東照宮境内遺構飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ東照宮境内遺構 所在地 西之一色町3丁目1004番地1他 所有者 東照宮 江戸時代 1箇所 平成30年3月29日 高山市指定史跡 構成文化財一覧 ※丸数字は配置図の番号 1.社務所(客殿) 1棟 ③ 庫裡(茶の間)は寛保3年(1743)の建築、客殿(本堂)は寛延3年(1750)に建てられたものを文政元年(1818)に建て替えたものである。 2.旧松泰寺墓地 1ヵ所 ⑤ 延宝8年(1680)に旧松泰寺の別当となった堯因をはじめ、江戸時代の5代の住職の墓が残る。ほかに第8代飛騨代官幸田善太夫(在任:1745~1750)の墓(市指定文化財)が所在する。 3.神池・神橋 1ヵ所、1梁 ⑥ 江戸時代からの東照宮境内を記した絵図に描かれており、文政元年(1818)の東照宮本殿建築時のものと考えられる。 4.金龍神社 1棟 ⑧ 神門は、旧松泰寺の前庭にあった江戸時代の門で、昭和18年(1943)に現在地へ移築されたものである。本殿は、明治11年(1878)建築の旧山王宮建物を昭和17年(1942)に再建したものである。 5.金龍神社跡地 1ヵ所 ⑨ 第18代飛騨郡代芝与市右衛門正盛(在任:1815~1829)が文政元年(1818)に勧請したのが始まりといわれる。 6.手水舎 1棟 ⑩ 文政2年(1819)の東照宮完成に併せ、塩屋から引いた原石を刻んで仕上げたものである。 7.石段 1ヵ所 ⑪ 江戸時代からの東照宮境内を記した絵図に描かれており、文政元年(1818)の東照宮本殿建築時のものと考えられる。 8.灯籠 2対 ⑫ 第22代飛騨郡代福王三郎兵衛忠篤(在任:1852~1858)が寄進した灯籠1対と、慶応3年(1867)銘の灯籠1対がある。 東照宮本殿 附 唐門透塀(県指定文化財) 〈県指定〉昭和47年3月17日 〈所有者〉東照宮 〈所在地〉西之一色町3丁目1004番地 〈時 代〉文化15年(1818) 〈員 数〉1棟 〈本 殿〉(1棟)方2.73m、霊廟建築、銅平板葺 唐門(1箇所)桁行1.82m、梁間3.94m、向唐門造、銅平板葺、 透塀 延長62m、亜鉛鍍鉄板葺 金森三代重頼(しげより)が元和2年(1616)、高山城内に徳川家康を祀った東照宮を奉祀(ほうし)したが、延宝8年(1680)現在地に遷座した。諸国が勧請(かんじょう)した東照宮は、全国で百数十箇所を数え、寛永年間(1624~1644)家光の東照権現に対する崇敬と幕府勢力の伸張に伴って建立されたものが多い。その後金森氏が元禄5年(1692)に出羽へ移封になってからは、荒廃してしまったが、これを嘆いた金森の子孫重任が神社の再建を志した。時の郡代芝与市右衛門正盛(18代)がこれに賛同し、町人の協力を求め、神社を再建したのである。大工棟梁は水間相模宗俊、彫刻は谷口与鹿の師である中川吉兵衛が受け持ち、文化15年(1818)4月上棟が行なわれた。 東照宮は再建のときから高山の町人が深くかかわり、景勝の地にあたるため祭礼だけでなく遊覧の場所としても親しまれてきた。明治の初めに書かれた『斐太後風土記』には、東照宮での遊覧の図が描かれている。 昭和36年、本殿と唐門の屋根を杮葺(こけらぶき)から銅版葺に改修し、昭和50年には石垣と石段を修理した。 建物外観をみると、唐門を取り込んでイチョウ透しの透塀が巡らされている。この一連の配置と建築様式は桃山時代に完成した廟建築の典型であり、飛騨では唯一の建物である。本殿は切妻造りで平側に唐破風造りの向拝を付け、正面屋根に千鳥破風を据える。千鳥破風とは、屋根面にのせる小形の入母屋破風のことで、破風の三角形を千鳥とみなしている。透塀や唐門、独立した本殿の建築様式は、全国の東照宮と似た形式である。 権現造りは本来、拝殿と本殿とを石敷の相の間で連結し、屋根は連続する形式だが、本建物の形式は簡略化されたものと考えられている。地方藩主や寺院が建立したものには、権現造とならず本殿を拝殿・石の間から切り離して独立させたものがみられる。 