匠の道・瀬田の唐橋
匠の道・瀬田の唐橋
中山道・東海道は瀬田の唐橋を渡る
滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋。全長223.7m(大橋約172m、小橋約52m)で、滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つとされてきた。また、近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。1986年(昭和61年)8月10日の道の日には、旧・建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。
瀬田の唐橋は歴史上、様々に表記・呼称されてきた。瀬田橋や勢多橋、勢多大橋のほか、勢多の唐橋とも記される。また、瀬田の長橋とも称された。
かつて架けられた橋は、丸木舟を横に何艘も並べ、フジの木を利用し、その蔓(つる)を絡めた橋で「搦橋(からみばし)」とも称された。この「からみ橋」から「から橋」に転訛し、また、架け替えられるなかで、中国や朝鮮半島の様式を模した唐様が取り入れられたことにより、唐橋のほかに辛橋、韓橋とも記された。そのほかにもヤナギの木のように流麗であったことから別名として「青柳橋」とも呼ばれた。
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔から様々な戦乱に巡り合ってきた。そのため、古代より何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。また、『日本書紀』など数々の文献にもこの橋が登場する。
古代の橋が架けられた年代は不詳であるが、神功皇后の時代には既にあったと言われる。
瀬田川の浚渫事業により、1988年(昭和63年)、現在の橋より約80m南(下流)で橋脚の基礎が発見された。橋の幅は7-9 m、長さ250 mと推定される。この橋は当時の朝廷の威信をかけて架設したものとされ、滋賀県教育委員会と滋賀県文化財保護協会は当時の技術を知る上で有用としている。
672年(天武天皇元年)、壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板を外して大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3 ほか
俵藤太秀郷むかで退治
豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬戸橋に横たわる66メートルの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻きついた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく1,000年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名がつけられたとされている。
大津市 古都指定都市制定記念 大津東ロータリークラブ
*説明版より
資料集
128_136_匠の道・瀬田の唐橋