大桑城
大桑城
大桑城(古城山)(407m・別名 金(きん)鶏(けい)山(ざん))
<大(おお)桑(が)城(じょう)跡(あと)と城(じょう)下(か)町(まち)遺(い)跡(せき)群(ぐん)>
地元では城(しろ)山(やま)と呼ばれている。山頂一帯には戦国時代の山(やま)城(じろ)の跡が残り、麓の大(おお)桑(が)地区には城下町を守る堀と土(ど)塁(るい)「四(し)国(こく)堀(ほり)跡(あと)」や、館(やかた)・寺・屋敷地の伝承が点在している。発掘調査では弥生(やよい)後(こう)期(き)から現代まで存続する伝(でん)統(とう)的(てき)集(しゅう)落(らく)と、戦(せん)国(ごく)期(き)の城(じょう)下(か)都(と)市(し)、その両方の存在が確認される。
<国(くに)盗(と)り合戦と金(きん)鶏(けい)伝説>
室町時代末期、織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)の美濃攻略の少し前のこと、美濃の守護大名土(と)岐(き)氏(し)、守護大斎(さい)藤(とう)氏(し)、援軍の越前朝(あさ)倉(くら)氏らが本拠地としていたここ大(おお)桑(が)城(じょう)を、斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)が攻め落とし、これにより美濃一国を掌(しょう)握(あく)した。
落城の際に土岐氏が城内の井戸に沈めた家宝の金の鶏(にわとり)が、いまも元旦の朝に鳴くという伝説があり、この声を聴くと縁(えん)起(ぎ)が良いそうだ。
<眺望と白(はく)山(さん)信(しん)仰(こう)>
北に能(のう)郷(ごう)白(はく)山(さん)や高(こう)賀(が)山(さん)、西に伊(い)吹(ぶき)山(やま)、東に中(ちゅう)濃(のう)盆(ぼん)地(ち)、南に金(きん)華(か)山(ざん)や濃(のう)尾(び)平(へい)野(や)を一望する山頂付近には金(こん)剛(ごう)童(どう)子(じ)の名が残り、平安末期以降中世にかけて長(なが)良(ら)川(がわ)流域の濃尾一円に広く流(る)布(ふ)した白(はく)山(さん)修(しゅ)験(げん)の山寺が存在していた可能性がある。
<里(さと)山(やま)の自然と文化>
チャート・砂岩を主体とする急(きゅう)峻(しゅん)な尾根を中心にアカマツの二次林、山腹を中心にアベマキ・コナラの二次林、谷を中心にアラカシ・ヤマツバキの照(しょう)葉(よう)樹(じゅ)林(りん)がみられる。こうした里山の二次林は、人(じん)為(い)が関わることによって成立・維持される。江戸時代入山禁止だった金(きん)華(か)山(ざん)のシイ林とは対照的だ。しかし近年は他の里(さと)山(やま)と同様、植(しょく)生(せい)遷(せん)移(い)が進み、マツタケも出なくなった。化石燃料と肥料の普及により里山の資源が放(ほう)棄(き)されたからだ。里山の自然と文化は、麓の里人らが薪(たきぎ)を採るなどして、持(じ)続(ぞく)可(か)能(のう)な暮らしを受け継いできたことの証(あかし)でもある。
いま一度、峯(みね)に立ち、歴史と文化を振り返り、地域社会と日本の将来像を夢描く…古(こ)城(じょう)山(ざん)がそんなふるさとの里山になるように。
山県市教育委員会
説明板より
四国堀跡
ここ大(おお)桑(が)は戦(せん)国(ごく)時(じ)代(だい)、美(み)濃(の)国の守(しゅ)護(ご)大(だい)名(みょう)・土岐氏が「大桑城」を築いた地である。
江戸時代に描かれた絵図には「四(し)国(こく)堀(ぼり)」「越(えち)前(ぜん)堀(ぼり)」「外(そと)堀(ぼり)」などの彫があったことが記されている。
現在ここに残っている堀と土(ど)塁(るい)の跡は、「四国堀」に当たり、斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)との戦に備えていた当時の守護・土(と)岐(き)頼(らい)芸(げい)が、越前など四ヵ国の軍勢の加勢を受けて造ったという伝承が残っている。