『高山市の文化財』 より 旧東照宮本地堂 附 棟札 〈市指定〉昭和53年2月23日 〈所有者〉東照宮 〈現在地〉西之一色町3丁目1004番地 〈時 代〉文政7年(1824) 〈員 数〉1棟1枚 〈本地堂〉(1棟)桁行4.73m、梁間4.73m、方三間方形造、向拝、下屋付き 〈棟 札〉(1枚)表 文政七年十月八日上棟 入佛導師御別當松泰寺住権大僧都法印良泰 天下泰平武運長久奉建立東照宮御本地堂一宇大本願主飛騨郡代芝與市右衛門源正盛 大工平吉 平四郎 利三郎 田中大秀謹誌 赤田光暢拝書(一部、他に願文等有)表面は赤田光暢が書いている。 裏 縁起文が田中大秀によって書かれている。 文政7年(1824)、郡代の芝正盛が願主になり、陣屋出入の大工小峠平吉によって建てられた。当初、東照宮祭神の本地仏である薬師如来を祀るために建てられたが、明治の神仏分離により、現在は稲荷社、菅原公廟(すがわらこうびょう)になっている。 木割りが太くて形態も美しい。方形造りに向拝を付け後側に下屋を配した様式は、この地方では珍しい。 昭和57年、セメント瓦がもろくなったため銅板葺に改め、土台の一部も修理した。 『高山市の文化財』 より 松泰寺の歴史 〈延宝8年(1680)〉 金森6代頼時(頼旹)が、東照宮の別当として美濃国赤坂(現在大垣市)にある真言宗智積院(ちしゃくいん)派の古刹(こさつ)、金生山明星輪寺宝光院の僧法印尭因を呼んで清鏡寺跡を修復し、一寺を勧請(かんじょう)したのが松泰寺であります。この年頼時は12才、僧尭因は24才であったといわれています。寺号は明星輪寺宝光院末東耀山松泰寺宝珠院(とうようざんしょうたいじほうじゅいん)といいます。 松泰寺第1世住職は権大僧都法印尭因(ごんだいそうずほういんぎょういん)といい、高山修験頭(しゅげんのかしら)(山伏修験者の頭)大乗院(大乗院は一本杉白山のことか)2世長風の子であったといわれています。 〈元禄5年(1692)〉 金森頼時(よりとき)が出羽国上山(でわのくにかみのやま)(山形県上山市)へ国替となり、東照宮もいっしょに移ったため、松泰寺は高山御役所(陣屋)の鎮守稲荷の別当を務めることになりました。 〈宝暦8年(1758)〉 上山から、更に郡上八幡へ国替された金森は、改易(かいえき)(身分を奪われ、領地、家屋敷をとりあげられた)となり、東照宮は再び西之一色へ戻ることになりました。 〈文化10年(1813)〉 桜山八幡神社の別当、長久寺良賢が松泰寺第9世を兼務することになり、荒廃してしまった東照宮の社殿修復を榊原郡代に働きかけ、又松泰寺を金50両で長久寺持としたことなど努力しましたが、こころざし半ばにして死亡しました。(享年32才) 〈文化14年(1817)〉 良賢のねがいは、芝郡代に引きつがれ、東照宮の移転修復が進みますが、松泰寺は金50両で赤坂宝光院を離脱し独立します。 〈文政元年(1818)〉 東照宮の移転修復工事が完成します。 〈文政13年(1830)〉 八幡長久寺との兼帯をやめ、両寺に住職を復活し、第11世を良典が務めることになりました。 〈天保3年(1832)〉 第12世寛全房尭深(かんぜんぼうぎょうじん)のとき、金100両で、長久寺より離れることになりました。 〈天保11年(1840)〉 住職が居なくなったため、国分寺と長久寺が1ヶ月交替の輪番で寺を守ったといいます。 〈明治2年(1869)〉 明治維新で、神佛混交が禁止(神佛分離令)され、それまで高山町会所が世話役を務めた東照宮と松泰寺が西之一色村へ引き渡されました。その後、神道を重くみる世相の中で松泰寺は廃寺となり、佛像、佛具は近在の真言寺へ四散してしまい、いまでは東照宮にわずかの経典、古文書類が残されるのみとなりました。 松泰寺の面影を残すものは、東照宮社務所客殿、内神殿の黒塗りの上がり框(かまち)、稲荷社(元東照宮の本地堂・護摩堂)であったといわれています。金龍神社の神門は、元松泰寺の山門で、現社務所前の松の木の下にありました。玄興寺本堂の軒先にかけてある喚鐘(かんしょう)の銘文に、松泰寺をみることもできます。 *高山市教育長石原哲弥が松泰寺第4世住職権大僧都法印尭光(ごんだいそうずほういんぎょうこう)の書き残した「東耀山松泰寺宝珠院代々記」など東照宮に保存されている古文書を整理して上記をまとめた。 <旧松泰寺墓地> 旧松泰寺開山法印堯因をはじめ歴代(5代まで)住職の墓が残っており、第8代飛騨代官幸田善太夫高成の墓もある。 金龍神社建設の歴史 ①高山城内の黄金神社 金龍神社は、飛騨を平定し、飛騨の国主となった戦国武将金森長近公を祀る飛騨で唯一の神社である。長近は飛宮川の東岸にあった天神山古城跡を選んで、新たに城を築き、後に高山城内に「黄金神社」を祀った。黄金神社の主神は金山毘古神、金山毘売神で、その後、鉱山の功労者茂住宗貞、宮島平左衛門を相殿に合祀した。この金森時代における黄金神社の位置は高山城内にとあるだけで、位置はわからない。 幕領となってからは、延享二年(一七四五)古城跡に宮島平左衛門の霊を慰める「宮島霊神」を祀ったとある(『飛州志』)が、その場所は特定できない。明和年間(一七六四~七二)、八賀町(現丹生川村)の渡辺伊兵衛が二之丸に小祀を設け宗貞の霊を祀ったとある(『紙魚のやとり』)。ここで初めて二之丸の場所が出て来る。 文政二年(一八一九)三月二日、一之町大阪屋太右衛門らが、二之丸の小祠が落ちぶれているので、堀の北面平地に再興したいと御役所へ願い出たが、新祠を建てることは許されず、翌年堀の上に祠を建て金の神祭(五月四、五日)を執行したとある(『紙魚のやとり』)。この祠が、古祠で、覆殿のみを新築したものと思われる。この時に、堀端町側(東)へ向いた社殿となった(第二一図)。本社が東に向いていることは、知られていなかったことである。安政年間~明治初年には銀絞吹所の守護神となっていたことがある。 明治になってからは、明治五年拝殿修理のため、社内杉の木三本と、水無神社の古神楽殿をゆずり受けて建替えたとある(里正日記)。明治十二年、神宮教中教院大講堂が創建された(忠孝苑大神宮)のを機会に翌十三年二月、大講堂の東側に社殿を移築した。この時、覆殿、拝殿は取り壊されたが、本社はそのまま移転した。 以上、流れをまとめると、①慶長年間、鉱業開発祈念のため勧請された=黄金神社、金山―、②直轄地時代は平左衛門の霊を慰める=宮島霊神、③文政三年「金の神」として堀の上へ移築=金之神、④安政年間~明治初年銀絞吹所の守護神=黄金神社、⑤明治十三年、中教院創建により現在地へ移築=黄金神社 現在の黄金神社(PL三四~三六)は、ケヤキ造りの、非常に出来の良い社殿で、覆屋の中で大事にされてきた建物である。建築年代は専門家の判断を待ちたいが、文政以前の可能性もある。高山城内に残る数少ない確かな建築物であり、重要である。『高山城跡発掘調査報告書 Ⅲ』 ②高山城内の東照宮 元和2年(1616)4月17日、徳川家康が75歳で亡くなり、3年後の元和5年4月、金森3代重頼は高山城中に東耀山御宮(当時はこのように呼んだ)を勧請(神仏を招きまつること)した。これは徳川御三家並みの早い対応で、外様大名としては異例のことだった。 ところが元禄5年(1692)、領主金森家は幕府の命により、山形県上山へ転封となる。東照宮も神号碑(東照大権現と刻まれた石碑)1基を残して金森と共に上山へ移った。金森家は元禄10年(1697)、美濃国郡上八幡へ再び国替えとなり、東照宮も再移築している。 『金森家家説類聚』に「郡上惣鎮守八幡宮相殿に東照宮の霊櫃ましますなり、是は飛州にて重頼の代寛永五年御宮造営ありし時の神躰也」と、元文5年(1740)の記録がある。 宝暦8年(1758)、金森家は世に郡上一揆の責めにより改易、断絶され、家臣もお役御免となった。翌年、飛騨出身の旧家臣たちは国元(くにもと)へ戻ったものもいて、東照宮も共に帰って来たと思われる。 ③東照宮の再建 その後、松泰寺住職を兼ねていた八幡長久寺の良賢法印(桜山八幡宮の別当職)が東照宮修復を発案し、時の榊原郡代と、それに続く第18代飛騨郡代・芝与市右衛門正盛に願い出て、自ら江戸へ足を運び、この時すでに復興を許されていた金森家子孫を始め、幕府の要所へ東照宮再建を願い出たのですが、なかなか聞き入れて貰えないまま、わずか32歳で亡くなります。 しかし、良賢の願いはかなえられ、良賢の代わりに実務に当たった内山忠右衛門知澄(ともすみ)(薬種商、歌人)らの努力により、東照宮造営事業は一気に進められることになった。 