旧山岸写真館
旧山岸写真館
当建物が建つ辺りは江戸時代初めには高山城の登り口にあたり、木戸や武家屋敷が置かれていた場所である。元禄5年(1692)の金森氏移封後、武家屋敷は取り壊され、しばらくは荒れ地や耕作地となっていた。明治に入ってからは煥章学校や公会堂などが建ち始め、文教地区として発展し、周辺の宅地化も進んでいった。
創業者の山岸喜一は、明治17年(1884)から高山で写真館を営み、その息子喜久蔵も跡を継いだ。当地へは大正7年(1918)に移転し、当建物は昭和37年まで写真館として使用されていた。
通称城坂の登り口、西側に東面して建つ木造2階建てである。南側にかつての店舗を置き、北側正面寄りに土蔵が付属している。
昭和63年(1988)に洋館の2階部分を中心に改築を行っており、かつて写場だった2階の大空間を和室2室としている。一階は縁板、床、敷居など比較的古い材が用いられており、あまり改造を受けていない。屋根の現状は背面側の流れが長い平入りの切妻鉄板葺屋根である。
正面は全面をモルタル洗い出しとし、1階は正面やや左寄りに切妻の小庇 をつけた出入口を置き、左手に2階と同意匠のアーチ付窓、右手に片流れ庇をつけた出窓を配す。小庇内側には鏝絵で商号を塗っている。正面入り口の引き戸はほぼ当初の形態を残している。
旧山岸写真館 土蔵
屋根は切妻鉄板葺の置き屋根で傾斜はやや急である。外壁は1階と2階の境に水切りを設け、1階分を目地のあるモルタル洗い出し、2階分を白漆喰塗とする。
2階西側には白漆喰塗の窓をもつ。1階の入り口も西側に開口し、漆喰塗大扉で内側中央は黒漆喰仕上げとしている。さらに内側に通称裏白と呼ばれる引き戸と、金網を取り付けた木製引き戸を設置する。
1階は間仕切りを持たないが、奥に襖を設け押し入れとしている。建物の年代は置き屋根という古い要素も持つが、腰の洗い出しや屋根の傾斜などから大正以降と考えられ、昭和初期と推定される。