また絵図に記された「越前堀」は越前の軍勢が掘ったとされるもので現在は残っていないが、平成8・9年度の発掘調査ではこれに相当すると思われる埋没した堀の跡が確認された。
堀を境にして谷の内部が城内であり、土岐氏の本拠地がこれらの堀によって守られていたことがわかる。
そのほかこの一帯には城下町らしきものがあったことをうかがわせるような屋敷地名や寺院・鍛冶屋の伝承等が残っている。
山県市教育委員会
説明板より
大桑城関係年譜
西 暦 年 号 事 項
1180~1198 建久年間 山県流大桑太郎大桑郷に領を構えて定住す
1224 承久3年 山県大桑太郎領地没収され代って逸見又太郎義重大桑郷
領主となり入封し数代大桑城に居住す
1394~1427 応永年間 土岐頼忠の子頼名とその子頼重は大桑氏を称し大桑に住
む又土岐持益も大桑柏野に住む
1496 明応5年 土岐成頼の二男大桑兵部大輔定頼大桑城を大いに修築す
る
この年舟田の乱起り定頼大いに戦功を立る
1535 天文4年 守護土岐頼芸長良より大桑城に移り府城とする
1540 天文9年 頼芸氏15神社に狛犬を奉納する
1542 天文11年 斎藤道三頼芸を大桑城に攻めて美濃を捍領(かんりょう・守り領する)する
1544 天文13年 頼芸頼純と共に大桑城を本拠地として稲葉山城に道三を
攻める
1545 天文14年 頼純大桑城に入り頼芸一時揖斐城に入る
1547 天文16年 道三再び大桑城を攻略す
頼純討死し頼芸織田信秀の許に逃げる
1548 天文17年 斎藤織田和議成り頼芸大桑城に帰る
1552 天文21年 道三3度大桑城を攻略す頼芸落去して東国に逃れ甲斐武
田信玄の守護を受ける 大桑城廃城となる
1556 弘治2年 斎藤道三秀竜と長良川で合戦討死す
1582 天正10年 土岐頼芸揖斐岐礼に歿す(当年82才)
東海占城研究会
林 春樹氏調
大桑城年譜を東海古城研究会「林 春樹氏」に調べていただいた。―中略―ミニ城を3ヶ年計画で完成した。完成までには数多くの方々に御協力をいただいた。関係者一同感謝を捧げ、ここに記す。
昭和63年11月吉日
大桑青少年育成会
体育振興会
公民館
後援 区長会
説明板より
三光寺菩提樹・多羅葉
(解説)
三(さん)光(こう)寺(じ)は江戸時代の明(めい)暦(れき)3年(1657)に創(そう)建(けん)された由(ゆい)緒(しょ)ある寺である。この本堂の東・西に、菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)と多(た)羅(ら)葉(よう)が植えられている。この2本の木は、創建以前に、この地を聖地とするために植えられたものといわれる。
菩提樹と多羅葉が聖地に植えられたことには、大きな意味があった。
菩提樹は、釈迦(しゃか)がその樹の下で悟(さと)りを開いたとして仏教の聖木とされている。実際には、釈迦が悟りを開いたのはイヌビワ(クワ科)の仲間のインドボダイジュであるが、葉の形が似ていることから、中国でも日本でも聖地に植える樹木として、大切にされてきた。なお、菩提樹は、樹高が10メートルほどになる落葉性の高木である。
目通周囲 1.43メートル
高 さ 9.68メートル
一方、多羅葉は、インドで葉に仏の教えを書いたといわれる貝(ばい)多(た)羅(ら)樹(じゅ)になぞらえて、聖地に植えるのにふさわしい樹木とされた。その葉は、厚くて大きく、長さ10~17センチ、幅(はば)4~7センチにもなる。葉の裏に細い棒を使って絵や文字を書くと、その部分が黒く浮き上がってくるので、エカキシバ、ジカキシバという別名もある。
多羅葉は、高さ20メートル、幹の直径60センチにもなる常緑高木である。
目通周囲 1.83メートル
高 さ 13.72メートル
山県市教育委員会
説明板より
関連資料
2-1-6 三光寺菩提樹・多羅葉
2-1-5 土岐家累代総供養塔
2-1-4 南泉寺所蔵市指定文化財
2-1-3 大桑城関係年譜
2-1-2 四国掘跡
2-1-1 大桑城
資料集