東照宮再建事業のあらましは、田中大秀翁の『東燿山御造営日記』にくわしく書き残され(原本は飛騨高山まちの博物館にあり、その写しが東照宮に残る)、東照宮を知る上で貴重な資料となっている。 文化13年(1816)11月26日、東照宮再建の許可があったと、江戸の金森家(旗本になって再興されている)から連絡が入り、翌文化14年正月早々、良賢法印に代わった内山忠右衛門が江戸に出向き、金森家などとの打ち合わせをして帰り(2月16日)、早速、芝郡代に報告、4月の初めには造営に当たるための諸役・係も決められ、宮地見分(実際に現地を見ること)も行われた。 当時の東照宮敷地は場所が狭く、便利も悪いので、南の方へ移すことに決まり、更に作事方も決められ、地ならしから工事が始められた。 4月に入り、朱塗りの大鳥居が建てられ、15日、新宮(しんみや)への神移しは「まだほの暗き中で、神輿に奉りて据え奉る。中段御庭に四神の鉾をたて、頭(かしら)に其のかたち(青龍、白虎、朱雀、玄武)を彫りたるをすゑ、幡(はた)には葵の御紋を附(つけ)て、其分(そのぶん)に合う色(青、白、赤、黒)に染めたるなり」と、現在、高山市文化財となっている四神旗を初めて立てた様子も書き残されている。 この時、元禄5年から、旧東照宮跡に残されていた東照大権現の石碑が新しい本殿の床下に建て替えられた。本殿正面からはまったく分からないが、本殿裏の隙間から、そっとその石碑の裏を確認することができる。 東照宮の整備はその後も続けられ、文政2年、手水舎が造られた。手水鉢は塩屋から大持引きによって運ばれた大石を刻んだもので、手水舎の天井には龍の絵が描かれているが、今はよほど気を付けて見ないと、ほとんど分からない。最初は神橋(太鼓橋)を渡った石段の下に据えられていたが、昭和に入って現在地に移された。 ④松泰寺も建て替え 一方、東照宮大造営に併せ、松泰寺建て替えの評定も行なわれ、早速、地ならし(現在の東照宮社務所、内神殿敷地)から始められた。 当時の松泰寺は、現在、東照宮社務所となっている部分の西側山裾に位置し、庫裡は寛保3年(1753)、客殿(本堂)は寛延3年(1750)建築との記録が残されている(松泰寺第4世住職堯光法印の時代)が、築後年数は浅かったものの位置も手狭であり、敷地を広めて建て直されることになったようだ。 敷地の造成工事中、地下2間(約3.6m)ばかりのところに広さ1坪(3.3㎡)ばかりの岩窟が掘り出され、中から銭3つ(寛永通宝)と鐚1連が見つかったと書き残されている。 建築用材は、宮、片野、塩屋、江黒、池本、有巣などから伐り出され、敷石、石段などの石材も全て近くの村々から集められた人々の手(大持引と言った)によって運び込まれたため、時によって振る舞われた赤飯の包みを2,000食準備したのに、ほとんど余らなかったとも記されている。 工事が進むにつれ、東照宮への道の修理も行われ、苔川の玄興寺橋西詰から惣門までおよそ280間の道を幅6尺と定め、西之一色村人に請け負わせた。 ⑤金龍神社を東照宮跡地に建設 祭神・金森長近公 文政1年(1818)金龍神社竣功 金龍神社は、東照宮の移転大改修を行った芝郡代が、長近公の法号にちなむ金龍大権現の神号を得て東照宮の旧社地下段(添付図⑨の位置)に勧請したのが始まり。東照宮の移転大改修の行われた年の秋(文政元年)、芝郡代が神祇官吉田司家へ願い出、金森長近公の 法号(法名) 金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄(さきのひょうぶしょうしょほういんようちゅうそげん)大居士 にちなむ金龍大権現の神号を得て(吉田司家占部良長の名による神号軸が東照宮にある)、旧東照宮の下段を造成し、新社殿を建て、遷宮祭は9月17日に行われた。町方の各組頭は裃にて罷出、翌日は放生会(ほうじょうえ)(生きた鳥や魚などを放ち、自然への感謝を表す儀式)が行なわれ、町方各組より鳥1羽ずつ集められ、また若者たちによる角力(すもう)大会も盛大に行われたことが書き残されている。祀られた当時は、御役所や町方旦那衆によって大切に護持されたが、社運は衰退していった。 歴代の郡代と町年寄など高山町方旦那衆の財力に支えられてきた東照宮と金龍神社にとって一大転機となったのが明治維新。