両面宿儺
両面宿儺
両面宿儺は高山市丹生川町が出生の地と伝わり、丹生川町の千光寺や出羽が平(現在の飛騨大鍾乳洞近辺)、日面の善久寺、武儀の日龍峰寺などに伝承がある。『日本書紀』では大和朝廷に背いた朝敵として扱われているが、飛騨や美濃の伝説では、宿儺は武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあった。
『日本書紀』に両面宿儺の戦の記述があり、仁徳天皇65年(377年)、飛騨に攻め入った大和朝廷の最強の正規軍である難波根子武振熊に滅ぼされた。書記では宿儺を不具者として扱い、つづいて「掠略」(盗人)すると述べている。これに対して宿儺は飛騨の統領として相当に強大な力を持ち合わせて戦った。
当時の大和朝廷の支配は、畿内中央の最高首長が各地の有力な首長と同盟・連合の関係を結びながら、内外の軍事・外交活動を主宰し、各地の首長に貢納・奉仕を強要する形で勢力を結集していた。朝廷は宿儺に対して、飛騨の人々を引きつれて大和に参上するように求めたのであろうが、宿儺は拒否して戦ったのである。
千光寺ではその開山を両面宿儺とし、飛騨一之宮水無神社では「位山の主は両面宿儺である」と伝えている。また日面地区の善久寺には宿儺菩薩が畏敬の念をもって祀られる。また、関市下ノ保の日龍峰寺には「蛭なし川の伝説」があり、両面宿儺が当山に住む悪龍を退治した時、悪龍の血が滝のように流れ、
農民の血を吸った蛭がこれを吸って蛭は全部死んでしまったといい、今も蛭はいないという。
参考文献 丹生川村史編集委員会編集『丹生川村史 通史編一』丹生川村発行平成12年