈念なされました。やがて、不思議な事に薬師如来の尊像が現れ、その後に日光菩薩、月光菩薩、続いて十二神将が現れました。三修上人に帰依していた仁明天皇は、この不思議な出来事を聞くと、この地に勅願寺として、お寺を造るように命じられました。薬師如来が放った光が、仁明天皇がいらっしゃった京都の宮中に向かって、西方を明るく照らした事で、「西明寺」と名付けられました。また、西明寺の山号の由来は、西明寺のある場所が琵琶湖を中心として、東に位置していることから、東西南北の四方を護る天の四神(東・・・青龍、西・・・白虎、南・・・朱雀、北・・・玄武)の内の青龍が護り、人々の願いに応じる寺院故に「龍應山」と名付けられました。その後、西明寺は「国家鎮護と五穀豊穣、病気平癒」等を祈願する祈願道場として、また僧侶を育成する修行道場として、寺領二千石と山林数町歩が与えられ、十七の諸堂と僧坊三百を有する大伽藍となりました。また、琵琶湖の西岸の延暦寺が勢力を伸ばし始めた頃に天台宗になり、延暦寺の中心道場である根本中堂のご本尊の薬師如来が、琵琶湖を向いて安置されているので、薬師如来どうしが対面する様に西明寺のご本尊が延暦寺の方向に向いて安置されました。爾来、西明寺の薬師如来は湖東の薬師如来と呼ばれる様になりました。源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられています。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当時も焼き打ちをしましたが、幸に国宝一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現在しています。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興し現在に至っています。

本堂(瑠璃殿)・・・国宝
鎌倉時代の初期飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きで、蟇股(かえるまた)、格子模様等鎌倉の様式が保存されている。
三重塔・・・国宝
鎌倉時代後期飛騨の匠が建立した純和様建築で本堂と同じく釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きであり、総桧の建物である。
初層内部の壁画は巨勢派の画家が画いたもので堂内一面に、法華経の図解、大日如来の脇侍仏三十二菩薩、宝相華等が、純度の高い岩絵の具で極彩色に画かれていて鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものであるといわれている。(塔の高さ23.7m)