徳川幕府の崩壊と神仏判然令(廃仏棄釈)である。飛騨郡代の廃止と松泰寺の廃寺が、東照宮、金龍神社共に支援者を失うことになった。 明治2年、金龍神社は東照宮と共に西之一色村へ移管されたが、当時西之一色には鎮守神3社(山王・八幡・熊野)があり、わずか50戸たらずの村民が地域を分けて氏神としてきたが、突然東照宮神域全体の護持を委ねられた。明治41年、旧氏神3社は全て東照宮へ合祀されましたが、金龍神社はそのまま末社として存続された。 大正10年(1921)頃、高山の町方有志が城山公園金龍ヶ丘へ移すことを話し合ったようで、当時、西之一色に家のあった押上森蔵氏が次のように書き残している。「飛騨の有志が、金龍神社を高山城跡へ移さんとの議ありと、誠に当然の事にて其の企の遅きを遺憾とす。1日も速やかに実現せん事を欲す」と。しかし、実際には責任をもってまとめる者はなく、そのままとなった。それどころか、昭和15年秋に台風によって荒れた社殿が裏山へ落ちてしまった。 ⑥金龍神社を境内山裾に建設 昭和15年、東照宮社司となった熊崎義親氏がこの事態を憂い、再建をめざして行動を起こした。氏子総代の多額の醵出金(熊崎社司の懐古)を基に、高山市長森彦兵衛氏を会長とする金龍神社奉賛会を設立したり、全市町内会長を通じた浄財の寄付を依頼することにより、現在地への移転再建事業が始められたのである。 移転再建とはいえ本殿は、旧氏神の一つ山王社の社殿で東照宮へ合祀された際高山の旧家に買い取られ、解体保存されていたのを買い戻したもので、遷座祭は昭和17年9月2日に行われた。 引きつづき旧松泰寺山門を移転して神門とし、新たに玉垣を設けて神域を整え、事業の完成奉祝祭が翌18年8月7日に行われたが、長近公の遺品(鎧、短刀、鞭など)を寄付した金森家後裔の参拝もあって、遺品展が開催された。以後しばらく経って本殿、神門の屋根葺替と玉垣を含め全体を朱塗りにし、創建時を再現して現在に至っている。 戦災にあうこともなく、昔のたたずまいを引きついだ高山市は、今や世界的著名な町になったが、その基を築いた金森時代の再評価は益々盛んとなり、昭和56年、市民有志による金森公顕彰会が設立され、城山に銅像の建立、顕彰会の法人化、領国400年記念事業の開催など活発に進められた。 金龍神社も昭和61年、金森領国400年の記念大祭400年記念大祭と遺品展(社宝展)を開いたり、毎年9月1日には東照宮氏子による金龍神社例祭を欠かさず、その夜は西之一色町内会合同で松泰寺盆踊りを催すなど、東照宮氏子によって金龍神社の護持がなされている。 平成になって、金龍神社奉賛会が、蓑谷穆高山市観光協会長らの努力によって組織され、営繕事業協力金も積み立てられるようになった。その協力も得て、平成17年には金龍神社社殿の修理や境内整備が行われ、平成19年9月2日、金森長近公遷御400年祭が行われた。 *引用文献 「『むかし噺 西之一色』編著・発行人 竹ノ内信三 2014年発行」より *その他参考文献 「金龍神社考『飛騨高山の四季』第40号 平成13年1月1日発行 飛騨東照宮責任役員 竹ノ内信三」 『金龍神社再建誌』 高山市教育委員会編集『高山城跡発掘調査報告書 Ⅲ』高山市教育委員会発行平成八年 第2期 旧金(きん)龍(りゅう)神社(金龍神社の御祭神 高山市始祖金森長近公) 関連資料 1-3-13-1 構成要素位置・添付地図 1-3-13-1 東照宮境内遺構・指定概要(構成要素) 1-3-13-2 東照宮本殿 1-3-13-3 本地堂 1-3-13-4 松泰寺の歴史 1-3-13-5 金龍神社説明 1-3-13-6 「飛騨東照宮・金龍神社・松泰寺」縁起年表 資料集 048_257_東照宮境内遺構 2020年7月17日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/febc859788ca3304e3a7ae738f43b49a-scaled.jpg 1920 2560 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2020-07-17 10:59:352022-06-18 15:38:18東照宮境内遺構