本能寺跡お知らせ, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ本能寺跡 天正10年(1582)6月2日、明智光秀が謀反を起こして、京都本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した。包囲された信長は、寺に火を放ち、自害して果てた。 信長の嫡男織田信忠は、妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、万策尽きて自害した。長近の嫡男忠次郎も二条城で一緒に亡くなっている。 <寺町御池の本寺> 京都府京都市寺町御池にあり、寺名は「大本山 本寺」である。一般的には、本能寺と呼称されている。 天正17年(1589)、秀吉は本能寺の再建を現地再建でなく、寺町御池に移転を命じた。 本能寺の戦没者合祀碑には、金森長近の嫡男金森忠次郎の名前が記されている。 リーフレットより 本能寺 由緒沿革 当山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法蓮華経宗」という。 宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日隆聖人が法華宗の正義を再興せんが為、応永22年(1415)布教の根本道場として創建された。 史上有名な「本能寺の変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長も光秀の不意襲○を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙と化した。時の本能寺は四條油小路に在り、秀吉の代寺領換地となり現在地に移転。信長の第三子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。 現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ10ヶ年の歳月を費して昭和3年に完成、 大正、昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。 大本山本能寺 説明板より 関連資料 2-9-1 本能寺跡 2-9-3 本能寺 由緒沿革 2-9-2 金森氏の関ヶ原合戦東軍参加まで 資料集 077_286_本能寺の変(長近は長男長則を失う) 2020年7月22日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSC_0363_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2020-07-22 18:18:592022-06-22 13:47:05本能寺跡