屋台彫刻の名手・谷口与鹿
屋台彫刻の名手・谷口与鹿
谷口与鹿は延恭の子(池之端)
<初代> 谷口家祖(郡上藩・金森家臣)
<第2代> 谷口五右衛門 吉道(郡上で金森氏改易のため、高山へ来て松田太右衛門の高
弟今井庄兵衛のもとで修業)
<第3代> 谷口与三郎 延次(文化14(1817)年没)
<第4代> 権守 谷口五兵衛 延儔(とも)(天明元(1781)年出生~天保7(1836)年没)(旧姓 玉井)(上野家で
は谷口与三郎と呼び慣わしていた)
<第5代> 権守 谷口与三郎延恭(享和元(1801)年出生)― 妻・① 登具(とく)、② 津禰(つね)(後妻)
子 (津禰は万延元(1860)年10月1日没)
(登具は天保3(1832)年没か?)
<第6代> 谷口与六(文政5(1822)年出生、元治元(1864)年伊丹で43歳没、登具の子)
弟
<第7代> 谷口与三郎 宗之(与六の弟、後妻津禰の子、明治19(1886)年・47歳没)
※「加賀屋(上野)清五郎古文書について ㈠ 」池之端甚衛『斐太紀研究紀要』平成22年秋季号 飛騨学の会発行 平成22年
*池之端甚衛の見解
従来、谷口与六は延恭の弟とされていたが、池之端は平成22年、母が実家から持参していた「加賀屋(上野)清五郎の古文書」に谷口与三郎の文書を確認した。その中に与六(与鹿)と谷口五兵衛 延儔(とも)の名前が出ていて、文書による関係から祖父と孫であると検証した。つまり、与六と延恭は兄弟でなく親子であると結論を出している。
<与六の高山脱出の理由>
◇与六の母親「登具(とく)」の死と後妻「津禰(つね)」の入籍など家庭内の事情があった。
◇与六が11歳のとき母 登具死亡。16~17歳のときに父が後妻を迎え、異母弟が生まれた。
◇屋台彫刻の仕事が終わってしまい、彫刻の仕事が減った。
◇借金があった。190両の借金は延恭のもの。
※『斐太紀研究紀要』平成22年秋季号 通巻3号 飛騨学の会発行 平成22年9月より
屋台の改造や修理を担った大工・谷口一門
谷口与鹿を含む宮大工谷口家は、文化年間(1804~1818)から明治時代まで70年余の間、高山祭の屋台の補修、改造を担当してきた。どのような屋台を修理したのだろうか。
<第4代 延儔>
◇日枝神社の神輿、36歳の作で、文化13年(1816)。
<第5代 延恭>
◇天保9年(1838)、第5代延恭が春祭琴高台の大改造の担当。「浪間に泳ぐ鯉」「日雲に烏、月波に兎」は与六の作と伝わる。
◇恵比須台の改造主任と推定。弘化3年(1846)。設計図有。
◇八幡鳳凰台の大改造主任。嘉永年間(1848~1854)。
◇日枝神楽台の改修、安政元年(1854)。
<第6代 与鹿>
◇文政5年(1822)向町に生まれる(長瀬)。
◇春祭琴高台「浪間に泳ぐ鯉」「日雲に烏、月波に兎」天保9年(1838)作。
◇麒麟台「唐子群遊之図」は25歳の時の作。下絵に「弘化2冬至春」(1845)と記される。
◇恵比須台の龍、手長足長、獅子などの彫刻。弘化3年(1846)。
◇秋祭金鳳台の欄間の四季の花の絵。
◇日枝神楽台の「龍と獅子」を弘化4年(1847)に完成、24歳。(長瀬)
◇嘉永3年(1850)、伊丹へ。
◇八幡鳳凰台の下段獅子「乱獅子渡浪之図」は弟子 桐山屋和助(後、浅井和之)に手伝わせて彫った師弟共作である(34歳)。安政2年(1855)、帰郷して彫った。
<第7代 宗之>
◇龍神台は文化13年(1816)谷口与兵衛紹芳を棟梁にして改造。明治13年(1880)、宗之が改修、中段欄間の「波間の飛龍」彫刻も担当。
*『高山祭屋台とその沿革』高山屋台保存会平成17年復刻 ほか より
与六の彫り
谷口与鹿は生涯に次の建築等の彫刻を彫った。
◇宗猷寺庫裡玄関の「龍」
◇東山白山神社の太鼓枠「昇降龍」
◇了徳寺鐘堂四方飾彫刻「鳳凰、双亀、麒麟、以龍」
<琴高台の彫刻>
代表作はやはり屋台の彫刻である。与鹿は住んでいた屋台組の琴高台に波間に泳ぐ鯉の彫刻を施した。鯉にかぶさるようにしてうねる波は力強く、金彩色は琴高台の豪華さの代表的シンボルである。また太陽にかかる雲と烏、月にかかる波と兎が屋根の妻にあしらわれて、テーマを持って作り上げられた、上品上質の高山祭屋台となっている。琴高台は「鯉」をテーマにすべてがデザインされ
ていて、各所の金具や下段の欄間は鯉の顔を正面に見てデフォルメされたもので、見送幕も鯉に乗った琴高仙人が描かれている。
与鹿の鯉彫刻が取り付けられた後に、順次充実されていったのである。
<麒麟台の彫刻>
与鹿は22歳のとき麒麟台の彫刻を仕上げた。近所の子どもたちを連れて城山に出かけ、遊ぶ姿を見ながら構図を考え、見事な彫刻を完成させている。1枚の欅板から籠の中の鶏、動く鎖を付けた犬、遊ぶ童子を彫り出した。籠の中の鶏はくりぬき彫刻といい、耳かきのような特殊な刃物によって、多くの時間を費やして彫ったものである。春の高山祭の屋台の中でこの唐子群遊彫刻を見に来る
人は多い。良い材、良い施主(組内)、良い彫師によって完成された世界に誇る飛騨匠の作品であろう。
<恵比須台の彫刻>
与鹿は琴高台の鯉、麒麟台の唐子群遊に続いて恵比須台の彫刻を手がけている。恵比須台は正面と左右の5間に半円の窓があり、そこに龍を配置した。半円の窓に彫刻をバランス良くあてはめるには、下絵がうまく描け、また彫る技術、奇抜な企画力を持っていなければできない技である。春の高山祭のたびに、この踊る龍は見る人に感動を与え続けている。
また恵比須台には「手長、足長」の彫りが取り付けられている。向かって左に手長、右に足長が配置され、いずれも彼方をにらんでいるのがすごい。
手長、足長のモデルは、中国の古代神話の地理書『山海(せんがい)経(きょう)』に紹介する足が長い人と手が長い人から来ていると思われる。「長股(こ)の国」には足の長い人が住み、「長(ちょう)臂(ひ)の国」にはの手の長い人が住んでいる。
日本において、手長は山の怪物で山の幸を長い手で取り、足長は海の怪物で海の幸を長い足を使って取る怪物である。恵比寿台の彫刻で、長彫刻の足もとにはサンゴや壺が彫られている。何とも奇抜な企画の彫刻である。
*『高山祭屋台とその沿革』高山屋台保存会平成17年復刻 ほか より