武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構
武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構
武野紹鷗
文亀2年(1502)~弘治元年(1555)
大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。茶道においては、わび茶を好み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。
説明板より
南宗寺
南宗寺は、臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代、堺を支配した武将、三好長慶が父元長の霊を弔うため弘治3年(1557)に大林宗套を迎え、今日の宿院あたりに寺を開いた。その後大坂夏の陣(1615)にて他の寺院とともに焼失したが、当時の住職澤庵によって現在地に再建された。境内には茶道を完成させた千利休や師武(たけ)野(の)紹(じょう)鷗(おう)の供養塔などがある。また国名勝の枯山水(かれさんすい)の庭、八方睨(にら)みの龍の描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財に指定されている。
千利休と茶道
南宗寺には、利休一門とその師武野紹鷗の供養塔がある。利休の「茶禅一味」の精神基盤は大林宗套ら歴代の和尚のもとで禅の修行をし、確立されたと言われている。
境内の奥には、利休好みの茶室「実相庵(じっそうあん)」があり、師紹鷗遺愛の「六地蔵石燈籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟(けさ)形(がたち)手水(ちょうず)鉢(ばち)」がある。
説明板より
宇治御茶師
宇治にあって碾茶の生産に携わっていた家を茶師と称していたが、江戸時代になって、将軍家御用をつとめる特定の家を御茶師と呼び、それが制度化された。
御茶師の人数は時期によりかなりの変動があったが、18世紀頃の記録では御物御壺を預かる上林家が茶頭取(代官家)に任じられその支配下で朝廷および将軍家直用の茶を調達する御物(ごもつ)御茶師11家、将軍が東照宮へ献上する袋茶を詰める御袋(おふくろ)御茶師9家、将軍家が一般に用いる茶を納入する御通(おとおり)御茶師13家が数えられ、それぞれが仲間を組織して、各々毎年2名ずつが交替でつとめる「年行事」を中心に茶壺道中に対応して茶の調達にあたり、相互扶助・独善的行為の阻止などにつとめた。これを「宇治茶師三仲ケ間」と言った。
茶師は自家の相続や将軍家の交替の際には、誓詞起請文や由緒書を提出して幕府の認可を受けなければならなかった。
茶師の身分支配は京都町奉行があたり、茶の納入に関しては幕府勘定奉行支配下にある上林家の指示を受けた。
また、宇治茶師の各家は、家格や幕府との取引の多寡にかかわりなく、諸国大名のお抱え茶師として御用達をつとめ、大名から扶持米(ふちまい)、その他の特権を与えられていた茶師も多かった。
明治維新に際して、幕府、諸大名という積年の顧客を失った茶師の痛手は大きく、茶業から離れるものが続出し、茶師仲ケ間の組織は瓦礫した。
説明板より
宇治上神社
宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
宇治上神社の創建は古くさかのぼるが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきた。
本殿は、正面1間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっている。建立年代については、蟇(かえる)股(また)の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築である。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿である。意匠的には切妻造の母屋(もや)の左右に庇(ひさし)をつけた形であり、屋根はその部分が縋(すがる)破風(はふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられる。
神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられる。
本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっている。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
宇治市
説明板より
源三位頼政公の墓 宝篋印塔
平等院境内
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられた。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残している。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追擊を受け、平等院境内にて自刃した(齢76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
説明板より
仁和寺 名勝 御室桜
御室桜は、遅咲きの桜として知られているが、その数約200本で、江戸初期にはすでに現在の場所に植えられていたようである。また江戸時代中期には観桜の名所としても知られており、丈が低く根元から枝を張る御室桜と、その満開の花を愛でる人々の風景が『都(みやこ)名所(めいしょ)図会(ずえ)』にも紹介されている。
大正13年(1924)、国の名勝に指定された。
※都名所図会=安永9年(1780)、秋里(あきさと)籬(り)島(とう)、竹原(たけはら)春(しゅん)朝(ちょう)斎(さい)により刊行された本。多数の挿絵が庶民の心を捉え人気となる。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 御影堂
建立/江戸初期 寛永年間(1624~1644)
本尊/弘法大師
真言宗の祖師である弘法大師空海、仁和寺開山寛(かん)平(ぴょう)法皇(ほうおう)、第2世性(しょう)信(しん)親王(しんのう)を安置する。
現在の御影堂は、慶長年間(1596~1615)造営の内(だい)裏(り)清(せい)涼(りょう)殿(でん)の一部を賜り、寛永年間(1624~1644)に再建されたもの。蔀(しとみ)戸(ど)の金具なども清涼殿のものを利用するが、檜(ひわ)皮(だ)葺(ぶき)を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂の印象を与えている。
※清涼殿=内裏の殿舎(でんしゃ)の一つであり、天皇の日常生活の居所。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 観音堂
建立/江戸初期 寛永18年(1641)~正保元年(1644)
本尊/千手観音菩薩
現在の建物は寛永18年から正保元年にかけて建立。
千手観音菩薩を本尊とし、脇(きょう)侍(じ)として不動明王・降(ごう)三(ざん)世(ぜ)明(みょう)王(おう)、そのまわりには二十八部衆を安置する。また須(しゅ)弥(み)壇(だん)の背後や壁面、柱などには、極彩色で仏・高僧が描かれる。
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用される。
※須弥壇=本尊等の仏像を安置するために1段高く設けた場所。須(しゅ)弥(み)山(せん)に由来する。
仁和寺の説明板より
三千院
天台宗5箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東搭南谷に1堂を建立したのが起こり。
本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行なったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(3体・重要文化財)が安置される。
大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する5氏の筆により飾られている。
京都市
説明板より
桂春院
慶長3年(1558)に美濃の豪族石(いし)河(こ)壹岐(いき)守(のかみ)貞政(さだまさ)が桂南(けいなん)和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分かれる。方丈南庭は、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈り込みで蔽(おお)い、その下に東より椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に低地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。
茶室は草庵風の3畳の席で、藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みと伝えている。宗和型の灯篭がある。
京都市
説明板より
関連資料
2-34-1 武野紹鷗
2-34-2 南宗寺
2-34-3 宇治御茶師
2-34-4 宇治上神社
2-34-5 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
2-34-6 仁和寺 名勝 御室桜
2-34-7 仁和寺 重要文化財 御影堂
2-34-8 仁和寺 重要文化財 観音堂
2-34-9 三千院
2-34-10 桂春院
資料集